『フィルカルVol.3 No.1』

分析哲学と文化をつなぐ雑誌通巻5号
急にこれまでの倍くらいの分厚さに
今回は、分析美学の論考が2本に、前号の「大森靖子と推論主義」に対するリプライ、イベントのレポート記事などもあって盛りだくさんとなっている。


また、本号に「創造と複製-芸術作品の個別化-」を投稿した岩切啓人、「スーパーヒーローの概念史-虚構種の歴史的存在論-」を投稿した高田敦史、ならび
にコメンテーターとして森功次が登壇したトークイベントが、4月21日に田原町の書店「Readin’ Writin’」にて開催された。
このイベントについても、各論文のページで簡単に触れる。
4月21日にトークイベントを開催します。 | フィルカル

哲学への入門
デヴィッド・ルイス入門 第2回 反事実条件文(野上 志学
研究への招待
論文「T. M . スキャンロンと価値の責任転嫁説明-「理由への転回」の里程標-」(岡本 慎平)
イベント「哲学の夜」
フィルカル× n a g u n e「哲学の夜」(2017年10月29日)
議論「わいせつと「普通人」」(講師:八重樫 徹/司会&解説:長門 裕介)
文化の分析哲学
論文「創造と複製-芸術作品の個別化-」(岩切 啓人)
論文「スーパーヒーローの概念史-虚構種の歴史的存在論-」(高田 敦史)
論文「映画『ブレードランナー』の生命倫理学-虚実のあいだで詭弁を見定める-」(横地 徳広)

●川瀬「大森靖子と推論主義」の検討
(1)書簡「川瀬論文への質問」(古田 徹也)
(2)論考「推論主義の使い方」(新野 安)
(3)論考「「大森靖子と推論主義」へのコメント」(山田 竹志)
(4)論考「「大森靖子と推論主義」コメントへの応答」(川瀬 和也)
社会と哲学
報告「マンガを活用した哲学教育の試み」(萬屋 博喜)
レビュー
レビュー「2017年下半期書評」(長門 裕介)
レビュー「湯浅政明監督『ピンポン THE ANIMATION』」(小倉 健太郎

フィルカル Vol. 3, No. 1 ―分析哲学と文化をつなぐ―

フィルカル Vol. 3, No. 1 ―分析哲学と文化をつなぐ―

デヴィッド・ルイス入門 第2回 反事実条件文(野上 志学

わかりやすいよ〜
推移律とかがオイラー図で描かれていて、「ああなるほど」って気持ちになった

論文「T. M . スキャンロンと価値の責任転嫁説明-「理由への転回」の里程標-」(岡本 慎平)

鴨川メタ倫理学読書会(カモメ読書会)って名前は度々見かけたことはあったけれど
メタ倫理学や価値論で「理由への転回」とでもいうべき流れがあって、その中でも重要なスキャンロンの議論を紹介するというもの
全然知らなかったのだけど非常に面白くて、価値というものを、理由を与えるものとして分析することで、事実言明と価値言明とを結びつける、というものになっている。


スキャンロンの理論は3つの主張に整理されている

  • 価値の理由原理主義(原始概念は「価値」ではなく「理由」)
  • 価値の反目的論(価値に対して我々のとる態度は多様)
  • 責任転嫁的説明

この責任転嫁的説明というのは、価値を「理由を提供する他の性質をもっているということ」という二階の形式的性質として捉える、というもので、上述したと通り、事実(自然的な性質)と価値(非自然的な性質)とを結びつけるものとなっている。


責任転嫁的説明において、価値そのものは理由を与えないとされる。
例えば、どこそこの行楽地に行く価値はあるか、という問いに対して「名物料理があるから」「風光明媚だから」「気候がよいから」と答えられるが、これらに加えて「善さがあるから」とは言わない、と。
このあたりを読んでいて思わず、「いやいや、オタクはしょっちゅう「この作品、よさみがあるから見て」とか言ってるじゃん」と、思ってしまったw
もっとも、オタク(というか非哲学者)のいう「よさみ」は、単に、未分析の言葉であって、実際には、各事例において他の性質への言い換えや分析が可能なのかもしれない
と思いながら読んでいたのだが、その後、他の論者との応酬の中で議論が進み、
価値は理由を与えないという「消極的責任転嫁的説明」と、価値が理由を与えることもあるという「積極的責任転嫁的説明」という2つの考え方があるようになったらしい。
積極的の考えにたてば「この作品にはよさみがあるから見る」と、「よさ」という価値を理由にすることができる。

イベント「哲学の夜」

フィルカル× n a g u n e「哲学の夜」(2017年10月29日)
議論「わいせつと「普通人」」(講師:八重樫 徹/司会&解説:長門 裕介)
イベントレポート
そのタイトルのとおり「わいせつ」について。司法においては、わいせつの要件として「普通人の羞恥心を害する」とあるが、タイトルの「普通人」はそれ。


論文「創造と複製-芸術作品の個別化-」(岩切 啓人)

「創造であれば複製ではなく、複製であれば創造ではない」というテーゼに対して、「創造的であるような複製もある」ことを論ずる。
また、作品の個別化に関して、一致説と因果説の両方を退け、実践説を提唱する。
具体例としては、アプロプリエーションアートをあげている。
写真の方はなんとなく知っていたが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の方の作品は知らなかった
また、イベントで触れられていたが、『高慢と偏見とゾンビ』は『高慢と偏見』の文章をそのまま使っていて、哲学でも時々言及されている作品らしい。


イベントでは、論文では扱われていなかった、贋作・盗作とアプロプリエーションとの比較がなされた。
自分は、因果説を改良すればよいのではということを質問したのだが、あとで、ここでいう複製概念について自分が誤解していることに気づいた。
ここでいう複製は、機械的複製を指しているわけではない。模写なども含むものとしての複製。


イベントでは他に、論文タイトルに「創造」とあるが創造概念について論じられていないが、という質問があり、これはタイトルが悪くて、筆者の問題関心は「創造」の方にはあまりないという回答があった。


贋作などとアプロプリエーションでは、評価軸が異なるという整理がなされていたが、そうではないこともあるのでは、という質問がなされた。
ここで「アプロプリエーション」については広義の概念と狭義の概念があって、本論ではあくまでも狭義の概念(現代アートの一種としてのそれ)を扱っている旨説明があったが、広義のアプロプリエーションについても、美学的・倫理学的に興味深いあれこれがありそうだし、さらに概念整理が必要そうな感じであった。


また、アプロプリエーション・アートに美的な意味での悪はあるのか、という登壇者からの問いかけに対して
実物の作品を初めて見るときの感動を奪う、というものがあるのではないかという応答があり、議論が盛り上がった。
これが悪いとすると、アプロプリエーションに限らず、広報用・教育用のための模写や写真なども、美的に悪いことになってしまう。
また、ネタバレというのは美的に悪なのかどうかということでも話が盛り上がった

論文「スーパーヒーローの概念史-虚構種の歴史的存在論-」(高田 敦史)

「スーパーヒーロー」概念の変容について
なお、ここでいうスーパーヒーローは、いわゆるアメコミのそれで、日本の特撮は含まない。
「スーパーヒーロー」の定義を試みる議論ではなく、概念がどのように変わっていったかを記述していく試み
概念の歴史的変化を追っていくという方法論は、イアン・ハッキングが行っている歴史的存在論というもの
虚構種概念は、フィクションの哲学ではあまり多くは研究されていない、らしい。しかし、これ読むと結構面白そうなとこかもなーと思う。


イベントで、虚構内的概念として作中で言及されることはあっても、それがループ効果を引き起こすのは(少なくとも日本の特撮と比較すると)コミックならではなのではないか、という質問をしたところ、ユニバースの形成が大きいのではないかと答えてもらった。
ただ、ユニバースについては、マーベルが特にうまくて、DCは必ずしもうまくいっているわけではないらしい

●川瀬「大森靖子と推論主義」の検討

(1)書簡「川瀬論文への質問」(古田 徹也)
(2)論考「推論主義の使い方」(新野 安)
(3)論考「「大森靖子と推論主義」へのコメント」(山田 竹志)
(4)論考「「大森靖子と推論主義」コメントへの応答」(川瀬 和也)

報告「マンガを活用した哲学教育の試み」(萬屋 博喜)