橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』

この本は熱い!
200ぺージもない、薄い本だが、哲学的熱意(?)がこもっている。
何が熱いかというと、物理学について語りながらも、自らの哲学的立場をかなり強調していること*1


性質が実在するか、ということは、長らく哲学的議論の的となっていたわけで、いまだに続いている。
そもそも、性質が実在するかどうか、という問い自体が、僕にとっては非常に分かりにくいのだけど、しかし、モノが性質の束であると考えるのであれば、結構重要な問題かもしれない。
それはともかく、性質が実在するかという問いに対して、大きく分けて、実在論と経験論という2つの立場が在りうる。
科学哲学の世界では、この対立というのはなかなか盛り上がるわけだけど、現役の物理学や自然科学の世界で、この対立がどれくらい重要視されているのかよく分からない。というか、あまり問題にされていない気がする。個人的な勝手なイメージとしては、物理学者は潜在的には実在論にコミットしているのではないだろうか、と思っている。
それに対して、橋元は(多分)経験論の側にコミットしている。
まず、橋元は、色や温度をあげる。
色や温度という性質は、実在しない。つまり、それらは人間の側に依存している性質であって、モノの本性としての性質ではない。
このような性質のことは、哲学の世界では伝統的に、第二次性質などと呼ばれている。
第二次性質が実在しない、というのは、問題にならない。
一方で、長さや重さ、あるいはまさに時間といった性質は、第一次性質と呼ばれ、本質的なものと考えられてきたし、今でも考えられているところはあると思う。
しかし、橋元はそうした第一次性質と考えられるような性質も、モノにとって本質的な事柄ではないと考える。
そのような性質は、ミクロな状態の時にはない。
そのような性質は、ミクロな粒子がマクロな装置と相互作用を起こしたとき*2に生起する。

光子にとっては時間も空間も存在しないが、しかしそれでも光子は存在する。実在とは、時間や空間を超越した何かなのである。
p.116

光子は、実在している。だがその実在は、性質の束のようなものではない。何故なら、性質(時間性とか空間性*3)は実在しないから。
ここでいう実在を、橋元はカントの「物自体」のようなものとして捉えている。人間(マクロな存在)には、ミクロな実体を直接認識することはできない。マクロな装置との相互作用を通してしか、それを認識することはできない。そして、その相互作用において、時間や空間の性質が現れてくる。*4
時間という性質のないミクロな領域では、因果律排中律も破られる、ということが触れられている。
このまえの『現代思想』の量子力学特集で、量子論理やら何やらで、排中律が破られるという話はあった。
因果律が破られるというと、この前の『Newton』に載っていたQ&Aで、「時間は何故一次元しかないのか」「二次元以上あると過去と未来の区別がつかなくなり、因果律が破られてしまって何かと厄介だから」というのがあった。
そもそも、時間軸が二次元以上という想定自体が、エキサイティングすぎてわけが分からないのだが、過去と未来の区別というのは、時間軸の本数というよりは、時間の方向性によってなされているのではないか、という感じがする。



では、時間という性質はどのようにして生まれるのか。
まず一つには、相対論から、世界線とかミンコフスキー空間とかが説明される*5
ここで、ミンコフスキー空間の中に非因果的領域というものがあって、そこから、時間性というものがあるということがわかる。
ただし、まだ過去と未来の区別はない、というか、方向性はない。
ところで、この非因果的領域というのは、時間が実数、空間が虚数であるから、そういう領域があることになっているらしいのだが、空間が虚数であることというのが、非因果的ということによって説明されている。
虚数だから非因果的なのか、非因果的だから虚数なのか。というか、そもそも空間が虚数であるということの解釈というのはそれでいいのか。ここはちょっと、レトリックで誤魔化している感じがする。
「今現在」という時間が、他者とは共有できない、というのは面白かった。
「今現在」という時間は、点状ではなく広がりを持っているということが論じられるが、そこで急に持ち出されているのが、人間の脳細胞が空間的な広がりを持っているということである。空間的な距離がある以上、そこには時間性が滑り込んでくる*6。そのこと自体には全く異論はないし、その通りだと思う。ただ、脳細胞の話の持ち出し方が、唐突であるように思えた。
人間の身体の広がりをもって、「今現在」もまた広がりを持つということは、デネットも論じていた。


時間の方向性はどこから生じるのか。
そこで、エントロピーの話が持ち出される。エントロピーというのは不可逆過程である。しかし、エントロピーの増大が時間を生じさせているわけではない。
エントロピーが減少する世界も、思考実験としては可能である。エントロピーの増大は、たまたまこの世界でそうなっているということともいえるし、あるいは増大していると思うのは、既にその過程を観察する側にそのような方向性が前提されているからだともいえる。
物理学の理論から考えると、時間の方向性を導入する必要性はないのである。
時間の方向性がないような世界、これは既に先に触れたが、因果律と抵触する。
しかしそもそも、世界には時間の方向性などという性質は実在しておらず、人間ないし生命がその性質を見いだしている。
あなたの人生の物語」に出てくる異星人は、そのような性質を見いださない。方向性を持たない、ないし因果律という考え方を持たない形で、世界を把握している。物理学の理論としては、世界をそのように理解することも可能なのである。
ただし、それは人間の主観的な認知とはうまく整合しない。


時間の方向性を、橋元は生命の「意思」から導入する。
エントロピーの増大とは、秩序が無秩序に向かうことである。
一方、生命は、無秩序(死)に到らないように、秩序を保とうとする「意思」を持つ。この「意思」が、世界の中に時間の方向性を見いだすのである。
ところでこのような生命は、エントロピーが減少する世界では現れない。エントロピー減少するような世界は、思考実験として想定できるが、そのような世界には生命は現れない、と橋元は主張する。
これは人間原理ならぬ、生命原理ともいえるものかもしれない。
橋元は、ここから可能世界論を批判する。
エントロピーが減少するような世界、秩序のあり方がこの世界とは違う世界では「意思」が生まれないからだ、という。
三浦俊彦の可能世界論と、実は表裏一体のように思える。三浦俊彦は、秩序のあり方がこの世界とは違う様々な可能世界を想定することで、人間やこの世界の秩序の特別性を消去してしまう。
そういう三浦的可能世界論を読んでいると、人間原理的なものは何だか必要ないように思えてしまうのだが、三浦自身、近著では可能世界論を引っ込めて人間原理の方にいったらしい。


問題となってくるのは、生命の「意思」とやらである。
それは、進化の過程によって、エントロピーの増大に抗うようにして、獲得されたものであり、それがさらに「自由意思」となっていったとある。
「意思」と「自由意思」を区別しているのかしてないのか曖昧だし、また「努力」などという、これまた不適当な表現が出てきているのも気にかかる。
この本は、物理学の方面からアプローチするという趣旨なので、仕方がないといえば仕方ないのかもしれないが、生物学ないし進化論に関する説明が全くといっていいほど欠如している。
一応、進化の過程によって、と書かれているのだけど、その際に「努力」という表現を使うのはあまりよろしくないように思う。
因果の話をしているので、自由意思の話も出てくるのはある意味当然で、それなりの整合性はとれていると思うが、自由意思というかなり強いタームをかなり軽く扱っているような気がしてならない。
ただ基本的には、デネットの議論を接続させてやれば、うまく繋がるのではないかと思う。


最後に、「意思」と「記憶」が時間を創造するという話で締めくくられているが、なんというかフッサール的だなあと思った。


時間・空間の問題も、生物学・進化論の問題へとなっていくのだなあ、ということで、やはりこれからは生物学哲学ないし生物学的形而上学の時代なのだ、と言ったりしてみる。
その肝心の生物学の部分が、ちょっと足りないのではないかと思ったが、しかしエントロピーとの関係の部分についてのアイデアは非常に面白かった。
とにかく、哲学的熱意(?)ないし勢いが強くて、その点が一番よかった。


時間論の参考文献が、著者の解説と共に並べられているのもよい。
ハイデガーベルクソンの哲学というのは、現代の科学の知見を全く取り入れていないにもかかわらず、現代の科学の知見を取り入れて書かれたこの本と、結論が似ていて面白いということとか
あと、仏教の唯識論がすごい、という話。
唯識論というのは、唯物論でも唯心論(観念論)でもなく、世界はモノはなくてコトでできているという考え。コトというのは、言い換えるならば情報とか関係とか*7
西洋哲学なんて目じゃないぜ、唯識論はすごい、というようなことが書かれている。
僕は、東洋思想というものを全く勉強していないので、そこらへんは何ともいえない。そして実際、ハイデガーとかシュレディンガーとかが東洋思想に惚れ込んでたりしている。
ただ、仏教は西洋哲学が言っていないことを言っている、だからすごい、という言い方をされると、それはちょっとないんじゃないかと思ってしまう。

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

時間はどこで生まれるのか (集英社新書)

*1:現役の物理学者で、ここまで哲学的立場を強調するのは珍しいなと思ったのが、物理学者というよりは、物理の受験参考書とSF小説を書いている人らしい

*2:これを「観測」と呼ぶ、らしい

*3:つまり長さ

*4:75頁にも、同様の記述がある。つまり「光子には時間も空間も存在しない。光子にとっては無であるような世界の中に、われわれは広大な空間と悠久の時間を見ているのである」と。量子論とかをちょっと見てると、こういうイメージがよく出てくる。ブレーンワールドなんかもそうだが、ミクロな領域に詰まっている何かを想起すると、高揚してくる。哲学病の一種だと思うんだけど、量子論って新種の宗教にならないかな

*5:内井惣七『空間の謎・時間の謎』でやったなあと思い出した

*6:それは、非因果的領域によって時間性が生じることによっている。また「今現在」という時間が他者と共有できないこととも関係している

*7:関係という言い方をするならば、内井惣七の『空間の謎・時間の謎』は関係から時空を構成しようとする本。そういう意味で、内井はかなり反実在論者なのだと思う