アール・コニー+セオドア・サイダー『形而上学レッスン――存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド』

タイトルにあるとおり、形而上学の入門書である。
が、そもそも形而上学とはなんぞやというところが分からないとならないだろうが、それはそれ自体が一つのトピックになるほど、実は厄介であったりする。
とりあえず、訳者あとがきから要約しておくと、
形而上学とはまず哲学の中の一分野であり、わけても「時間」や「自由意志」や「必然性」などといったことを扱う哲学である。
「時間」や「自由意志」など誰もが哲学的だと思うトピックであろう。つまり、形而上学は、言うなれば哲学の中の哲学、「ザ・哲学」なのである。
さらに付け加えるならば、本書が扱う形而上学は、分析哲学のスタイルで行われるそれである。それはすなわち、「アメリカン・スタイル」の形而上学のことである。
アメリカン・スタイル」であるということは、分析哲学であるということに加えて、例えば「ターミネーター」などの例が使われていることや、過去の哲学者の引用が使われても哲学史上の正確さはそれほど重要視されていないことなども、特徴として挙げられている。


いわゆる分析形而上学ないし現代形而上学としては、以前、『現代形而上学論文集』 - logical cypher scapeを読んだことがあるのだが、面白いけれどかなり難しかった記憶がある。
その点、こちらは文章も内容も平易でありとても読みやすいし、トピックの量も豊富である。入門としては非常にうってつけな本ではないかと思う。
上の本とはかぶるトピックもあるのだが、そんなに重複していないかも。
10の章からなっており、それぞれ独立して読むことができる。
また、各章の最後に読書案内が付されている。

第1章 人の同一性

そもそも同一性とは何か、ということで、質的な同一性と数的な同一性が区別される。
人の同一性を担うものは何か、ということに対して、魂説、時空的連続性説、心理的連続性説がそれぞれ挙げられる。
魂説は、現代科学を前提とすると正当化しにくいという問題点がある。
時空的連続性説は、科学との相性はよいのだが、人間の心と身体が入れ替わるという状態が仮に起こったとすると、おかしなことが起こる。
そこで心理的連続性説というものが挙げられるのだが、これは複製の問題にぶちあたってしまう。
もっとも複製の問題は、時空的連続性説にもあり、これを解決するのには魂説は魅力的だが、何の根拠もない。
複製の問題を解決するためのアイデアが二つ紹介される。
一つは、パーフィットによるもので、心理的連続性は重要であるが、同一性は重要ではないと考えることによってである。しかしこれは、(複製が生じる際に自分だったものが)存在しなくなることを重要視しなくてもよいという提案で、受け入れるのには抵抗がある。
もうひとつは、人の同一性と数的同一性を同一視することをやめるという提案である。
読書案内:『人の同一性』(アンソロジー)、シューメーカー+スウィンバーン『人格の同一性』、ウィリアムズ「人の同一性と個別化」

第2章 宿命論

宿命論は、何がどうなるかということは予め決まっているという考えである。
この章では、宿命論を導くように思われる推論を一つ一つ見ていく。ここはまさに分析哲学という感じで、宿命論っぽい議論を全て、前提と結論からなる推論に分析して、前提がおかしくないかを検証しておく形で進められる。
いくつかの議論が紹介されるが、一見正しそうに見える前提の中にも、例えば詳しく見てみると二つの意味にとれるような主張があって、それを分けて見れば正しく結論が導かれないなどの問題点があったりすることが見えてくる。
ここでは、宿命論を導く推論はどれも問題があると一応結論づけられている。
読書案内:テイラー『哲学入門』(宿命論擁護派)など

第3章 時間

時間とは何か。まずそれに対して、時空理論、つまり時間とは空間のようなものだという説が提案される。
時間と空間の類似点が3つあげられている。
1つは、実在するかどうか。空間的に遠い対象は直接見ることができなかったりぼんやりとしか分からなかったりするが実在している。時間的に遠い対象もまた同じである。
2つ目は、部分に関して。物質的対象は空間の部分を占めるが、またある一定の時間を持続する場合、それは時間の部分を占めている。
3つめは、「ここ」と「いま」にかんして。どちらも話者が存在している空間や時間によって指すところが異なり、客観的な「ここ」や「いま」がないということが共通している。
時空理論への反論としては、時間は流れるものだというものがある。
変化、運動、因果関係が、反対するために持ち出されることだ。
運動にかんする時空理論への反論は、空間は前後に移動できるが、時間は前後に移動できないというものだ。それに対する再反論としては、テイラーが、時間と空間を対応させる主張についての注意が役に立つ。つまり、時間と空間を全て入れ替えて主張を作らなければならない。
空間移動に関する主張は、時間次元を暗黙に参照している。逆に言うと、時間移動に関する主張は空間次元を参照にして作ることができ、時間の前後移動についてはその意味で可能なのである。
最後に因果の話。母殺しのパラドックスについて、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『ターミネーター』が例に挙げられる。そして、『ターミネーター』に関していえば、タイムトラベル物においても矛盾が生じない事例であり、タイムトラベルが概念上必ずパラドックスを引き起こすようなものではないことを示している。
ちなみに註によれば、矛盾しないのは『ターミネーター1』であり『ターミネーター2』は矛盾していると述べ、「哲学的観点からすれば(映画的観点と同様に)ターミネーター1が三部作の中で圧倒的に一番だ」と述べている。
読書案内:インワーゲンとジマーマンが編集したアンソロジー「Metaphysics」など

第4章 神

神の存在論的証明について。
まずは、第一原因の議論から。この推論については、まず、どんな結果にも必ず出発点となる第一原因に達するという仮定が怪しいとされる。何故なら、無限の系列というものを思い浮かべることが可能だからだ。因果の系列が無限ではないということを示す事ができなければこの仮定はなりたたない。また、もし第一原因が存在するならばそれは神であるという仮定も怪しい。何故何かが存在するために神が必要なのか。なんのわけもなくパッと存在するものはないのではないかなど疑問が生じる。充足理由の原理が持ち出されるが、そもそもその原理自体根拠が弱い。
因果関係に似たものとして、依存関係による議論も紹介されるが、こちらも怪しい。
因果関係や依存関係からの議論は、「何かしらの結果がある」という単純な事実だけから出発して神にまで至ろうとしている推論で、土台が弱すぎる。
そこで、もう少し色々な事実を組み入れて、神の存在を証明しようということで、デザインに訴える推論が紹介される。
秩序があるから必ずデザイナーがいるとは限らない。しかし、デザイナーがいると考えるのが最良の説明かもしれない。
だが、この世界は本当に秩序だっているのか。秩序だっているとして、本当にデザイナーの存在に訴えるのが最良の説明なのか、など疑わしい点は色々とある。
次に、概念という点から考えてみる。「われわれが考えうる最も偉大な存在(GCB)」という概念から、神の存在について推論するのである。GCBは最も偉大なので、その性質としては「存在する」というものを含んでいるはずだから、GCBは存在する。GCBは神のことなので、神は存在する、という推論だ。
ここでは、「GCBという概念がある」ことと、「GCBという概念はターゲットをもつ」ことを区別して考える。概念がターゲットを持つとは、その概念に当てはまるものが存在しているということである。そして、概念が性質を要求していることとターゲットを持つことを区別する。GCBは「存在する」という性質を含むというのは、「存在する」という性質をその概念が要求していることを意味するのであって、その概念のターゲットを存在するということまでは言っていないのである。

第5章 何かがあるのはどうしてか

そもそもこの問い自体が、何を問うているのか理解するのが難しい問いである。
何故何もないということなく、何かがあるのか。
これをパラフレーズすると、何もないような世界は不可能なのか、あるいは必然的に存在するものはあるのか、ということになる。
4章では神の存在論的証明を見てきたが、ここではまず、神による必然論というものを見ることになる。神が必然的存在であるならば、この世界も必然的ということになる。
これはちょっと強力なので、<最大限に完全なもの>という概念が存在するかどうかということを論じていくことになる(もちろん、<最大限に完全なもの>というのは神のことかもしれない。そうでないかもしれない。ここではそれは重要ではない)。
次に、最小限の世界というものを考える。最小限の世界にすら存在するものは必然的存在である。一方、この世界にはそれ以外の存在(偶然的存在)がいくつもある。このような存在しなかったものが存在するのは何故か。
これには、人間原理による説明、神を使った説明、傾向性を使った説明、統計学的な説明がなされるが、どれも全く問題がないとはいえない
読書案内:ニコラス・レッシャー「存在を説明することについて」、デレク・パーフィット「なぜ実在はこの姿をしているのか?」、ロバート・ノージック「なぜ何もないのではなく、ものがあるのか?」

第6章 自由意志と決定論

まず、強い決定論と自由意志論が紹介される。それから、ちょっと寄り道として量子力学が紹介されるが、これは検討した結果、自由意志論にとって重要と思われないのでスルーすることにするとなる。
そして、弱い決定論が提案される。これは、自由意志論者は自由という概念について誤解しているから、決定論と衝突してしまうのであって、自由というものを適切に理解されるば衝突は解消されるというものだ。
では、どのように理解すればよいのだろうか。
まず、「自由な行為とは行為者の信念と欲求によって引き起こされた行為のことである」というのはどうか。これは例えば、催眠などである信念と欲求を持たされてしまった場合の行為も、自由な行為とされてしまうので、よろしくない。
では、「自由な行為とは行為者の信念と欲求によって引き起こされた行為である。ただし、行為者がほかの人によってその信念と欲求を持つように強いられてはならない」ならばどうか。問題は、「強いられる」とはどういうことかということだ。これを説明しようとすると、結局強い決定論に巻き取られるか、循環した定義になってしまうかに陥る。
最後に、「自由な行為とは行為者の信念と欲求によって引き起こされた行為である。ただし、それらは「自分自身」から来たのでなければならない」というものが検討される。今度の問題は「自分自身」である。一階の欲求と二階の欲求を区別することによってこれを説明しようとする。一階の欲求と二階の欲求が合致したとき、自分自身からきた欲求であると考えるのである。いわば、その欲求は自分らしいものであるのかどうか、ということである。もっともこれも、二階の欲求と一致しないような欲求を自由意志によって持つこともあるだろうと想定できることや、自分自身というものが変化していくということといった問題を抱えている。

第7章 物体の構成

これは、粘土で像を作った時、それは粘土なのか像なのかという問題である。
粘土で作られた像を持っていて、次の瞬間それを破壊したとしよう。すると、像は無くなってしまうが、相変わらず粘土の塊は持ち続けている。粘土の像は、実は粘土の塊と像という2つの対象からなっているのである、という考えがあるのだが、これは明らかにおかしいように思われる。これを構成のアンチノミーと呼ぶ。
このアンチノミーには4つのテーゼが暗黙の前提として隠れている。
・創造テーゼ:彫刻家は本当に像を作った(像は予め存在していたわけではない)
・持続テーゼ:粘土を像の形にしても、粘土は破壊されない
・存在テーゼ:像と粘土はほんとうに存在する
・不合理テーゼ:別個の対象が、1つの時点において1つの場所を共有することは不可能である
それぞれのテーゼを否定する形で、アンチノミーを回避する説がいくつか考えられる。
・物質だけ説:粘土だけが存在する。彫刻家は粘土の形を変化させただけで、新しいものは何も作っていない(創造テーゼの否定)。これが正しいとすると、あらゆる対象は宇宙の誕生からずっと存在し続けていたことになる。また、何かが消滅したと思われたときも(車がスクラップになったとき、ソクラテスが死んだとき)、それはただ変化しただけで実はずっと存在し続けていることになる(ソクラテスは姿を変化させただけで、今現在も存在している)。
・引き継ぎ説:彫刻家が像を造った時、粘土の塊は破壊されて像に引き継がれる(持続テーゼの否定)。引き継ぎ説は、引き継ぎの規則が恣意的になってしまうという問題点がある。形が変化したとき、ある存在(粘土の塊)が破壊され、ある別の存在(像)が生じるというのは地球人の考えに過ぎず、例えば火星人は、それが屋外にあるかどうかで、ある存在(外塊)が破壊され、ある別の存在(内塊)が生じると考えるかもしれない。
ニヒリズム:どの種の対象も存在しない(存在テーゼの否定)。これは感覚器官から入ってくる情報と矛盾していなければ、対象が存在していると考えなくても構わないという考えで、全くばかげたものではない。ニヒリズム素粒子の存在は認める。素粒子が感官を刺激して像の視覚や触覚をもたらすことは認めるが、像という対象が存在することは認めないのである。しかし、素粒子がもっともそれ以上分割できない最小の存在なのかどうかはまだ分からない。だとすると、ニヒリズム素粒子の存在すらも拒否しなければならないのか。それはあまりにもばかげている。
・共存説:2つの対象は1つの時点で1つの位置を共有できる(不合理テーゼの否定)。問題点は2つある。粘土の像を握りつぶしたとき、像は破壊されるが粘土は破壊されない。では像は粘土よりも壊れやすいのだろうか。しかし、この2つの物理的性質は同じであり、壊れやすさに違いがあるのはおかしい。もうひとつは、部分と全体の考えに反しているというものだ。全く同じ部分によって構成されているのに、2つの全体があるのはおかしい。
最後に、アンチノミーを解決するものとして、四次元主義があげられる。これは共存説を受け入れつつ、2つの反論を回避するものである。これは、粘土と像という2つの対象が同時に1つの場所に存在していることを認めつつ、この2つの存在の時間的部分が異なると主張する。また、四次元主義は、外塊や内塊のような存在も認めるので、恣意的であるという批判もうけない。
読書案内:チザム『人と対象』第三章(物質だけ説(メレオロジー本質主義とよばれる))、マイケル・バーク(引き継ぎ説を擁護)、イーライ・ハーシュ『同一性の概念』(外塊と内塊の元ネタ)、トレントン・メトリックス『対象と人』(ニヒリズム)、セオドア・サイダー『四次元主義の哲学』


レオロジーって語を、twitterのゆるふわ哲学クラスタとか見てるとわりと見かけるのだが、いまだに意味がよくわからない。物質だけ説のことを指すの?

第8章 普遍者

まず、普遍者についての解説、普遍者を肯定する根拠と反対する理由の両方が紹介される。
前者は共有する性質があることは確かなのだから、普遍者は存在するというもの
後者は、じゃあ普遍者は一体どこにあるのかというものと、関係に関するものがある。関係も共有する性質なので、関係もまた普遍者である。問題となるのは、例化関係である。例化関係を普遍者として認めると、次々と普遍者が増えていくことになる。また、「自己例化しない」という普遍者を考えると、パラドクスを生じてしまう。
こうした疑惑に答えるための代案がいくつか提案される。
・まばらな普遍者説:規則が恣意的になる。場所の問題を解決できない。
・トロープ説:トロープは普遍者ではなく個別のものであり、1つのトロープを例化できるのは1つの対象しかない。場所の問題を生じないが、独自の問題があり、2つのものが同じ形をしているとき、どのように説明すればいいのかという問題がある
・集合説:実例の集合と考えるのでわかりやすいが、実例をもたない性質は全て同じものと見なされてしまうという問題がある。
唯名論:「青い」ということについての説明を、「青い」という性質を有するということではなく、「青い」という語がまさにそのような対象について使われているということから説明しようとする。しかし、これは本当に説明となりえているのだろうか。
・概念論:普遍論は、複数の性質に当てはまる述語に対して、そのような性質があると考える。唯名論は、複数の性質に当てはまる語があることは認めるが、それが共有する性質が存在するためであるとは認めない。概念論はその両者の折衷で、語の一般性を与えるのが、われわれの心の中の概念であると考える。ただし、共有している性質に関しては、心の外から与えられているのであり、それが心の中の概念であるとはどういうことかについて問題がある。
ところで、この章には括弧書きでこのようなことが書かれている。
「概念論は、普遍論と唯名論の妥協案だが、これはこの説の長所ではなく単なる事実である。何故なら、この2つは別に和解する必要がないからだ。哲学の目的は、ある課題をきちんと説明できる考えを見つけ出すことであって、和解ではない。そもそも、普遍者の問題は、達成する必要すらない。暇な時に考えることにして構わない(以上要約(引用ではない))」
また、結論にはこうも述べられている。
「この問いについての哲学的な考察はまだまだあるが、事態がましになっているわけではない。(略)だが、様々なアプローチの長所と短所を評価することは知性に豊かさをもたらす。これは慰めになるだろう。」


第9章 必然性と可能性

必然性や可能性には様々な種類がある(例えば、認識論的なそれや道徳的なそれ)が、ここでは形而上学的なものに限って、2つだけ取り上げる。自然的必然性・可能性と絶対的必然性・可能性である。
自然的必然性は、自然法則と関わる。では自然法則とは一体何なのか。
規則性説:自然法則は規則性である。これは、自然法則から神秘性を取り除くという長所があるが、法則や必然性についての説明になってくれない。また、自然法則=規則性とすると、明らかに自然法則ではなさそうなものまで自然法則に含まれてしまう。
普遍者説:規則性説の問題点は解決できるが、神秘性が再び戻ってくる。
次に、絶対的必然性・可能性について。絶対的必然性は、自然的必然性よりもさらに厳しい。逆に、絶対的可能性は、自然的可能性よりもさらに広範囲となる。
ルイスの可能世界説が取り上げられる。絶対的必然性・可能性の神秘性は取り除かれるが、可能世界の存在を受け入れなければならない。
可能世界を使わずに神秘性を取り除くものとして、規約主義が取り上げられる。これは、必然性=定義の真理とすることなのだが、定義の真理では当てはまらないような必然性(例えば「クリントンは人間である」)があるように思われる。
読書案内:ヒューム『人間知性研究』(規則性説)、デイヴィッド・アームストロング(普遍者説)、エイヤー『言語・真理・論理』(規約主義)、デイヴィッド・ルイス(可能世界論)

第10章 形而上学とは何か

省略



哲学は、役に立たないごたくを並べ、特に答えも提示しないまま、などと言われることが多い。
形而上学などは、まさにその典型かもしれない。
確かに何かに役に立ちそうなことはないし、そもそも考えても考えなくてもよさそうなことばかりだし、さらにいえばどのトピックについても、様々な考え方が並べられるだけで結論は出ていないように見える。
しかし、僕はどの章も面白く読んだ(時々、躓くところもあったけれど)。
わけわからん難しいもののようにも思えるけれど、分かりやすく論じることは可能だし、そもそも形而上学は日常的なところから始めることができ、特別な技術も資料も必要とはしないので、誰にでもすることができる。
そして、重要なことは、確かに答えに近づいているような気にさせられることだ。
確かに、いくつかの説が並べられ、それぞれの問題点が提示されて終わってしまっている章は多い。しかし、そうした問題点を並べられることによって、そのテーマについて、より理解が深まっているはずであるし、例えばあげられた問題点は実は致命的なものではなくて、修正によって問題点も解決できるようになるのかもしれない。
また、筆者の一人であるセオドア・サイダーは、四次元主義の立場を標榜しており、いくつかの章では明らかに四次元主義を擁護し、それを「答え」としている。
哲学や形而上学は、問いに対する答えを導き出すのが非常に困難であるため、大抵の場合、答えは確かに出ていないが、かといって決して答えのない学問でもない、はずである。
世界に対して、何か少しだけでも、明晰なとらえ方をできるようになったかもしれない、と僕は哲学を通してそう思う。
8章でアール・コニーがいうように、形而上学の問題は決して日常的に解決しなければならない課題ではなく、暇な時に考えてみればいいようなものだが、それはきっと知性を豊かにしてくれる。


形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)

形而上学レッスン―存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド (現代哲学への招待Basics)