『未完のレーニン』白井聡

マルクス・レーニン主義というものは、それこそ世界史で習う程度の知識しかなく、思想としてどういうものであったのかということは全く知らなかった。
しかしこれが、なかなかどうして面白いものであった。
この本は、レーニンの著作の中から『何をなすべきか?』と『国家と革命』を取り上げ、この2冊を精読することで、レーニンの思想というものを描き出している。


レーニンの思想とは、革命についての思想である。
レーニンが求める革命とは、資本主義体制が打倒され、社会主義体制に移行し、国家が消滅することである。
そして革命とは、「まだここにないもの」が「いまここにあること」から如何に導き出されてくるか、という問題である。
そしてまた同時に、革命とは起こすものではなく、起きるものである。歴史の必然だからである。しかしそれはただ待っているだけで自然に起きるものでもない。歴史が革命へと動き出すようにしてやらなければならない。
つまり、レーニンがやろうとしていたことは、歴史の必然である革命が、歴史の現実になるためにどうすればいいか、ということである。レーニンは、「いまにここにある」現実だけを材料にして、「まだここにない」現実へと移行させようとするのである。


白井は、『何をなすべきか?』をフロイトの『モーセ一神教』と比較する*1
両者の思想に類似性を見て取っている。
資本主義と神経症が、同様の位置にある。
さらに、修正主義とキリスト教マルクス主義ユダヤ教がやはり類比的に捉えられる。
レーニンフロイトも、「抑圧されたもの」と「外部」についての思想である。
また、徹底した欲動断念による「偶像崇拝の禁止」を、マルクス主義ユダヤ教に見るのである。


レーニンは「力」の一元論を唱える。
「力」には、政治的な力のみしかないのである。その力が、革命状態への移行を引き起こすのである。
『国家と革命』において、階級対立とそれによって成立する国家というものを分析する。
階級対立が激化するほどに「力」は強まってくる。
さて、ブルジョワ国家では、その「力」はブルジョワが直接使うのではなく、国家の介在によって行使される。これをもって、国家における「力」を特殊な力と呼ぶ。
この特殊な力が、プロレタリアート独裁にいたるための、普遍的な力へと転化するのである。
特殊な力の介在生が脆弱性となるのである。


ここの要約ではうまく説明することができなかったが、レーニン・白井の論理展開にうむむ、なるほどと思いながら読んでいた。
内容と少し離れるが、冒頭で紹介されていた『グッバイ・レーニン』が見たくなった。

未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)

未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)

*1:フロイトは、マルクス主義に対して批判的だったようだが