今月の文芸誌(諏訪哲志、川上未映子芥川賞受賞第一作、他)

今日の夕方頃、大学の図書館にある文芸4誌を独占していたのは私です。
そういえば、同じ授業とっている先輩が、群像を読んでいたけど何を読んでいたんだろうなあ。

『すばる』

本谷有希子インタビュー

写真が何枚か載っていたのだけど、なんか印象が違う。トップランナーで見たときの顔をもう覚えていないんだけど。
インタビューの冒頭は「グ、ア、ム」の話。それが載っている『新潮』は持っているんだけど、読んでいなかったことを思いだした。
雑誌→単行本→文庫本で、毎回結構な量を書き直しているらしい。
インタビュアーの人が、単行本から文庫本の時の直しを一つ一つ数えたみたい。三点リーダーがなくなってたり、とか結構細かい違いも含めて、色々と。
もし全集作ることになったら、雑誌版、単行本版、文庫版と三つも版があって大変なことになりますね、でも全集作ることになったら、全集版を作ってしまうかもしれないですね、とか話してた。
今は、演出の勉強をしたいと。演劇をやってくには、演出ができるようにならないといけない。人の台本も演出してみたい。
芝居のことを考えているから、小説のことを考えられる。

その他

インタビューの次のページに、森雪之丞の詩が載っていた。
文字の並べ方で、大きな矢印になっている。

『新潮』

対談記事を二つ読んだ。青山真治の小説を読もうと思ったけど、時間がなかったのでパスした。あとで読みにいくかもしれないし、読まないかもしれない。

力の文明に抗う言葉/池澤夏樹中沢新一

もちろん、高橋、田中、東座談会が目当てだったんだけど、むしろこっちのが面白かったかも。
色々な話をしていて、それらを拾い読みしただけなんだけど。
何故日本には哲学がないのか。
それは、永遠とか持続するものとかを前提にしていないから。哲学をやるには、概念というそれなりに持続するような装置が必要になる。
池澤はフランスの知り合いにたいして、日本では季節が24も72もある、それぞれの季節に対する感受性が高いんであって、それらを全て貫くような思考はしないんだ、みたいな話をしたら、何か相手も一瞬納得した、とか。
あるいは中沢が言うには、どっかの先住民族の偉い人に貨幣を渡したら「これは壊れないのか」みたいなことを言っていたとか。
壊れずに続くことを大事にする文化ないし文明とそうではない文化ないし文明がある、と。
前者では、蓄積が起こって資本主義になる。後者では、贈与が中心のポトラッチな感じになる。
あとは、南方熊楠っていいよね、とか。
最近、森というものは見ることができないことに気付きました(池澤)、とか。上から見ても、それは樹冠しか見れていないし、横から見ても木の横側だけだし、中に入ってしまうと全体は見れなくなる。だから、森は不可視。
アイヌユーカラは、完全に動物視点で歌っていて、ラディカル。
今池澤は、世界文学全集を出しているけど、国とかは関係ない*1。そもそも、ゲーテの考えた世界文学だって、国籍とは関係ないものを目指していた。
あと、911以降のことについて考えられるような作品を集めたから、現代に近い作品が多い。結果として、第三世界の作家や女性作家の作品が多い、とか。

小説と評論の環境問題(第二部)/高橋源一郎田中和生東浩紀

面白かったこと。
まずは、インターテクスチュアリティの話。
読むときには、ただテクストだけを読んでいるのではなくて、他の色々な情報も付加されている。テクストだけ読めっていうけど、特に哲学とかはかなり固有名と絡んできている。ウィトゲンシュタインの文章とか、「ウィトゲンシュタイン」の文章だからこそというところはある。
それから、その話と関係していたはずなのだが、
小説という書き方と評論という書き方の話。
評論という書き方は、もうかなり枠ができてしまっている。その枠から出たかったので、小説を書いた東。最初は評論を書いたが、評論というのは結論を書かなければならないという枠があって、それだとうまく自分の考えていることを書けなくて、小説を書くことにした高橋。
また、ポストモダニズム系の思想というのは、そういう意味では文章の実験をしていて面白い(東)。つまり、論文でも小説でもないような枠組で文章を書くことはできないのか、ということ。*2
それから、キャラクターとしての(?)東浩紀の一貫性ないし倫理性の話。
つまり、今では、自分の発言というものはアーカイブされていていつ何時でもアクセスできるから*3、発言に一貫性を持たせるようにしている、とか。つまり、個人的には好きであっても、今までの発言との一貫性がとれなかったら、その作品への言及はしない、とか。
気になったこと。
小説を書いていて、小説は手紙だな、と感じたという東。
これって、笠井潔との往復書簡の時に、笠井潔に対してした批判のちょうど逆パターンになってしまってはいないだろうか。つまり、笠井潔は小説家としては「売文家」としてやっていってるけど、評論家としては私的すぎるのではないかということ。加えて、もし僕(東)が小説を書いたとして、小説なんて私的なことですよみたいなこといったら、売文家然としてやってきた笠井さんは怒るでしょ? ということも言っていた気がする。
それから、東と田中との文学観を巡る対立(?)
東は「文学」なるものに対して、アイロニーの立場をとる。つまり、「私にとっての文学はあるがそれは要するに私の趣味、好みの話であって、みんなで共有できる大文字の文学があるわけじゃない」ということ。田中が何度「東さんにとっての文学って何ですか」と聞いても、東はこう答えるのみ。
この構図は、『新現実』での大塚英志との対談でも繰り返されていたように思う。
そして、このアイロニズムは、あまりにもコミュニケーションの回路を切断しすぎではないか、というようにも思う。

魔法・誤配・存在――筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』論/桜坂洋

桜坂による評論。なんというか、まだ評論に対して恥ずかしがりながらやっているような気がしなくもない。
筒井はかついて桜坂の作品をハイデガーを使って論じた(らしい)が、桜坂はそのこと自体はとても喜びつつも、その頃毎日のように東と話していて、にわかデリダリアンになっていたので、何でハイデガー? とも思っていた。で、この論はそれに対する応答(?)みたいなものなのだ、と。
つまり、非存在の存在について考えること。
小説というのは、テクストを介したコミュニケーションである。
フィクションというのは、コミュニケーションの構造をメタ視する能力のシミュレーションである。
『ダンシング・ヴァニティ』はそのメタ視する能力に対して仕掛けられた罠である。

『群像』

「りすん」諏訪哲史

地の文が全くなく、鉤括弧にくくられた会話文だけで綴られていく*4
冒頭は、入院している妹と兄との、言葉遊びじみた会話が延々と続いていくことになる。その中には「ポンパ」という語も含まれている。
続いて、妹は祖母、兄、叔母に対して、自分の家族の話をせがむ。祖母の弟の娘が、「妹」の母である。祖母の弟は満州入植者で、娘もその娘*5も中国で生まれている。「妹」が生まれるも、父親が死に、親子2人で日本に戻ってくる*6。その頃、「兄」の方も母親を亡くし、親子2人の生活を送っていた。そこで、祖母がその二つの家族を一緒に住まわせるようになったのである。結局、戸籍を入れることはなかったが、一つの家族として暮らしていた。
ただ、妻に先立たれた「兄」の父親の方は、晩年かなり「アサッテ」な人になっていたらしい。
兄妹は、ある意味ではその父のように、「アサッテ」なことばかりしようとするのである。
さて、中盤に差しかかって、自分たちの会話が、隣のベッドに入っている入院患者によって録音され、小説にされていることが分かってくる。
ここから、いわばめくるめくメタフィクション的世界へと入っていくことになる。
自分たちは書かれているのではなく、自分たちこそが自分たちを書いているのだ、という認識の変化が起こるのが、よかった。

書評

川上未映子『先端で、さすわさされるわそらええわ』を、諏訪哲史が評するという素敵な組み合わせ。
諏訪曰く、川上の言葉は「液体」である。
小説だと思っていたらそれは歌なのであり、歌だと思っていたら小説である。器にあわせて様々に形をかえ、あるいは今まで見たことのないような形にもなる。しかし、それらは全て、同じ川上未映子という(液体としての)言葉なのである。

『文学界』

「あなたたちの恋愛は瀕死」川上未映子

受賞後第一作という表記もあるけど、大抵は受賞第一作って表記されるのを常々不思議に思っている。
冒頭から、文章のリズムがいい。体言止めと長い一文。そして短い文へ。
ある女が化粧品売り場から出てきて、ティッシュ売りの男に嫌がられ、行きずりの男と性交することについて考え続け、最後にはティッシュ売りの男にぶん殴られて終わる。
途中で、自分の容姿とか肌とかについてぐるぐると考えている。
最後にわりと急にティッシュ売りの男にぶん殴られるのは、ちょっと中原昌也かと思ったり思わなかったり。

師弟対談(×永井均)「哲学とわたくし ことばが奇跡を起こす瞬間とは」

川上の小説は、永井均的哲学的な内容と文体との二つでできている、ととりあえずはいえる。
『わたくし率』では、内容に気付いた人からは文体のせいでよみにくいと言われ、一方で文体ばかりを注目されてしまって内容に全然気付かれなかったりもした。
感覚とことばについて、川上が永井に問いを発する。
永井は、ことばというのは完敗するか完勝するかのどっちかしないんだ、という。
一方の川上は、完敗か完勝かではなくてそれらを行ったり来たりというバランスなのではないかと話す*7。それがもしかすると彼女の文体なのかも。
『乳と卵』では、緑子の言葉は日記という形で挿入されてくることになる。
読まれない文章の魅力というものを伝えたかった、とのこと。
だがまた、何かを書くことというのは読まれるということを前提にもしている。日記であってもそれは、自分に読まれることを前提としている。
からだのことと言葉のことを書こうとしている。『わたくし率』と『乳と卵』も、書こうとしていることは何も変わっていない。ただ『わたくし率』ではうまくいかなかった点があるので、そこを変えただけ。また、「女性性」を書いているとかも言われるが、別にそれを書こうと思っているわけではない、とか。
最後、子どもに関して。川上はなかなか産むことはできないなーという感じだが、永井は何か面白そうだから産んだ*8という。子どもが出来ると色々変わるよね、みたいな面白さ(?) あるいは一方で、子どもができるというのは自然のことで、産む、産まないということでもないと感じているのかもしれない。


今月は、とにかく諏訪哲志と川上未映子が面白かった感じ。
2人とも哲学系のバックボーンがあるのと、言葉の音*9の面をうまくやれないかと色々試行錯誤している感じが似ているのかも。
とにかく、この2人の小説を連続で読むっていうのは、なかなか心地よい体験だった。


文学界 2008年 03月号 [雑誌]

文学界 2008年 03月号 [雑誌]

群像 2008年 03月号 [雑誌]

群像 2008年 03月号 [雑誌]

新潮 2008年 03月号 [雑誌]

新潮 2008年 03月号 [雑誌]

すばる 2008年 03月号 [雑誌]

すばる 2008年 03月号 [雑誌]

*1:せいぜい言語圏

*2:参照:保坂和志『私という演算』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080113/1200222086

*3:何年か前のラジオ放送がニコニコにアップされてたとか

*4:ネタバレになるが、最後の最後でそうではなくなる

*5:つまり「妹」

*6:とはいえ、2人とも日本で暮らしたことがない

*7:彼女のもう一人の師である、池田晶子からの影響?

*8:永井は男なのでこの言い方は正しくない気がするが

*9:川上自身は、言葉は視覚的なものを重視しているらしいが、読者はむしろ彼女の言葉からは聴覚的なものを感じる