「現前性」について

「リアリズムとリアリティ」のつづき。
リアリティという言葉を、伊藤剛にならって、「現前性」と「もっともらしさ」に分類した。
大抵、リアリティという語が使われるときは、「もっともらしさ」についてのことが多いが、フィクションについて考察するのであれば、「現前性」について考えることはより重要であるように思われる*1
伊藤剛は、単なる絵が「現前性」を獲得するにおいて、「キャラ」というものの機能に着目したが、それだけではなく「フレームの不確定性」とその抑圧についても考察している。
また、その抑圧と抑圧の解除を、マンガのモダンとマンガのポストモダンとも呼んでいる。
ここでは、より広い見地から、フィクション表現のモダンとポストモダンについて考えてみたい。

「鏡」のように現実を写し出すメディア

東は「まんが・アニメ的リアリズム」(および「ゲーム的リアリズム」)に基づいた作品の特徴として「半透明性」という言葉を用いる。これは、柄谷行人が『日本近代文学の起源』において「写生的なリアリズム」(それはすなわち大塚の用語でいう「自然主義的なリアリズム」である)の特徴を「透明」という比喩で表現したことから取っている。目の前に見える自然をそのまま描写して文章に書き下ろす、そのような行為のためには、前提としてその目に見えるものに対する自身の思い込みや概念、言語による規定などを無化してまなざしをおかなければならない。「言語がいわば透明なものとして存在しなければならない」。

http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20071116/1195214987


「モダン」において、言葉とは現実世界を透明に写し出す「鏡」のように機能していたといえるだろう。
ここではメディア*2の持っている「歪み」「半透明性」は、意識されていない。
同様のことは、造形美術にも見られる。ルネサンスから19世紀にいたるまでの近代美術は、キャンパスが、あるいは大理石や粘土が、自然をそのまま写し出す「鏡」のように捉えていたのではないだろうか。そこでは、一体何が写し出されているか、どれだけ正確に写し出されているか、が問題となる。
そして、マンガにおいてはどうだろうか。「フレームの不確定性」が抑圧されたマンガにおいては、各コマがまさに「鏡」のように世界を写し出していると思われている。
また、ここで「鏡」という言葉を使うのは、ローティが、西欧の基本的な考え方として「自然の鏡」というものがあると指摘したことに拠っている*3
また、文学における自然主義が、近代科学に影響を受けていることも指摘しておきたい。
近代科学とは、自然を数式という「鏡」に写し出そうとする試みであった。

「鏡」性への疑い

しかし、現代において、そのようなメディアの「鏡」性、透明性を無邪気に信じることはなかなか難しい。
言葉が、キャンパスが、フレームが、各種メディアが、世界を透明に写し出している「かのように」思ってしまうのは、何らかの制度*4に従った、一種の「錯覚」である。
文字も絵具も、世界そのものではないわけだから、世界をそのままに写し出しているわけがない。
そのような「制度性」を暴き立ててきたのが、いわゆるポストモダン思想といえるだろう。そのような作業に最も熱中していたのが、フランス・ポストモダニズムだったろうことは想像に難くないが、20世紀の哲学のほとんどが同様の作業をしていたともいえる。
さて、そのようなメディアの「鏡」性への疑いが生じたとき、各種の表現はどのような道を進んだのか。二つ、考えられる。
一つは、メディアの物質性を追求する道。
もう一つは、「歪んだ鏡」として新しいメディアを追求する道だ。

メディアの物質性を追求する道

この道を進んだ、最も代表的なジャンルが、現代アートである。
現代アートの興味は、キャンパスそのもの、あるいは石や鉄そのものへと向かう。
キャンパスや絵の具や石や鉄を使って、世界の何を写し出すか、ではなく、それら*5がそれら自体としてどのように作品足りうるか、だ。
抽象画やミニマリズムは、その代表的な作品群といえるだろう。そうした作品は、何かを写し出しているわけではない。その材料となっている素材自体が、どのように構成されているか、が問題となる。


文学・文芸の世界では、エクリチュールの「物質性」*6を追求した作品群がそれにあたるだろう。
例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』ではないだろうか。エクリチュールの「物質性」としての、多義性が用いられている。もし、言葉が「鏡」であるならば、多義的であることは邪魔なだけである。しかし、言葉は確かに多義性を持っていて、それが「鏡」の透明度を下げることだろう。そのように「透明度」を下げるものが、エクリチュールの「物質性」だ。
あるいは、僕は『フィネガンズ・ウェイク』はほんの数頁しか読んだことがないのだが、柳瀬訳には、音韻的なリズムが感じられた。あるいは、漢字と仮名の混ぜ方やルビの多用、そういったものは、まさにエクリチュールの「物質性」と言ってよいのではないだろうか。
古川日出男は、後で紹介するもう一つの道を辿ったように思うが、音韻やルビへの拘りは、同様に「物質性」を意識した現れかもしれない。
あるいは、現代詩もまたそうだろう。谷川俊太郎の作品には、言葉遊び的なものが多いが、これも言葉が何かを写し出す、というよりも、言葉そのものへの興味関心であるはずだ。
読んだことがないのでなんともいえないが、バロウズなんかも近いのではないだろうか。


マンガの世界でいえば、ワク線の「物質性」に着目した表現がこれに類する。
つまり、登場人物がワク線を突き破ったり、ぶら下がったりするような表現である。


現代アートととの境界線上の運動になってくるが、ダダイズムシュールレアリスムにも、やはり同様の興味関心を見ることができる。
映画作品においても、そのような流れを汲むところでは、フィルムの物質性を追求し、フィルムに直接モノを置いて感光させたり、フィルムに直接色を塗ったりする表現がある。


こうした傾向は、一般に受け入れられにくいという共通点を有する。
現代アートであれ、ジョイスであれ、一部のインテリを除いて、人口に膾炙したとはいえない。マンガにみられる、ワク線の物質性に着目した表現も既に過去のものとなってしまっている。
これらの表現は、マンガの場合を除いて、過度に概念的(コンセプチュアル)、思弁的になってしまう傾向があるように思える。

「歪んだ鏡」として新しいメディアを追求する道

「歪んだ」という言い方は正しくない。これでは、どこかに歪んでいない正しい「鏡」があるかのようだ。あらゆるメディアは、もはや正しい「鏡」ではない。
「鏡」性を持つと考えられていた頃、それは現実世界を写し出し、現実世界がそこにある「かのように」現前させていた。
しかし、そもそもそこで現前させられる現実世界とは、どのような世界なのだろうか。
現代哲学やポストモダン思想が明らかにしたことは*7、私たちはある何らかの主観的認識を通してしか世界を認識できない、ということだ。
つまり、私たちが現象として認識する世界は、全てある意味で「歪んで」いる。
ものすごく大雑把に言ってしまえば、何が現実的なものであり、何が非現実的なものであるかは、各自の主観的認識に依存してしまっているのである。
とすれば、メディアを通して、何を現前させるか、に関しても同種の相対性が適用できるはずだ。
写実的な(ないし劇画的な?)絵と、萌え絵とを比べて、どちらがよりリアリティのある絵なのか、判断することは実は難しい。前者の方にリアリティを感じるのは、おそらくモダンの制度によるところが大きいだろう。何しろ、どちらも、結局のところは絵に過ぎず、決してリアルではないからだ。そうした絵に、リアルである「かのように」感じさせる、つまり「現前性」を与えているのは何らかの制度である。


伊藤剛は、マンガの絵に「現前性」を与えている制度として「キャラ」を挙げたが、もう一つ「フレームの不確定性」という概念がある。
モダンにおいては、これが抑圧されることで(「鏡」性としての)「現前性」が与えられた。
しかし、この抑圧を解除しても、(「鏡」性ではない)「現前性」が可能なのである。
代表的なのは少女マンガだ。ワク線がしっかりと描かれていないことも多く、代わりに、花やきらきらしたものや、あるいは独白を記したと思われる文字が描かれている。
これらの表現は、心象風景を「現前」させる機能を有しているだろう。
あるいは、萌えマンガなどで、ぶち抜きで描かれる全身像だ。
個々のコマを、「鏡」としてのフレームと捉えるならば、コマに収まらないこのような全身像は、単に不可解なだけであるが、そのような全身像に「現前性」を与えているものが「フレームの不確定性」に他ならないのである。


映画の世界であれば、SFXの台頭が挙げられるだろう。
「鏡」が世界を写し出すようにカメラを回しているだけでは、決して撮影することのできないような映像が、今では当たり前になった。
CG技術の発展が大きいことは言うまでない。
しかし、映画においては、そもそも自然主義的な、「鏡」的な表現は実は少ない。
初期のハリウッド映画は、セットで撮られていた。
また、SFXやCGの登場を待たずとも、モンタージュやトラベリング撮影などの用法によって、非人間的ないし超人間的視覚を映画は可能にしていた。
映画の技術は、映画による世界の写し出し方が決して「鏡」的ではないことを、かなり初期の段階から明らかにしていた。
ただし、いわゆるドキュメンタリーフィルムや、ネオリアリスモ*8といった、あたかも現実世界を「鏡」のように写し出す手法も多くある。
しかし、多くの優れた映像作家は、その「鏡」があくまでも擬似的なものであることに自覚的であるはずだ。


文学・文芸の世界でいえば、代表的なのはマジック・リアリズム*9だろう。現実世界には含まれないだろうと思われる幻想的、神秘的なものを、現実世界と同じようにあるいは同時に「現前」させる手法だ。
これは、東自身が言っているように*10、「半透明の文体」と接続される。
あるいは、ディックやヴォネガットといった、アメリカのSF作家などにも同様の傾向は見受けられるように思える。
ポストモダン文学、という奴が一体何を指すのか不明瞭なので、よく分からないが、これは上述した、エクリチュールの「物質性」を求めるタイプと、こちらのタイプの両方が混在していると思われる。
日本で言えば、古川日出男ファウスト系の作家たちは、確実にこちらのタイプである。
円城塔は、どちらの性質も持っているように思われるが、やはりこちらのタイプと考えた方がよさそうだ。
マジック・リアリズム、ディック、ヴォネガット、古川、ファウスト系、ライトノベルの半透明な文体、円城塔、彼らはみな、現実世界とは異なる、主観的認識によって浮かび上がる世界を「現前」させるようなメディアないしシステムを構築しようとする点で共通する。
ただし、一体どのような世界をどのようにして「現前」させようとしているか、では大いに異なるだろう。
ディックは幻覚的なものをSF的ガジェットを使って、ヴォネガットは「スローターハウス5」であれば異なる時間軸を飄々とした文体を用いて「現前」させようとしている。
古川であれば犬の認識する世界を、円城であれば数学的認識によって見える世界を「現前」させようとしている。
古川が面白いのは、デビュー作の『13』は、文体に関して言えば非常に自然主義的であることだろう。彼の作品は、現実世界をそのまま写したかのように「映像的」であった。だが、そこで彼がその「映像」の中に収めようとしたのは、神であった。
ここで着目したいのが「映像的」である、ということだ。ここに挙げてきた作家は、みな様々に異なる方法をとるし、現実にはあり得ないようなものを「現前」させようとするわけだが、まさにそれゆえに、具体的なイメージに富んでいる。
物質性(ないし「物質性」)を追求うる道が、概念的で思弁的になっていくとすれば、こちらの道はむしろ、具体的でイメージ的になっていく傾向があるのではないだろうか。

世界の複数性を「現前」させること

既に述べたように、世界を正確にそのままに写し出すことは出来ない。私たちはみな、それぞれの主観的認識に依存して世界を写し出している。
そして、主観的認識は当然ながら複数ある。もし一つしかないのであれば、それは「鏡」となりうる。
自然主義的リアリズム、少女マンガ的心象風景リアリズム、SFXリアリズム、マジック・リアリズム、古川的犬の世界リアリズム、円城的数学の世界リアリズムなどなど、それぞれに異なる対象を「現前」させる、複数のリアリズムがありうる。
となれば、まさにその複数のリアリズムを対象として「現前」させるリアリズムもあるだろう。
コミュニケーション志向メディアは、まさにそのことを可能にする。
ネットでは、複数の世界のあり方、複数の主観的認識が、まさに「現前」している。
自然主義的リアリズムとは異なるリアリズムを追求する方法も、作品世界を単一の世界にとどめるという点では、自然主義的であることを免れない。
単一な世界を描くというのは、単一の消失点をもった遠近法で描くということに近いのかもしれない。
ある世界を、単一の視点・消失点から作品に写し出す、ということだ(その視点位置の設定が奇抜であったとしても)。
作品世界内においてはそれでいいとしても、作品世界外に出てみれば、その作品世界を異なる視点から見ることのできる可能性に気付かされる。
それは作品世界以外でのコミュニケーション*11で、すぐに明らかになることだ。
そうした複数性に基づく、新たなリアリティ(新たな「現前性」)についての考察こそが、東浩紀の様々な著作に現れている。
『不過視なものの世界』「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」で繰り返し論じられる、全てが「見えるもの」になっていくという考えだ。
かつての(「モダン」における)「見えないもの」とは、ここでは消失点ということにしておこう。しかし、その「制度性」が明らかになるや、消失点とは「見えないもの」ではなく「見えるもの」となる*12。こうして、あらゆる「リアリズム」が「見えるもの」として(フラットなものとして)数え上げられ、「データベース」へと登録されていく。
動物化するポストモダン』における「データベース」という概念は、複数の消失点*13を可能にするような、ポストモダンにおける「見えないもの」なのである。
そうした「データベース」の地位に立つ者のことが、『ゲーム的リアリズムの誕生』においては「プレイヤー」と名付けられる*14
消失点的「見えないもの」の地位にいて単一の「見えるもの」を受容するのが、かつての作者や読者である。
データベース的「見えないもの」の地位にいて、複数の「見えるもの」を受容するのが、「プレイヤー」である。


ずいぶんと長い文章になったが、ここに拙作『物語の(無)根拠』を接続してみたい。
東は、複数の世界を「現前」させるシステムとして「データベース」と「プレイヤー」を提案した。
僕の『物語の(無)根拠』は、「データベース」には同意するものの「プレイヤー」には同意しない。「プレイヤー」を措定することは、再び単一の消失点を要求し、複数性を単一化させてしまうのではないか、と考えるからである。
「プレイヤー」ないし読者、作者がいるとすれば、複数の世界を眺望する地位ではなく、複数の世界の狭間ではないか。「データベース」の地位に立つことのできる人間/動物は存在しないのではないか。
では、複数の世界を「現前」させるシステムは何が担っているのか。
フィクションそのもの、世界そのもの、データベースそのものに他ならない。
フィクション(世界)そのものが自律的にフィクション(世界)を再生産しつづけることによって、世界は複数化し、その受容者たる作者ないし読者はそれらの狭間に立つだけである。
メタレベル(プレイヤー)は存在しない。

*1:「もっともらしさ」が作品にとって重要なのは間違いないが、それは技術によって達せられるところが大きい

*2:小説であれば言葉、文字

*3:僕自身は『哲学と自然の鏡』は未読だが

*4:そしてその制度のことが「モダン」と呼ばれる

*5:キャンパスや絵の具や石や鉄

*6:エクリチュール、すなわち文字の、文字通りの物質性は、インクの染みであることだろう。だが、インクの染み性を追求するとなると、それはもはや文学・文芸ではなく、現代アートの領域だろう。ここでは、比喩的な表現として「物質性」という言葉を使いたい

*7:そしてこの考えは遡ればカントによるものであって、20世紀の特権的な考え方でもないが

*8:戦争によってセット撮影が不可能になったため、屋外撮影をするようになった戦後イタリアの映画運動

*9:これまた、ボルヘス『伝奇集』以外未読だが

*10:『群像7月号』、筒井康隆との対談において

*11:二次創作など

*12:「〜リアリズム」と名付けられるようになる

*13:複数の超越性!

*14:「プレイヤー」は人間かつ動物であるような乖離的存在である。人間でなければリアリズムを認識できないし、動物でなければデータベースを感じられない