文学フリマ感想その2

感想その1はこちら
URLを書いていないと、スパムとして弾かれるため、今回、トラックバックを送る先、というのを書いています。
はてなは、idトラックバックというシステムがありますが、それにすると最新記事にトラックバックが送られてしまうので、文学フリマ告知記事などに送ることにしました。

gazeto vol.1 sideA

公沁舎
vol.1のSideAとBをジャケ買い。小説が載ってるBの方は人に貸しているので、マンガ論とかが載っているAから。
図版がふんだんに使われていていいな、と思った。
エロマンガは全く手のついてない領域なので、甘詰留太とかオノナツメとか、こういう感じなのね、と分かってよかった。
最後に載っている、ジョンベネちゃん殺害事件と『甘美少女DX』とを、幼女への憧憬と女性化願望から論じたのが、わりと面白かった。
エロマンガとかエロゲーとかにつきまとう、「二次元」の「女の子」の「内面」についての問題なんだろうなあ。
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エクセス

立命館大学ポストモダン研究会
これも二つ買ったんだけど、一つは貸しているので、ニコニコ動画特集の方。
といっても、自分はニコニコも2ちゃんも使っていないので、ニコニコ特集について評する立場ではないかもしれないけれど。
ここで話されていることは、ニコニコで始まったこと、というよりも、それ以前からネットで起きていた現象のように思う。ニコニコにも当てはまるだろうけど、ネット全体にもおおむね当てはまってそうな話だなあと。
批評では、Gyao、既存のテレビ、Youtube、ニコニコを受容の形態によって比較している。
全然メジャーにならなかったけど、はてなRimoを検討してみるのもよかったのでは。
あと、youtubeとニコニコでは、タグのあり方が全然違うようなので、フィルタリングに注目するならそこらへんを比較して欲しかった。
小説は、文章にしろストーリーにしろネタにしろ、もっとよくなるはず。どれか一つでも突き抜ければ。
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ポストモダン研究会はググってもヒットしなかったので、ゲンダイモンダイのブログにトラバしてみる。


ゲンダイモンダイといえば、アユラ1号の深津謙一郎「新海誠論」を読んでから、アユラ2号の鼎談でセカイ系に関する部分を再読した。
深津と西嶋、まりんの間で、微妙に論点がずれているような気がした。深津は、セカイ系を「文学」として読むことは可能な作品であるかと問うているのに対して、西嶋とまりんは消費者が世セカイ系をどのように読んでいるかということを答えている。
ただ、コミュニケーションの事故(「文学」)が可能かどうか、という問いは、そもそもその事故は作品内で起こるのか、作品外で起こるのか、という問いを引き起こすので、必ずしも彼らが完全に食い違っているわけでもない。

楽圓

オブラーツ☆ハート
フリープライス制だった。
「名前をつけてやる」
ちょっと実験的でわからない
「さよなら元木荘」
セ、セリフしかない……
「フィクションず」
「第1回1000のポエムとベムベラベロ」という章題から分かるとおり、佐藤友哉へのオマージュ(?)文体にも佐藤友哉の影響がある。
しかし、話が途中で残りは「つづく」ということなので、話に関しては何ともいえない。続きは読みたい。
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雲上回廊のコピー本2冊

雲上回廊
「7文字でつながる連作超短編を書こう!」
これ、最初はルールがよく分からなかったのでどう読めばいいか分からなかった。できれば、ルールは冒頭に書いて欲しかった。
というのも、最初は、普通のリレー小説として読んでいたから。
しかし、リレー小説ほどにルールが厳しくない。前の作品と7文字を共有していればそれ以外の部分は何一つ踏襲する必要がないのである。
ところが、最初の何人かが、リレー小説のように繋いでいったために、共通の世界観のようなものが浮かび上がってくる。とはいえ、もともとそれを共有しなければならないというルールはないので、それに続く人たちは全く異なる世界観やストーリーの作品を書く。
だがしかし、最初に何か共通の世界観があるかのように始まってしまったので、それ以後の作品も、あたかも同じ世界観に乗っかっているのではないか、と感じながら読んでしまう。
7文字の「転送」が、複数の作品世界をあたかも単一の世界「かのように」見せてしまっている。
これって、「インターフィクション」*1の実践ではないか!!
各作品については、それ単体で掌編として成立しているものもあれば、続く人への無茶ぶりを意図しているものもあった。
企画の性質上、統一性に欠くので、やや読みにくいことは読みにくかった。
あと、描写がきらきらしい作品*2が多かったように思う。それがある程度、世界観を共有させるのに役に立っている一方、そういう描写だけになってしまっているものもあった気がする。
また、逆に全然きらきらしくなてく、日常を描いたものが映えた。


ハイパーテキストプレイ本」
かっこいい言葉を並べていくタイプの作品であれば、このテキストプレイ?、自動記述という方法もまあありだとは思う。
気になるのは、これらの作品は書きっぱなしなのか、何らかの推敲が加えられているのか、という点。
この中に収録されている「無題」という、バレンタインデーに世界中がチョコレートになってしまう話は、もう少し短くすっきりとまとめられたのではないか、と思う。
あと、「幸せの錬金術」という作品は、最後の「無から幸せを作り出す」という一節だけ気にかかった。
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文藝ajo

東洋大学文藝サークル
今読んだ限りでは、てん竺に次いで面白い小説雑誌。ただし、てん竺はおそらく、テーマにしろ文体にしろ、あるいは小説(文学)観にしろ、特定の層をターゲットにしている感があり、万人受けするとはなかなか言いがたい。
そこいくと、こちらはかなりオーソドックスな文学、文芸ないし小説としてよくできている。少なくとも、大学生が文学と銘打って書いた小説として期待されるものとなっている気がする。
文章も、全員が例外なくうまい、少なくともある一定以上のレベルに達している。
その点で、惜しいと思うのが、タイトルとペンネーム。小説の文章と全くマッチしていない。非常に残念。
あと面白いなあ、と思ったのは、最初の4作品くらいまで全部、猫が小道具として出てきているところ。なんか、猫縛りでもあったのか、と思うくらい、猫が出てくる。


「Outro」
登場人物がみんなです、ます体で喋っていたりすることと、主人公の観念と、舞台となっている町とが組み合わさって、作品の雰囲気がうまく出ている。で、結局何の話だったんだって思うんだけど、この空気を味わうだけでもいいと思った。
時代設定が微妙に気になった。


「Run away」
逆にこちらは、すごくテーマが前面に押し出されている。テーマはある意味非常にベタだし、そこで使われている道具立てもベタだけど、「でも先生。折れた骨は繋がりませんよ」というセリフには共感できる。
これはきっと宇野某には「まだ90年代引きずってるの」などと言われてしまうんだろうけど(^^;)、自分は好きだ。
時代の話をすれば、もうこのテーマというのは確かに時代遅れで、この先どうするのか、ということの方が問われている。でも、一度このテーマに関わってしまった者*3は、とにかくこのテーマについて書くなりなんなりして処理しないと前には進めないのだと思う。


「九月」
よくまとまった掌編。
この章分け、意外といいかもしれない。


「西へ」
さらーと読めたんだけど、話やテーマを読み取れなかったので評しにくい。


「Bouton d'orc」
この冊子の中で一番面白かった。
吉田修一的群像劇的作品。世代も性別もばらばらな人たちが、鎖のように連なっている。一つ一つの人間関係は小さいけれど、それを連ねていくことで他へと広がっていこうとする想像力。セカイ系の次はこれだろう、と目されているタイプの想像力だと思われる。
難点をいくつか。
どうも章によって視点人物が変わっているようなのだけど、それが全然分からない。最後の章の「私」は他の章と違って男性なので、はっきりと別人物だと分かるのだが、他の章の「私」は全て同一人物のように読める。書かれている設定によって、どうも違う人物だということは分かるのだけど、文体というか性格というかその違いがない。
この視点人物を変えて群像劇的なものを書いていく、という手法は、ある意味で「他者」を描くためのよいツールだと思うのだけど、視点人物の書き分けができていないと無意味になってしまう。
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F創刊号

東京学芸大学現代文化研究会
これもかなり面白い。
今まで読んだ中では、一番内容的に充実している。
各文章の最後に「この論文を読んだ人はこんな本も読んでいます」というリコメンドがついていて、これが論文と負けず劣らずよい。


田山花袋少女病」―「少女萌え」の系譜として」
大塚英志は、田山の「蒲団」にキャラクター小説を見出したけれど、これは同じく田山の「少女病」という作品に萌えを見出す。
つまるところこれは、小説とかマンガとかアニメとか、あるいは文学とかサブカルチャーとかいった違いとは全く関係なく、ある種の閉鎖空間*4においては、キャラクター性というものが立ち上がってきてしまうものなのだ、ということではないか。
キャラクターに対して、性的なものが立ち上がるとき、それは個へと変化する。個と個の物語においては、それが手に入るとか入らないとかった要素が出てくる*5。この論文では、電車男の「エルメス」が例示される。「エルメス」はもはや、キャラクターではなく個なのである。そして、それゆえに主人公の電車男は自分を変化させていくのである。しかし、キャラクターにおいては、それは性的対象ではなく視覚刺激であって、個ではなく記号的な要素の組み合わせである。ここに個と個の物語はない。
しかし、田山の「少女病」は、主人公の男がキャラクター性を見出していることによって物語が動いており、主人公の男が一度女性(エルメス的な)と出会うと、彼は「性的弱者」となって物語が終わってしまう。
個人的には、このキャラクター性と個というものを、それぞれ伊藤剛の「キャラ」と「キャラクター」に対比させてみると面白い気がした。


「ヒップホップ試論」
これがこの中では一番面白かった。
まず、ヒップホップ史、クラブミュージック史について、僕はよく知らなかったので、よいまとめになった。CDが出てきてレコードが顧みられなくなったから、逆に貧しい層が自由にレコードを使えるようになってDJが出てきた、とか、今ではiPODDJもあるとか。
それから、ヒップホップに留まらず、サブカルチャーを考える上で面白い点がいくつかある。
まず、サンプリング。『動ポモ』はクラブ音楽をネタにして書かれた方がよかったと言われる程、サンプリングの話とデータベースの話は相性がいい。
ここでは、「元ネタ」とそれへのリスペクトを巡って、ヒップホップはオタク文化の動物的消費とは違う、ということが論じられている。が、「元ネタ」をリスペクトするか動物的に消費するか、というのは、ヒップホップかオタクかという差によるものではなく、濃いユーザーかヌルいユーザーかの差によるものなのではないか、と個人的には思う。
というわけで、このサンプリングの話は、よく言われることではあるけれど、広く現代の様々な文化圏においてみられる話ではないかと思う。
DJが取り上げることで過去の作品が再評価されるようになる、という話は、2ちゃんのやまじゅんの再評価(?)とも繋がるのではないか。あるいは、「DJ聴き」もオタクの世界に似たようなものがありそうだし。
しかし、この論文ではもう一つの話がさらに面白い。
元々、ヒップホップというのは、黒人音楽であり、いわば政治的な差別がその表現を支えるエネルギーとなっていた。
一方、日本では、そのような差別というものはほとんどない。それ故、日本のヒップホップは、別のことで、差異化しようとする。それが「売れたらダメ」である。
政治的、人種的なマイノリティの問題がほとんどみられない*6日本では、「売れていない」というマイノリティになることによって、ヒップホップのエネルギーを作ってきた、というのである。
この話は、森川嘉一郎が、オタクとはよりダメなものに惹かれていく、と述べていたことと重なるような気がする。また、はてな界隈が、非モテ非コミュといった新たなマイノリティ問題を作っているのは、はてな民なら周知の事実であろう。
ところが、この論文では、さらに「申し訳ナイト」というパーティを紹介することによって、この問題をさらに更新していく。
この「申し訳ナイト」というパーティは、普通の売れているJ-POPをダンス音楽として流しているパーティである*7
つまり、このパーティは「売れたらダメ」という価値観に対して批評的・対抗的に振る舞っているパーティなのである。


「<記憶>の向こう、約束された<熊>の場所、そして《私》のいる地へ―西島大介『アトモスフィア』」
村上春樹から始まるサブカルチャー*8に、西島のエヴァ以降のサブカルチャー史が接続される。つまり「ぼくはここにいてもいいんだ」の『エヴァ』、「ここにいるよ」の『ほしのこえ』、「もはやここにいない」の『凹村戦争』、「あなたはそこにいますか?」の『蒼穹のファフナー』という流れである。
この論文は、さらにその後に続く作品として『アトモスフィア』を挙げる。
この作品では、〈わたし〉や〈社会〉への「諦念」や「ふざけ」と、そこから《わたし》や《世界》へと向かうことが描かれているという。
ゲーム的リアリズムの誕生』の言葉を使うなら、〈わたし〉とはキャラクター、《わたし》とはプレイヤーということになるだろう。
また、論者に拠れば、そのような「解離的リアリティ」における「倫理」が『アトモスフィア』には描かれているという。
このサブカルチャー史の構想と、その中に西島大介を位置づけるということは、とても面白いことだと思う。
だが、この論文の難点は、『アトモスフィア』についてあらすじが載っていないこと。一度、ざっと読んだことがある作品だけど、かなり忘れていたので、論についていくのが難しかった。何の注釈もなく、二重括弧の《わたし》が導入されるのもすごく不親切。そんなわけで、肝心の作品分析がよく掴めなかった。
引用文献やリコメンドされてる作品を見ると、読んでいるものが自分とすごい近いなあと思った。


手塚治虫ブラックジャック』と二つの物語の記憶」
ブラックジャック』の中に隠されている「アトムの命題」(大塚英志)を、『フランケンシュタイン』と『ピノキオ』との比較によって見出す、というもの。
アトムの命題」とは、成長不可能なキャラクターが「傷付く身体」を手に入れることで成長することができるようになる、というもの。この論文では言及されていないが、伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』はこれと表裏一体だと思う。つまり、手塚が「アトムの命題」を描いたために、マンガの登場人物におけるキャラ性*9がキャラクター性*10によって抑圧されてしまった、というものだから。
ブラックジャック』はともすると単なる医療マンガのようにも思えてしまうが、ピノコという存在が、『フランケンシュタイン』や『ピノキオ』といった作品との類似性(物語の記憶)を持つことで、「アトムの命題」との繋がりを有しているとのこと。
リコメンドされている、前田愛『近代読者の成立』が面白そう*11


漫画『檸檬』と付属CDに入っていた「現代文学研究会のテーマ」も面白かった。
「テーマ」は、西島の「動物化最後の夜」に似てるかも。
それから、多分ここでもらったはずの、スズキロクの『六等星No.3』というちっちゃい奴がよかった。
ここのブログはトラバを受け付けていないようなので、トラバはなし。

*1:今回、文学フリマで出した拙作『物語の(無)根拠』において、『SelfReferenceENGINE』を論ずるために導入した概念。簡単に説明するならば、作品外現実(作者なり読者なり)といったメタを導入してフィクション世界の統一性を確保するメタフィクションとは異なり、フィクションそのものの働きによってフィクション世界の統一性を維持しようとする作品のこと。作者の単一性を拒む、という点で、15人による共作というのもまたインターフィクションっぽいかもw

*2:ルビの多用とかもったいぶった言い回しとかごつい漢字とか

*3:特にオウムから酒鬼薔薇あたりで何かを感じてしまった世代の人間

*4:基本的には虚構世界のことでよいと思うが、この論文では、電車という近代の交通機関がそのような閉鎖空間となっているとするアリサ・フリードマンの論文が引かれている

*5:非モテ

*6:少なくとも文化的な現象として表面に現れてこない

*7:J-POPを流すことができるようになった原因として、CDJの登場が挙げられている。他にも、従来の技術で別の使い方をし、さらに新しい技術が生まれ、それをまた別の使い方をしていく、というDJの流れが書かれているが、まさに若者文化のアプロプリエーション、インプロビゼーションだと思われる

*8:新海誠麻枝准村上春樹からの影響を表明していることを受けての

*9:成長不可能で傷付くことのないキャラクター

*10:「傷付く身体」、成長すること

*11:読者の社会的読書形態の差異がテクストの「文体」を決定した、とする所収論文「音読から黙読へ」