『物語の(無)根拠』第4章

『物語の(無)根拠』
第4章 「1000の小説」と「文字の海」

脳内妹の不在
《言語》
小説を書くことというカルヴィニズム
物語の「制度」としての「文字の海」
オートポイエーシス・システムと「文字の海」
上位【メタ】の視点からシステム内部の視点へ

タイトルからも分かるとおり、『1000の小説とバックベアード』について論じた章。
この作品を読んだときの感想はこちら
基本的に考えていることは、読み終わった直後と大して変わっていない。
ただ、すっきりしない感覚があって、直後に書かれた上述の感想にはそれが反映されている。
実を言えば、このすっきりしなささは解消されていない。
一つの論としてまとめるために、そのすっきりしなささというのは切り捨ててしまった、のがこの章だと思う。
僕は、自分自身のフィクション論を展開する都合上、この作品を非常に肯定的に扱ったし、実際この作品のことは評価している。
ただ、佐藤友哉の中でも特に優れている作品だったのか、あるいは今後の方向としてよいのか、という点に関しては、判断を保留したい。
また、この作品の解釈に関しても、曖昧な部分は切り捨てている。
あるいは、「片説家」や「やみ」、「日本文学」といった主要な要素をスルーしている。これは、『1000の小説とバックベアード』論としては僕のオリジナルなところでもあるし、弱点でもあると思う。


ここで僕が展開したかったのは、「佐藤友哉はどう生きるか」とか「ポストモダンにおける自由とは何か」という問いではなく、「小説ないしフィクションはいかに生成されるか」という問いである*1
何の確証もない、単なる僕の直観にすぎないが、
その問いへの答えは、フィクションはフィクションそれ自体によって自動生成される、というものである。
作者の自由意志とは異なるレベルにおいて、フィクションを生成する何らかのシステムが作動しているのではないか。
そして、この作品にはそのシステムが描かれている、のではないだろうか*2


そもそも佐藤友哉は、「自由に生きる」ために「小説を書」いていた。
ところが、その目的たる「自由に生きる」ということの不可能性が図らずも暴露されてしまった結果、手段たる「小説を書く」ことだけが残ってしまった。
というよりも、本来「小説を書く」ことこそが目的だったのに、それは今までずっと隠蔽されてきたのであり、その隠蔽がついに外されてしまったのである。
なぜ小説を書くのか。小説を書くためである。
だがそれは、別の言い方をするならば、フィクションの自動生成システムに組み込まれてしまったからでもある。


フィクションの自動生成システムなるものは、僕の空想の産物に過ぎない。
その点、これ以降、このシステムを前提として進行する『物語の(無)根拠』はもはや評論文とはいえず、一種のSF小説といった方がよいかもしれない。
しかし一方で僕は、このシステムが実在*3していることを、半ば信じている。
少なくとも、『物語の(無)根拠』を書いている間は信じていた。
ルイスの可能世界実在論よろしく、虚構世界が実在しているのではなく、
また、作者がフィクションを創造しているわけでもなく、
フィクションなる概念そのものが実在している、ということを。

関連エントリ

最初にこのシステムについて考え始めたのは、2006年の10月のようだ。


仮にこのシステムが実在するとするならば、実在することによって二つの機能を持つと考えている。

  • リアリティ

一つは、フィクションに(「現前性」という意味での)リアリティを与えるという機能。
「フィクションにとって重要なのは、世界か表現か」
「リアリズムとリアリティ」
「「現前性」について」
一般的に、フィクションにリアリティを感じるのは、表現技法のためだと考えられている。
例えば、小説でいう「自然主義的リアリズム」という技法、絵画でいう遠近法という技法などだ。
一方で、三浦俊彦の虚構実在論の立場に立てば、そもそもフィクションはこの現実世界が存在するのと同じあり方で存在しているのだから、フィクションにリアリティを感じるのは当然のこととなるだろう。
あるいは、全くリアリティを感じることの説明にはなっていないが、斎藤環の「リアリティ的リアリズム」なる言葉は、リアリティを感じるものにリアリティを感じるということを主張している。
これら表現論、虚構実在論、リアリティ的リアリズム説以外の、第四の方向としてフィクション自動生成システム実在論を挙げてみたい。
しかし、正直なところを言うと、この方向性で何らかの論証を行うのは困難ないし不可能であるように思える。
このことに関しては、やはり表現のレベルに求めるのが最も妥当であるだろう。
僕自身、システム実在論は放棄し、言語行為論あたりから考えていきたいと思っている。

  • 複数性を束ねる

もう一つは、世界の複数性を束ねるものとしての機能だ。
東浩紀は、「キャラクター」にこの機能を負わせる。伊藤剛であれば「キャラ」だ。
三浦は、そのような機能を断念し、複数世界説を捨て一世界説を取る*4
フィクション自動生成システムにもこの機能を負わせることは可能なのではないだろうか。
この点については、第6章で論じることになる。

*1:この問いの転換については、http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071206/1196930333#20071206f6を参照のこと

*2:また『SRE』もそういう作品である

*3:実在とは、存在よりもさらに強い意味が込められた言葉である。この現実世界が在るのと同様のありかたで在る、という意味である

*4:東の考える複数世界と三浦の考える複数世界の概念が一致していないならば、この言い方は正しくない。僕はここでメディアミックスを念頭に置いている。そして、三浦はメディアミックスに関しては考えていないように思える。http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070531/1180622808