現代美術についての授業をとっていて、その中で現代アートの入門書を読んでいる*1。
それで考えたことなど。
現代アートはよくわからない、というのはよく言われることである。
僕はむしろ、そのよくわからなさを面白がっていたりしているのだが、多くの人にとってはわからないがゆえに面白くないものでもある。
しかし、現代アートというのは、決して「よくわからない」ものではない、ということがわかってきた。ただし、わかるようになるには勉強が必要となる*2。
さて、何故現代アートはよくわからなくて、かつわかるようになるのか。
それはそもそも、何をもって芸術作品をわかったりするのか、ということだと思うが、それはさらに言うと、芸術作品とは一体何であるのか、ということであったりもすると思う。
これでは問題が大きすぎ、また抽象的すぎる。
ここでは、芸術作品とは何かを表現しているものであり、何が表現しているかわかるときわかったといえる、としよう。
例えば、『モナリザ』には女の人の上半身が描かれている。あるいは、『ダヴィデ像』は男性の全身を現している。
それに対して現代アートは、一見して何が表現されているのかがわからないのである。キュビスムとか抽象画が始まる頃からそれはいえる。
ここでいう表現とは、むしろrepresentationと言った方がよいだろう。
芸術作品とは、現実にある何か(人の姿だったり風景だったり)をreprsentatitonしているものなのだ。
だが、現代アートは、何をrepresentationしているのかがわからない、あるいはそもそも何ものをもrepresentationしていない。そのために、「よくわからない」のである。
しかし、現代アートも芸術作品である以上、何かを表現しているはずである。
それが一体何かというと、二つある*3。
- 一つには、その作品のポジションである。
芸術作品は、現実にある何かのrepresentationであると同時に、他の作品と相互に影響し合っている*4。例えば、同じ題材を扱うこともあるだろうし、同じ技法を使うこともある。そうした参照によって作品は作られていく。
そのような相互参照が、ある種のネットワークを作っていると想像してみる。芸術作品と呼ばれる作品は全てそのネットワークに属している。そして作品には、その作品がそのネットワークの中の一体どこに位置するのかが表現されているのだ。
- もう一つは、その作品が芸術作品であるということの証明である。
現代アートは、ある時期から、何かのrepresentationであることを止めた。何かのrepresentationではない作品とは一体どのようなものか。それは作品であるよりも前に何らの物体である。それは単なる絵の具の固まりであったり鉄くずの集合体であったりする。そして、そのままではそれらは単なる物に過ぎない。それが単なる物ではなく芸術作品であるというためには、それ自らが芸術作品であることを示さなければならないのである。
例えば、ミニマルアートであれば、反復という自らの構造によって、単に箱が地面に落ちているわけではなく、それが作品であるということを表現しているのである。
この部分が理解できないと、現代アートは全くわからないままであろう。そしてこの部分がわかるには勉強が必要になる*5。
この二つめのことは、「自ら芸術作品であるということを表現しているものが芸術作品である」と言い換えることができる。
だが、これは実は何でもあり、ということを言っているわけではない*6。
一つめの条件が絡んでくるからである。つまり、芸術作品は芸術作品というネットワークの中でのポジションを表現しなければならない。
他の作品は、こんなものをこんな方法でやっていた、ということを踏まえた上で、新しいものが生まれてくるのである。他の作品を踏まえていないものは、芸術作品として認められないということになる。
現代アートの作家というのは、限界ギリギリのところで制作をしているとも言える。
これは作品であるという証しが認められなければ、それは単なる物にすぎない。それが認められるためには、他の作品とのネットワークをうまく構築しなければならない。
現実にある何かのrepresentationである芸術作品も、上記二つを満たしていることを、ここで補足しておく。
representationである、ということが、芸術作品であるということの証明であり、またそれによって他のrepresentationである芸術作品との参照関係も表現しているのである。
しかしこの、representation的芸術作品のネットワークが20世紀になって飽和してしまう。
件の入門書によれば、カンディンスキーやモンドリアンは、そのような芸術作品は、特殊的であって普遍的ではない、と感じていたらしい。
そしてこの時期、いわゆるヨーロッパ近代的ではない芸術と触れることになる。アフリカの彫刻や古代・中世の絵画などだ。
あるいは面白いのは、この時期に生まれた抽象絵画は、従来の絵画の言葉で語ることができなかったため、音楽の言葉(リズムとかハーモニーとか)によって語られたということだ。
芸術作品ないし美術作品は、現実にある何かをrepresentするというのが当然の前提だったわけだが、それが崩れて、そもそも芸術作品ないし美術作品であるとは一体どういうことなのか、ということが問い直されるようになったわけだ。
そしてその問い直しの作業そのものが、作品に表現されている*7。
だから、現代アートの作品を鑑賞/制作する際には、芸術とは何かということを作品に問いかけなければならず、そしてその答えを知るためには、その問いに対する歴史的蓄積を知らなければならない*8ということになる*9。
ここまで、芸術作品について考えてきた。
ここから、さらに表現一般について考えてみる。
表現というものの中には、上でみたとおりrepresentationという要素がある。
これは、志向性という言葉で言い換えることもできるかもしれない。
例えば「犬」という文字は、四つ足で人間との付き合いの深いあの動物をrepresentしているのであり、また志向している。しかし、この「犬」という文字そのものは、ディスプレイの発光であって、動物そのものではない。
同様に、『モナリザ』は、リザ夫人をrepresentないし志向してはいるが、リザ夫人そのものではない。
言語哲学でいうところの、指示ともいえるかもしれない。
言語哲学では、何ものも指示しないような表現を一体どう扱うか、ということで一悶着あったわけだが
現代アートとはまさに、何ものも指示しないような表現といえる。
そして、現代アートの場合、確かに何かを指示していないが、芸術とは何かという問いの答えを表現しているとも言えるだる。
ここでさりげなく、指示(representation、志向性)と表現を使い分けているのだが、この区別がどれだけ明確にできるかはよくわからない。
科学的主張とは一体何を指示し、表現しているのだろうか。
とりあえず、真偽を、といえるだろう。
(芸術作品では、美を、と言いたいところだが、上記の通り、むしろ芸術を、と言った方がいいだろう。)
そして、真偽とは一体何か、ということに答えるために色々な哲学の学説が出てくることになる。
(芸術においては、芸術学や具体的な諸作品にあたる必要が出てくる。)
さて、次に考えてみたいのはフィクション作品である*10。
フィクションは、真偽とも関わっていないし、芸術とは何かという問いとも関わっていない。
確かに、小説とは何かとか、映画とは何かとか、そういったことに関わっている小説や映画はある。それらは現代アートと同じように扱ってよいだろう*11。だが、それだけではないだろう。
フィクション作品はフィクションなるものを指示しフィクションなるものを表現しようとしているのだろう。
そして、芸術作品が芸術作品のネットワークというものを有していたように、フィクション作品もフィクションのネットワークというものを有しているのではないだろうか。フィクションなるものとは、そのようなネットワークのこと*12である。
さて、ある科学的言明が現実世界の真理値を表しているように、あるフィクション作品が単一のフィクション世界を表している、と考えることもできるかもしれない。
しかし、そのような単一のフィクション世界ではなく、フィクションのネットワークあるいは連続体のようなものをここでは想定しておきたい。
それはまず、単一の世界が単一の作品と一対一対応しうるのか、という疑問のためであるが、
さらには、このネットワークないし連続体は、芸術作品のネットワークや科学的言明のネットワークとの接続可能性を持ちうるからである*13。
つまり、全ての表現は、ある巨大なネットワークないし連続体を構成しているのであり、人間はそこから部分を切り出してきているのではないか、という仮説である。
フィクション作品が何を表現しているのか、という問いに対して、テーマとか価値観といったものを挙げることができるかもしれない*14。
だが、僕はそれは二次的なものに過ぎないと思っている。読解なり批評なりということでは、これを探り当てるのは重要だが、フィクションが表現しているものは何か、という問いには関係がない。
表現として、アート*15、科学的言明、フィクションが挙げられた。
その次に考察の対象となるのは、音楽だろう。
芸術が次第に何もrepresentしなくなったように、音楽もまた何かをrepresentしているようには思われない。では、音楽とは何かということを表現しようとしているのだろうか。
これは全くわからない。
過去の関連しそうなエントリ
アートワールドの話もこの授業でやった。そこでは、アーティスト、ギャラリスト、キュレーター、コーディネーター、コレクターといった、アートに関わる人たちの世界、という感じで使われた。アートとは、アーティストのみで作るものにあらず。優秀なギャラリストやキュレーターとの関係によって作られていく。
フィクションを哲学的に扱うためには、言語哲学は役に立つけどそのままじゃうまく適用できないと思う。つまり、真理値とはまた異なる何かを設定する必要がある……。
ここで使われている「表現」と、当エントリの「表現」とでは、意味が異なるので注意。しかし、アイデアとしてはほぼ同じ。小説(映画でもマンガでもいいが)を考えるときに、「小説とは何か」についてフォーカスするか、「小説の中で描かれているフィクションとは何か」についてフォーカスするか。
アートでは、前者に着目することがラディカルなんだけど*16、フィクションではむしろ、後者に着目する方がラディカルになるのではないか、とか。
ここの「ギートステイトハンドブック以外。」の項に、「表象システム(オートポイエーシス的なもの)」というのがあるが、これはここでいうフィクションの連続体とおおよそ等しい、多分。
ここでは、貫世界同定のことがネックになっているけれど、可能世界と可能世界を別のものとして考えるとそれがネックになってくるのであって、むしろそれらが連続体になっていると考えれば解消できるのではないか、とか、そういうことを今考えているわけだが、これはちゃんとした理屈になるのだろうか。
つまり、複数性が束ねられずに何となくまとまっているもの、それがフィクションのネットワークないし連続体という奴なんだ。
音楽とフィクションに関してはこちらを。
*1:コピーを渡されているだけで、自分が何の本を読んでいるかわからない。著者名はわかっているのでちょっとググってみたところ、どうももう絶版になっている本のようだ。
*2:そんなわけで、(アートの勉強をしていない)多くの人にとって現代アートが「わからない」ものであるのもまた事実である。そして、アートの側は勉強していない人にはその姿を見せようとしないのである。この授業の先生が言うには、アートは大衆のものではなく、ごく一部の金持ちやインテリのものなのだということだ。そういう一部の人間にしか理解できないものとして先鋭化したという部分もあるし、逆にそういう尖ったものが理解できることを自らのステータスにしているような人間がスポンサーになっているという部分もあるのだと思う。また、大衆向けの作品を作っても利益にならないということもある。「大衆にわからないものをつくる現代アートはけしからん」という批判(そういうものが仮にあるとして)は、だから全然的を射ていない
*3:この授業で扱っている入門書を読んできた限りにおいて。また、現段階ではその入門書も一部分しか読んでいない
*4:件の入門書ではそのことを「参照」と呼ぶ
*5:ちなみに個人的なことを言うと、今の僕は、わからないということがわかった、という段階である
*6:しかし、大抵は「何でもあり」と思われてしまうので、「現代アートはけしからん」という批判がありえてしまう
*7:それはもはや、何かをrepresentしているわけではなく、作品そのものによるpresentである
*8:普遍的なものを目指していたのだとすれば、これはやや皮肉な結果かもしれない。だがこのことは、真なる言明とは何かということを追求した科学哲学が、ある種の文脈(ないし歴史性?)を抜きに「真」を決定することはできないというような結論になりつつあることを考えると面白い。
*9:現代アートよりも前の作品であれば、描かれているのは何かということを考えればそれでよく、その答えは見ればすぐにわかるものであった。もちろん勉強することによってわかることは増えていくが
*10:広くとれば芸術の一種ではあるが、明らかに現代アートとは異なってしまっているので、別ものとして扱う。具体的には小説、映画、マンガ、演劇なである
*11:つまりそれらは、ある歴史的蓄積を前提としている。また、小説(映画)ではないものとの限界ギリギリに位置しようとする試みである。ゆえに、大多数の人間には理解することができず、理解するためには勉強が必要になる
*12:ネットワーク全体ではなく、ネットワークの部分集合
*13:ここでいうネットワークは、歴史的蓄積とか文脈とかとは差し当たって無関係な、無時間的な何かであるとしておく
*14:例えば、これはリバタリアンな生き方を表現した文学だ、とか
*15:ここでいうアートは、いわゆる美術、造形芸術、しかも近代欧米のそれを中心としている
*16:もしかすると今ではもうラディカルではなくなってるかもしれないけど、そうするとここまでの話が崩壊してしまう