実際に読んだ順番で。
新潮
新人賞、選評だけ読む。
あれ、斎藤環の連載ってどこだっけ。
書評を3つ読む。
・島本理生『あなたの呼吸が止まるまで』/岩宮恵子
・鹿島田真希『ピカルディーの三度』/田中弥生
・大西巨人『地獄篇三部作』/福永 信
「大きな熊」は面白くないけど、「あなたの呼吸が」は面白い。
12歳という年齢は、子供として死に大人として生まれる時期であり、その時期に佐倉とこういう形で接触してしまった朔は、物語を生成していくことになる、と評者。確かにそんな感じだと思う。で、この書評読んで思ったのは、朔と接触した田島くんの方はどうなるんだろうなーということ。
ピカルディーは、表題作他何作かが収録された作品集で、鹿島田の変化というものを田中が辿っている。
つまり、人称の変化。もともと鹿島田は三人称しか使わなかったのが、ピカルディーあたりから一人称を使うようになる。しかも作品を追うごとに、男子高校生→少女(?)*1→女作家というふうに、自分へと近付いているらしい。
そもそも、女性という不完全なものが一人称で語るということは宗教上よくない、というのがあったらしい。
それから、このような一人称で書かれている作品は、既に三人称で書かれた作品と、ポジとネガの関係になっているとか。一人称の方がポジ。
大西巨人はよく知らないのでよく分からなかったけど、かつて「実在の人物の名前が書かれすぎ」っていう理由で編集部に発表を見送られた作品が収録されたらしい。
群像
埴谷雄高の構想ノートは見なかったけど*2、ノートまでもがこうやって発表されるってすごいね。
で、今月の群像は小説以外で面白いものがいくつかあるわけで、どれからいこうか。
「さあ三部作完結だ!二次元評論またいで進めっ!@SFWJ2007」笙野頼子
田中和生を巡って、何だか仲俣が勝手にかみついた感のある、批評家小説家論争(?)の火元?
今日の記事は、「よく知らない」を連発しているけれど、笙野に関しても僕はよく知らなくて、最近になって、大塚英志と不良債権化する文学でケンカしてた人か、ということを知るくらい。
で、実際に読んでみて驚いたのは、文章のテンションが滅茶苦茶高いってこと。文字のポイントとかあげまくってるし。
そもそもこの論争(?)自体には興味がないのだけど、
「文章を書くなら、己の妄想じゃなくてちゃんと証拠となるものをちゃんと読んで、矛盾しないように書けよ」っていうことは、ちゃんとしなきゃなあと思った。
それから、テンション高いまんま、「キャラクターズ」をぶった切って、SFコン楽しかったぜーっていうもので、内容はよく覚えていないが面白かった。
創作合評
対象作品は、前田司郎の「誰かが……」と「キャラクターズ」
確か71年生まれの田中弥生が司会で、岡松と小池が「ゲーム的って何だかよくわからないけど面白かったよ」と言い、田中が「面白かったんですか」って聞いている感じで話は進んだ。
田中は、前田、東と世代が同じで、言っていることがすごくよくわかったらしいが*3、それで果たしていいのか、という。「誰かが……」の方には好意的だったが、「キャラクターズ」の方には懐疑的だったっぽい。あまりにも仕掛けられすぎていて、あるいは、明らかに私小説になってしまっていることに対して色々と抵抗しようとしているけどそれって何、ということとか(合作になっててツッコミにくいとか)。
ちなみに、田中はまさにラクーレ川崎で新潮を買ったらしいんだけど、送られてきたりはしないんだねー。
岡松が、両者を、私小説をなんとか解除しようとする試みを若い人がしていて面白い、という感じで
田中が、確かにそうなんですけど、こんなんでいいですかー、という感じなんだと思う。
侃侃諤諤
東本人が絶賛(?)していた侃侃諤諤
エッセイに対してネタバレも何もないと思うので内容を書くと、
「キャラクターズ」が映画化されてその予告編が書かれている。
この映画見たい!wとか思って読んでたら
編「何これ?うちは新潮じゃないんだから。あ、侃侃諤諤に回しといて」
というオチ。
「うちは新潮じゃないんだから」!!
文學界
中原昌也「映画の頭脳破壊」のゲストが平山夢明だった、読んでないけど。
「つぎの著者につづく」円城塔
面白かった!
SFマガジンの読んだあとにこれ読むと、「円城、手抜いているだろ」って言いたくなるんだけど、それはSFマガジンに載ってた奴よりわかりやすくなっているからであって、実際に手を抜いてるわけではないと思う。
一応、雑誌にあわせているのかなあとも思う。
わかりやすいと思うのは、作品が円環構造になっていたりして、話の筋も拾いやすいから。
あと、断章形式じゃないw
言語表現なり虚構なりの可能性について、ということは、SREから一貫している気がする。
無数の可能性の中からどうやってある事実が生成されたのか、そしてそのことは他の生成されない/かった事実とどう関係しているのか。
主人公の「私」はプラハの古書店に来ているのだが、何故かというと、リチャード・ジェイムスなる作家について調べようとしているからだ。
というのも、ある書評で、「私」の作品には、リチャード・ジェイムスからの剽窃があると指摘されたからだ。さらにいうと、剽窃とはいえ自覚してなされていてオマージュといえなくもないのでまあいいか、という内容だったのだ*4。だが、「私」には何の心当たりもない。リチャード・ジェイムスなる人物を知らないからだ。そこで、調べてみると、このリチャード・ジェイムスなる人物が実に謎めいた人物であることがわかってくる。その一方で「私」は、リチャード・ジェイムスの作品を読まずに、その作品と全く同じ文章を書いてみせるという賭けを始める。
それなんてボルヘス?
と思わず言いたくなるが、まあボルヘスだ。
ボルヘスだけじゃなくて、かなり色々と引用が多い。ヘンリー・ダーガーがやけに出てきたりする*5。
円環構造だの引用だの、ある意味小細工が多いとも言えるが、リチャード・ジェイムスについての下りはごく普通に読んでいて面白いし、読んでいるものを煙に巻こうとする冗長な文体は、言っていることは意味不明なんだけどすらすら読めるという代物ですごい。
本屋で
探せど見つからなかった『今日の早川さん』があっけなく見つかる。マンガの棚に平積みであった。探していると見つからず、探していないと見つからない。結局買わなかった。
『freesking』『fallline』が出てた。買うかどうか迷う。