総合フィクション学

京都大学人文科学研究所とかいうところで「虚構と擬制」というテーマで共同研究しているチームがあるらしい*1
虚構と擬制共同研究班home
ここでは、「総合フィクション学(General Fictology)とでも呼ぶべきディシプリンの構築をめざ」しているらしい。
総合フィクション学に関係するであろう論文への書評が公開されている。
対象となっているのは、サール『表現と意味』、カイヨワ『遊びと人間』、ベンサムによるフィクション論、マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』である。それぞれ、大浦康介、近藤秀樹、久保昭博岩松正洋が書評を担当している。


カイヨワ『遊びと人間』に関しては、その本の概要の紹介が主になっている。つまり、カイヨワによる遊びの定義から始まり、遊びの四分類の説明、遊びと社会の関係について、である。カイヨワは、遊びをアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(眩暈)の4つに分けて、またアゴン−アレア型社会と、ミミクリ−イリンクス型社会という二つの社会のあり方について考察している。
さて、フィクションについて考えるのであれば、注目すべきはやはりミミクリであろう。ミミクリはイリンクスは非常に密接に関連していると考えられている。ミミクリとイリンクスが共にあるとき、そこで起きるのはトランス・忘我の境地である。これはいわば宗教的な儀式で行われるもので、「聖なるもの」である。カイヨワは、「聖なるもの」と遊びを区別して考えていたので、ミミクリとイリンクスが結びついたままでは遊びにはならないと考えた。ミミクリとイリンクスを分離させたのは何か。それは「道化の仮面」だという。道化は、神を茶化す存在であり、これによって神話が相対化され、ミミクリはイリンクスから分離したのだという仮説をたてている。
ミミクリとイリンクスが分離されることによって、ミミクリはミミクリとして独立することとなった。これはフィクション論にとって重要なことであろう。だが、論者は最後に、私たちはこの二つが再び結びつくことをどこかで期待してはいないか、と考える。ミミクリが単なる演技を越えてしまう瞬間を。そういう状況を考えるためには、カイヨワとは別のアプローチが必要となる。


さて、ミミクリとは模倣であり演技であり、つまるところ「ふり」である。サールは、フィクションそのものを「ふり」だと考えた。
オースティンの言語行為論においては、フィクションはあくまでも「寄生的」な言語使用に過ぎなかった。しかしサールは、フィクションにも言語行為論の中での位置を与えようとしたのである。またそれによって、今まで区別をつけることができなかった「嘘」と「虚構」の区別をつけようとしたのである。そのために考え出されたのが、簡単に言ってしまえば、作者は自分の言っていることを本当であるかのような「ふり」をしている、あるいは一人称小説であれば、作者は主人公の「ふり」をしている、というものだ。
これはジュネットによって修正されながら、どうも現在進行形で議論されているようだ。問題視されているのは、このサールの議論では、作者の「意図」を考えざるをえない、ということである。しかし従来の物語論の立場からは、作者の「意図」というものは括弧にくくるものとされているので、これは問題にならざるをえない。
また、サールの分析は、作品の中の一文に対して行われているので、作品全体に及んでいない。つまり、サールの考えでは「小説を書く」という行為は発話内行為とされないのだ。


『可能世界・人工知能・物語理論』は、書名だけは知っていて興味を持っていたのだが内容はよく知らなかった。今回、この書評を読んでも内容に関してはよく分からなかったのだが、もしかするとこの本は、フランス現代思想アメリカ現代哲学をつなぐものなのかもしれない。
この書評は書評としては非常に長くて、この本に到るまでの物語理論の流れも追っている。そこでは記号論とか構造主義とかいった、ポストモダニズム的な言葉が出てくる。しかしそれではどうも限界が出てきた。シニフィエシニフィアンについて考えるだけでなく、そもそも虚構とは何かということを考えなければいけなくなった。その一つの流れにあるのが、この本らしい。


ベンサムというのは、あの功利主義の哲学者であるベンサムであるが、彼はフィクションについての考察も行っていた、ということをこれを読んで初めて知って非常に驚いた。ベンサムのフィクション論について知られるようになったのも、1932年の『ベンサムのフィクション理論』という本の出版以後だという。
さて、ベンサムにとってのフィクションの考察は二種類ある。一つは、法制度の起源を隠すものとしてのフィクションである。法とか慣習とかの起源は容易には分からないから、そこに神話=フィクションが滑り込んでくる。しかしそれは誤謬である。だからこのようなフィクションはなくさなければいけない、というものだ。
そしてもう一つは、論理学に関するものだ。一方でフィクションを批判しつつ、他方では言語においてフィクションはなくてはならないものだ、ともいう。それは空間とか形質とか性質とかいうものだ。これらは実在しないからフィクションなのだが、なければ言語が成立しない。それらはフィクション的実体なのだという。「実在はしない」が「実在する」かのように振る舞うという点で、「フィクション的」「実体」なのだ。

*1:稲葉振一郎のblogで知った