阿部和重『ミステリアスセッティング』

石川忠司の書評を読んで爆笑したので、買った*1
というわけで、これも笑いながら読み進めていたんだけど、これは一体何なんだ?!
読み終わった後で結構困惑している。
いやもちろん、いつも通りの阿部和重といえば全くもっていつも通りなのだが。
石川は書評の中で、なんだかんだいって少女には優しい阿部和重を愛でるのがこの作品の一番の楽しみ方なのかもしれないというようなことを書いていた。


くるくると肥大化していく妄想。
僕は以前『グランド・フィナーレ』から、妄想の自律ということを論じた*2のだけど、阿部作品、特にこの作品について考える際にはむしろ、妄想の境界について考えるべきなのかもしれない。
阿部の描く妄想は、肥大化し自律し、最終的にはどこかで破裂していく。
僕は妄想が「自律」することに注目したいのだけど、石川忠司が指摘するとおりこの作品では妄想は「自律」しない。
たえず、現実との接点を持ち続ける。
妄想が自律し、現実から離陸してしまった時に、「暴力」が発生して妄想や現実を破裂させていたのに対して、この作品では妄想と現実の境界をごりごりとこすっていくなかで「暴力」が生じたのかもしれない。
とにかく、妄想が肥大化していくさまは、楽しめる。
ひたすら笑って読み進めればよい。
無情の世界』を再読したときも思わず笑ってしまったが、そういう感じで。
だけど、そのあとに出現する「暴力」のあり方が、普段の阿部作品ではやっぱり滑稽で笑える「暴力」であったのに対して、この作品では「暴力」をどう捉えればいいのか分からなくて困惑してしまった。


阿部作品としては珍しいほどに、非常に読みやすい。
すらすらと読み進められるので肩の力を抜いて読める。
単純におはなしとして楽しめるので、そうやって読んでしまって全く構わないと思う。
帯には「極限の純真小説」とか「痛いほど切ない新世代のピュア・ストーリー」とか書いてあって、こんな煽り文句をよりにもよって阿部和重につけるのはほんとたちが悪いのだけどw
しかし、この帯文とおりにも読めてしまうという、困りものw


最後のオチは『インディヴィジュアル・プロジェクション』的。


ところで、この作品は携帯電話サイトで連載されていた。
既に印刷されたものを読んでいる身としては、携帯電話サイトに掲載されたことによって生じていた効果はもはや分からない。
文章や構成も、そのことを知っていると何となくいつもと違うような感じもするのだが、それほど変わらないような気もする。
しかし、携帯メールが本文中に何度か出てくるのだけど、それは携帯の画面で見るとどんな感じだったのだろう。
本では、フォントが本文とメールでは違ったりするけれど。

そもそも「文体」というものの評価軸が、書籍とデジタル媒体とで、どう変わってしまうのだろう、云々。

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070312

こういう記事を読んだところだったので、携帯サイトで書かれた阿部和重はヒントになるかと思ったのだけれど、ならなかった……(^^;


ミステリアスセッティング

ミステリアスセッティング