『蒸気船ウィリー』

今日は集中授業があって、そこでディズニーの初期作品なんかを見た。
『蒸気船ウィリー』
『ミッキーのお化け屋敷』
これが、なんととても面白かった。予想以上によく動くのだ。
当時のアニメ技術の水準がどれくらいにあったのか、よく知らないので、これだけよく動くことがすごいことなのかどうかは判断できない。
ただ、日本の普通のTVアニメと比較すれば、それはもう『蒸気船ウィリー』の方がよく動いている。*1
動きそのものが、まず面白い。
それから、音楽との組み合わせもまた面白い。トーキー技術が出来たばかりで、この作品は当初はサイレントで企画されながら、結果として音を入れることになり成功をおさめたということらしい。
「藁の中の七面鳥」を、ミッキーが演奏するのだが、動物や食器を即席で楽器にしていく。これは、『ミッキーのお化け屋敷』にもあって、骸骨が自分の身体(骨)を楽器にしたりする。
ストーリーがあるわけでなく、言ってみればかなり馬鹿馬鹿しい内容ではあるのだ。
しかし、これにアニメーション――ひいては映画の快楽のようなものを感じた。
つまり「動く」ということそのものが「気持ちいい」のである。
授業では『白雪姫』も見たのだが、そこで見たのは白雪姫が動物たちと歌い踊りながら部屋を掃除するシーンだ。
ストーリーの面では、そこで歌ったり踊ったりする必然性はない。しかし、ナラティブの面では、そこで歌ったり踊ったりすることが選択された。何故か。アニメーション(あるいは映画)において観客に提供されるのは、ストーリーなのではなく、まず動きそのものであるためなのではないだろうか。
さて、何度もいったように『蒸気船ウィリー』は大いに動くのだけど、何がどのように動くのか。
まず、出てくるもの全てが動く。ミッキーやピート(船長)、ミニーは当然として、出てくる動物がみんな動いている(画面の隅にいたとしても)。また、動物以外のものも動いている。例えば、船の煙突が、膨らんだり縮んだりして煙を吐き出す。そしてその動き方は、ミッキーが口笛を吹くときの口の動きにも似ている。全てがあたかも生き物のように動く。
この作品は、スラップスティックコメディ(チャップリンとか)的なところが多い。ミッキーは不真面目な労働者で、なんとなく暴力的なところがある。そして、そのような暴力に対して、身体はゴムのように伸び縮みする。ゴムのように、というより、ゴムそのものの動きをするし、身体の形がすぐに変化する。例えば、ある乳牛が乳を搾られた後、身体が痩せ細ってしまう。しかし、ミッキーが藁を食べさせると瞬時にもとの大きさに戻る。
ミッキーだって、胴体が突然棒のようになって伸びたり縮んだりする。
あるいは、山羊が突然蓄音機になったり、クレーンの先のフックが指か舌のように柔らかく形を変える。
生物とも非生物ともいえない「グロテスク*2」な動き方をする。
しかし、そのあり得ない動きと音楽とのマッチングが、とても「楽し」く「気持ちがいい」。
この種の「気持ちよさ」は、例えばエヴァンゲリオンのOPとかハルヒのEDとも似ているかもしれない。ただ「動く」というそれだけのことなのに、そのそれだけのことにアニメーションの快楽、アニメーションのエロス、というものがあるのではないだろうか。
網状言論F改において、竹熊健太郎の以下のような記述がある。

単に図像の問題ではなく、アニメーション特有の「動き」にそそられるわけです。私はどちらかと言えば、静止した画像より「動き」に快感を感じるタイプで、そういう部分でアニメが好きなんです。

ところで、『蒸気船ウィリー』にも、漫符と思われるものが出てきて、その点でもちょっとびっくりした。


その後、『ファンタジア』と『白雪姫』も見た。
『蒸気船ウィリー』と『ミッキーのお化け屋敷』を見ていたときは、その動きと音楽とのマッチングの絶妙さに、さすがのちに『ファンタジア』を作るだけのことはあるな、などと思っていたのだけれど*3
いざ、『ファンタジア』を見てみると、前の2作とは印象が異なっている。
例えばミッキーの顔が違う。そして、動きもまた違う。
『ファンタジア』と『白雪姫』は、今普通に僕たちが見ているディズニー映画の顔であり動きであった。逆に言えば、前の2作は(顔が違うのはもちろん知っていたけれど)動きの面でも異なっている。
技術的な面であれば、おそらくスタッフの増加やコマ数の増加が強く影響しているのだと思うのだけど、詳しくないのでそういう推測にとどめる。
なんというか、よりリアリズムが進行しているのである。
俳優に実際に動いてもらって、それを見ながらアニメを作ったという話も聞いた。
ディズニー特有のあの動きをうまく形容する言葉が思いつかないのだけど、あの動きだってリアルかといえば必ずしもそうではない。コマ数が多いのでなめらかだけどむしろ妙に柔らかすぎて、実際の人間の動きとは異なっている。とろっとしているところがある、とでもいえばいいのか。
しかし、それでも『蒸気船ウィリー』と比較すると、明らかにリアルになっている。
ミッキーは、『ファンタジア』でも確かによく動くのだけど、決して棒のようになったりゴムのようになったりはしない。『蒸気船ウィリー』のミッキーは口笛を吹いたりして、輪郭が変わるくらい顔がよく動いた。でも、『ファンタジア』では、顔そのものの描き込みは細かくなっているのだけど、それほど動かない。
絵のレベルは圧倒的に高くなっているし、カラー化することで非常に画面は綺麗になっている。
リアリティの度合は高くなっている。
だが、それは一体どういう方向で高くなっているのだろうか。
この授業では、ディズニー映画を見る前に、1930年代初頭のハリウッド映画も見た。『キングコング』や『フランケンシュタイン』などと共に『フリークス』という映画がある。これは、サーカスの「フリークス」(つまりショーを行っていた「こびと」や身障者たち)を本物の「フリークス」自身が演じていて、当時、上映禁止にされた作品だ。
一方で、『白雪姫』にも「こびと」が出てくる。
ディズニー映画の絵は、よりリアリティを高め綺麗になった。だが、現実世界と似ている、という意味でリアルか、といえば決してそうではない。『白雪姫』に出てくる「こびと」は、『フリークス』に出てくる「こびと」とは似ても似つかない(後者には、否応なしに異形や異質さを感じてしまうが、前者にはそれがない)。
ディズニー映画が描くのはメルヘンの世界であるから、それは当然のことである。つまり、ディズニー映画はメルヘンの世界の中でのリアリティを獲得していった、といえる。


自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム
大塚英志はこの2つのリアリズムを小説にのみ導入したが、東浩紀は(冗談半分だろうが)アニメにも導入した*4
ディズニーの絵は、技法としては自然主義的リアリズムかもしれないが、志向としてはメルヘン世界的リアリズムといえるのではないだろうか。
さて、そうなると『蒸気船ウィリー』や『ミッキーのお化け屋敷』というのは、一体どのリアリズムに則っているのだろうか。

*1:これも詳しいことはよく知らないけれど、日本のTVアニメは動画を節約しているせいです。手塚治虫のせいだとも言われていますが。だから、1929年のアメリカと現代の日本でどっちがアニメ技術が優れているか、というのもぱっと言うのは難しいと思う

*2:フロイトによると、人と物の境界が曖昧である、という意味らしい

*3:『ファンタジア』だけは既に見たことがあった

*4:『ユリイカ11月号』特別掲載「フィクションは何処へゆくのか 固有名とキャラクターをめぐって」