『科学哲学』ドミニック・ルクール

今、自分の中でとても科学哲学が盛り上がっていたりするんですが。
科学哲学の歴史が書かれた入門書。
これだけ広範に取り上げているのはないんじゃないか、という感じだけど、一方で、一つ一つの紹介に割いてるページ数が少なくなっているので(自分が)消化不足のところも(タームが一つぽんとおかれて説明が終わっているところがあって、タームが分からないと分からない。(自分が)知らない哲学者も結構出てきたし)。


まず、コントとマッハから始まる。
二人とも実証主義者で、形而上学を打ち消そうとする。コントは、科学から予測と行為が生まれる、と言う。マッハは観察可能な事実を越えることを戒める。
続いてウィーン学団が紹介され、ウィトゲンシュタインへと続く。ウィーン学団は、ウィトゲンシュタインを仲間だと見なしているけれど、実はそんなことはない、とか。
そして、アメリカへと移行していく。科学哲学の中で、論理学や分析が全面化してきて、科学史は後退していく。
次が帰納の話でヒュームとラッセル。そして、帰納の問題について、グッドマンの投射の理論が紹介される。帰納(予言)が成立するためには、投射が必要で、投射のためには述語からの擁護が必要。この投射、述語に関しては、今までにその語がどのように使われてきたかを調べないといけない。形式化によって解くことは出来ない。
第11章「認識論の自然化?」でデュエムクワインホーリズムの話。
第12章「科学哲学から思考の哲学へ」ポパー、フラーセン、認知科学
この2つの章は、それぞれ3頁程度しかない。
ここで、論理実証主義とか分析哲学とかの科学哲学の話が終わる。論理の話から、方法論の話へと変わる。
まずは、ポパー。彼は自伝の中で「(自分は)論理実証主義を殺した」とか言ってるらしい。で、反証可能性。「ある科学的理論について、その理論を構成している諸命題が整合的な全体をなしているとして、その全体から、その理論を論駁できる経験的証拠を指示するような、少なくとも一つの単称言明を演繹できるとき、その理論は科学的である」
ポパーはヒュームを支持して、帰納の正当化は出来ないとして、科学とは演繹的である、という。
続いて、ラカトシュルカーチに学んだハンガリーの哲学者)。科学は複数の「科学的研究プログラム」の競合であり、そのプログラムは「堅固な核」「保護帯」「発見法」からなっている。
ポパーラカトシュに対立する形でファイヤアーベントが出てくる。彼は「方法論」を否定する。何故なら、科学とは方法論という規則を破ることで発展してきたからである。彼が認めるただ一つの法則は「なんでもあり」である。
精緻に洗練されるにつれて、科学史や実際の科学から離れてしまった論理実証主義の科学哲学への批判として、科学史の側から科学哲学を見直すハンソンとトゥールミン。ハンソンは、観察とは「理論負荷的」であると述べる。
そしてクーン。クーンはゲシュタルト心理学社会学とのつながりが結構あるみたい。


ここからは、フランスの科学哲学、エピステモロジーが取り上げられる。
著者のルクールもエピステモロジストであり、この部分が本書の核でもある。
エピステモロジーは、科学史の方からの科学哲学で、論理実証主義の方の科学哲学とはちょっとそりが合わなかったりもしているみたい。
さて、バシュラール。科学は歴史的なものを負っているし、哲学は科学の中から生まれてきている。哲学者は科学共同体の中にいる。哲学的な概念は、科学の発展の中から生まれてきたもので、科学から離れてあーだこーだいっても仕方ない(?)とか。
論理学に対しては「任意の対象をもつ物理学」と定義。純粋に論理的なものと内容ある実在を区別することは出来ないと考える。
また、観察ではなく実験を重視する。実験に使われる道具は「物質化された理論」である。
発生的認識論、ピアジェ
物理学の下位概念として生物学を捉えるのではない形での、生物学哲学。カンギレム。
概念の形成や変形に注目する。
カンギレムは、「規範」「正常性」「規範生成力」という概念と医療実践について考える。
また、生命の独自性に注目し、生気論の立場をとり、生命を規範の設立者とする。
「生物の生命は規範的な選択の歴史となる。そして生きている人間の生命は、価値を与えたり取り去ったりする行為の歴史となるのである」
エピステモロジーの系譜は、フーコーアルチュセールともつながっている。


さて、アメリカの科学哲学とフランスの科学哲学が出会う可能性はないのか。
それをハッキングやパトナムにみる。
ハッキングは、科学には、「観察」による説明ではなく「創造」があることを指摘するが、これはバシュラールの考えていることと一致する。
ライヘンバッハ、カルナップ、クワインに師事したパトナムは、内在的実在論という立場をとるが、この立場はバシュラールと一致する。
ハーバード大のホルトンは、科学史を重視し、科学が始まるところには研究者たちの無意識の前提があると考える。それを、研究者の文献からみる。
最後に、科学者たちの哲学が紹介される。
まずは戦前の物理学(相対論や量子力学)、哲学的な議論は戦後、生物学へと移る(遺伝や分子生物学)。さらには、コスモロジー、カオス理論などもあげられていく。


三浦俊彦は、日本では大陸の哲学ばかりが取り上げられて、英米系の分析哲学が取り上げられないと憤っていたけれど、本書の訳者あとがきでは逆に、日本では英米の研究動向ばかりに偏っている、とされている。
時代が変わった、ということかな。
確かに、日本ではエピステモロジーをやっている人というのは少ないのかもしれない。
でも、エピステモロジーからフーコーなどのポストモダニズム思想が生まれている(らしい)し、*1今のところ断絶しているとはいえ、もしかすると英米の科学哲学との繋がりも今後出来てくるかもしれないわけで、なかなか面白そう。
あれもこれもやりたいと欲張りな自分にとって、あれにもこれにも言及できる便利な分野かもしれない、などと不届きなことを考えたりしている。
エピステモロジーでなくとも、1920〜30年代の哲学(フッサールとかウィトゲンシュタイン)をやると、大陸系哲学と英米系哲学の断絶を繋ぐことができたりするんじゃないだろうか、とか思ったりしている。
ところで、訳者の経歴を見て驚いたのは、3人とも若いということ。1971年生まれと1972年生まれで、3人ともまだ非常勤講師。ちなみに著者のルクールは1944年生まれで、かなり活動的な人らしい。


科学哲学が面白いなあ、と思うのは、世界を見る切り取り方が、一体どのようにして出来たのか、というのを考えているから。
いわゆる自然科学でなくとも、人間はそれぞれ世界へアプローチする何らかの認識方法を持っている。だけど、その認識方法というのは、どのように基礎づけられているのか、あるいはどのような歴史的な制約を負っているのか。
というわけで、かなり近代哲学の正当な継ぎ手のような気もしたり。


科学哲学 (文庫クセジュ)

科学哲学 (文庫クセジュ)

*1:エピステモロジーとフランス現代思想の流れに関しては、ウラゲツ☆ブログ「フランス認識論(エピステモロジー)覚え書き」(雑記帳)が勉強になった。