映画研究の手法でもって、アニメーションについて論じる論文集。
以下のエントリをきっかけに読んだので、参照に。というか、概要は以下のエントリに任せて、各論文の感想を。
『アニメーションの映画学』読みました - 覚え書き、あるいは思考メモ
第1章「〈原形質〉の吸引力 エイゼンシテインの漫画アニメーション理論」今井隆介
エイゼンシテインが、ディズニーアニメについて書いた論文やメモなどを集成した「エイゼンシテインオンディズニー」の要約。
エイゼンシテインはディズニーアニメを絶賛しているのだが、まず第一に、それが極度な合理化によって抑圧された日常を「忘却」させてくれるからとしている。
さて、一体何がそのような「忘却」をもたらしているのか、というと、それがタイトルにもあるところの「原形質性」である。
具体的には、タコが象のように歩いているシーンに見られるように、タコが象に変化してしまうというそのアニメーションの変幻自在な様を指している。「原形質性」というのは、線が一体何であるのか(タコであるのか象であるのか)確定されておらず、うねうねと変化していく性質のことを指しているのである。
エイゼンシテインはこれをさらに、<前論理的で感覚的な思考>と結びつけ、トーテミズムやアニミズムとも関連させていく。ただしこれは、アニメーションを合理主義に対する批判としてエイゼンシテインが捉えているためではないかと思われる。ここらへんは、エイゼンシテインの、あるいは今井の議論が錯綜していてなかなか判然としないところである。
とはいえ、この「原形質」という概念自体は面白い。
これをアニメーションの線に、「生命」が宿る契機として見ているからだが、ここらへんは夏目房之介や伊藤剛が手塚治虫の線に対して論じている論じ方に似ているのではないか、と思う。単なる線が生きているように感じられる。ここに漫画やアニメの面白さがあるはずだが、それは線が色々なものへと変化していくということによって担われているようだ*1。
さて、エイゼンシテインはさらに「原形質」を炎の動きに見て取ろうとする。これを受けて今井は、クリステヴァやバシュラールの名前を出すが、ここは名前を出すだけに終わっている。
最後に、今井は「原形質性」の議論を展開するために、「触手」について論じるが、ここもちょっと総括的すぎて何ともいえない。
第1回目アニメ評論読書会終了しました - 覚え書き、あるいは思考メモ
このエントリでまとめられている読書会で、この第一章を読んだ。
「原形質性」は、アニメにおける「動き」を論じるキーワードになるのではないか、ということが話された。
アニメにおける「動き」が「気持ちいい」というのはよく言われている*2。しかしそれは、「気持ちいい」ということを越えて言説化されたことがないのではないか、というのがid:ubon-ratchatの指摘。そして、「気持ちいい」というのは各人の感性によってしまうので、他の人に伝えにくい。
それからもう一つ、「動き」の「気持ち悪さ」もまたこれによって言説化できるのではないか、という指摘。そもそも「気持ちいい」ことは盛んに論じられるが、「気持ち悪い」ことはあまり論じられない*3。でも、実際には「ヌルヌルしてる」とかいうふうに、アニメの「気持ち悪い」「動き」というものは感じられている。今井論文では、クリステヴァや触手についてあまり掘り下げられていないが、これらは「気持ち悪さ」について論じるためのきっかけたりうるのではないか。
第二章「柔らかな世界 ライアン・ラーキン、そしてアニメーションの原形質的な可能性について」土居伸彰
ラーキン作品*4について、エイゼンシテインの「原形質」によって論じるもので、第一章で提示された「原形質」という概念が、実際に作品を論じる上でどのように使えるかを示したものとなっている。あるいは、アニメーションにおける「動き」の魅力を論じるものでもある。
そしてまた、エイゼンシテインのディズニー評価への批判ともなっている。
まず一点は、ディズニーアニメにおける「柔らかさ」は、「原形質性」というよりも「可塑性」ではないかという指摘。「原形質性」がある特定の種を越えて変化していくものだとするならば、「可塑性」というのはそのような変化ではなくて一貫性を維持するための誇張表現である*5。
もう一点は、エイゼンシテインがディズニーアニメを、現実の「忘却」において評価したのに対して、アニメーションの「原形質性」を魅力的にしているのは、現実の「忘却」ではないということである。
ラーキン作品において描かれている「原形質性」をもった「動き」というのは、まさに「現実」を生きているラーキン自身の姿に他ならないとして、アニメーションの中に現実と向き合う姿勢を見出している。
第三章「風景の実存 新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」加藤幹郎
映画、とりわけアニメーションにおける「風景」について論じている。
そもそも映画において、風景があまり論じられてこなかったことを指摘して、そもそも映画において風景を論じる意義が確認される。
キャラクター=前景、風景=背景という二分論を避けて、風景と物語・主題系の関係を、新海誠作品を使って論じていく。
また、実写映画が「顔の風景」によって構成されるのに対して、アニメーションでは顔が風景たりえないことが指摘されている。
第4章「複数形で見ること 商業アニメのメディアミックスのとらえ方」横濱雄二
この論文は、他の論文と比べると浮いているのだが、個人的には面白く読んだ。
扱っている作品が「ほしのこえ」とエヴァなので、一応アニメを論じているわけだが、方法論的には映像やアニメーションについて着目しているわけではないし、サブタイトルにもあるとおりメディアミックスを取り上げているものの、実際のところメディアミックスとは必ずしも連関している議論でもないよなあ、と思う。
大塚英志の「物語消費」や、東浩紀の「データベース消費」「メタ物語」の議論を背景にして、作品内に並存している複数の物語世界の関係について論じている。「メタ物語」の結節点として、キャラクターに注目が向きがちであるが、「物語世界」の生成と矛盾そのものに「メタ物語」の結節点を見出している。
第5章「ミッキー・マウスの息吹を計ること 計量アニメーションの学の試み」バリー・ソルト
これぞ研究だなあという感じはしたのだけど、ちょっとよく分からなかった。
書いてあること自体は非常に分かりやすいのだけど、で、この研究は一体何なのってところ(つまりこの論文を巡る文脈)が、この論文単体では分からなかった。
やっていることは単純ではあるものの、かなりすごくて、アメリカの初期アニメーション作品を対象にして、各フィルムのコマ数を数えたり、動いている範囲の面積を測ったりしている。また、もともとこの人は実写映画において、ショット平均持続時間、逆アングルの回数、視点ショットの回数を計ることによって、映画史を数量的に記述するという仕事をしていた人らしく、アニメーション作品に対しても同じ計測を行っている。
上で分からないと書いたけれど、「昔のアニメはよく動いたけど、次第にリミテッドになっていった」とか「演出技法が時代につれて進化していった」とか言われることを、計量することで、数字という客観的な証拠で確かめてみようという試みなのだろう。
第6章「セレクティブ・アニメーションという概念技法 「リミテッド・アニメーション」の限界を超えて」 顔暁暉
「リミテッド・アニメーション」っていうと、ネガティブなニュアンスがあるけど、もっと積極的に捉えてみましょうという論。
「フル・アニメーション」対「リミテッド・アニメーション」という図式に対して、「トータル・アニメーション」「フル・アニメーション」「ミクスト・アニメーション」「セレクティブ・アニメーション」「エクストリーム・セレクティブ・アニメーション」によるスペクトル的な図式を提案している。
まあ名前はともかくとして、フルとリミテッドのどっちか、ではなくて、実際にはもっとグラデーションになっているという話で、これは第4章でも言われていることとも通じる*6。
それから虫プロ『鉄腕アトム』を例に出して、リミテッド・アニメーションならぬセレクティブ・アニメーションならではの演出技法について論じられている。
*1:エイゼンシテインないし今井は、さらにそれをトーテミズムなどで説明しようとするのでなかなか無理な感じになってしまっているところがある。夏目であれば、実際に手塚の線をトレースしてみるという手法によって、伊藤であれば、「キャラ」や「マンガのおばけ」といった概念によって説明しようとしている
*2:いわゆる作画オタがアニメーターの名前を出して話すようなこと
*3:「気持ち悪さ」については、「動き」と「造型」で区別すべきであろうという指摘もあった。実際、「造型の気持ち悪さ」については美学では結構論じられている感じがする。「グロテスク」とか「悪趣味」とかいった感じで
*4:上のyoutube動画を参照。というか、自分も今ググって初めて作品を見たw
*5:ただこれは、ディズニーアニメのどの時期を指すのかにもよるのかも。エイゼンシテインも、ディズニーアニメ全てを肯定しているわけではなく、概して後期になるほど評価が厳しいよう
*6:1コマ撮りか2コマ撮りかと言われるが、実際には混用されている