最近、土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』 - logical cypher scape2を読んだが、同じ筆者による、博士論文をもとにした著作にして第一作。『個人的なハーモニー』が理論編、『21世紀のアニメーションがわかる本』が応用編とのことである。
ロシアのアニメーション作家ユーリ・ノルシュテインの『話の話』(1979年)を中心に論じつつ「アニメーション映画」というジャンル全体を射程にすえた議論を展開し、「アニメーション映画」が何を表現しているのか(「個人的なハーモニー」を表現している)を論じている本である。
『21世紀のアニメーションがわかる本』はタイトルからも分かるとおり、あくまでも21世紀以降の作品をとりあげており、そこでは「デジタル化」が分水嶺としてとりあげられていた。
一方、『話の話』は1979年の作品であり、当然デジタル化以前の作品であるが、本書では、前半においてはデジタル化以前=アナログなアニメーションの特徴である「コマ撮り」を取り上げているものの、後半からは、このアナログなアニメーションの代表作でもある『話の話』の中に、デジタル化以後のアニメーションとも通じる特徴(「コンポジット」)を見出し、この特徴について論じていく。
本書は、『話の話』論であると同時に、アニメーション史でもある。特に、一般的には「アート・アニメーション」とか「短編アニメーション」とか言われるジャンルであるが、『21世紀のアニメーションがわかる本』でも書かれている通り、筆者は「商業/アート」のような二項対立自体に批判的であり、本書ではアンドレ・マルタンが提案した「アニメーション映画」という枠組を用いて、その歴史を辿っていく。
その上で、「アニメーション映画」という表現には一体何か可能なのか、すなわち、どのようにして「個人的なハーモニー」を表現しているのか、ということが論じられている。
「個人的なハーモニー」というのは、「個人的な」と「ハーモニー」とに分割される。
「個人的な」=作家自身にしかわからないような個人的な時間性
「ハーモニー」=自分と世界との調和・永遠性の感得
個人的に一番面白かったのは、第3章
また、第1章も、アニメーション言説史として、勉強になる章
著者本人作成によるレジュメ
『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社)刊行記念イベント 資料
本当は、本の内容についてまとめたかったのだけど、読み終わってからブログ記事書き始めるまでに間があいてしまい、さすがに年を越えたくなかったので、内容要約は上のレジュメに代えることにします。
第0章 『話の話』という「謎」
『話の話』という謎めいた作品
本書のアプローチ──『話の話』を国際的な個人作家の文脈で考える
本書のねらい──「個人的な」作品をベースにアニメーションの歴史を再編する
第1章 「われわれのすべてが自分の木々をもっているのです」
「アニメーション映画」の想像力
「違ったふうに」世界を感じる
アニメーションの起源を探る──「アニメーション映画」の誕生と発展
「アニメーション映画」の堕落と忘却
フレームの「間」に生まれる「個人的な」時間
第2章 「すべての文明から離れた隠れ家へ…」
「アニメーション映画」の小さな革命
ノルシュテイン作品における取り残された場所
アニメーションの現実変革
「アニメーション映画」とディズニーのパラレル
「アニメーション映画」の社会性
世界の片隅に生まれる刹那の「永遠」
第3章 「私は現実から書き写すのだ…」
『話の話』とデジタル・アニメーションの不安定な現実
「書き写す」詩人
「原形質性」再考
デジタル・ロトスコーピングと不安定な現実
流動する記憶とアイデンティティ
第4章 「メタファーは世界の扉を開け放つ」
アニメーションの原形質的な可能性
フレームの「向こう側」
アニメーションを「芸術」とするために
他者に宇宙を見いだす
幽霊たちの視線を感じる
幻視者の瞳
結論
第0章 『話の話』という「謎」
『話の話』がどういう作品かという説明と、この本についての説明
この作品は、謎めいた作品とされてきて、例えばこれはロシアについての知識や文脈が分からないから分からないのではないか、ということで、当時のロシアについてや、作者本人や関係者にインタビューした研究書とかもあるらしいのだけど、
一方で、ロシア人にとっても、よく分からない作品だったと言われていて、それで以下のエピソードが紹介されてるのだけど、それがなんか印象に残った。
ソ連や東側諸国のアニメーションだと、寓話にすることで暗に権力批判を行う作品なんかもあったりするらしいんだけど、そもそも『話の話』は権力批判なのかどうかもよく分からない。で、当初のタイトルは『灰色オオカミがやってくる』みたいな奴で、これは単にロシアの有名な子守歌からとっただけらしいのだけど、ソ連国家映画委員会は『話の話』に変えさせている。「〜やってくる」というタイトルが不気味だったのと、よりわけのわからないタイトルに変えることで、現実とは切り離されて無害になる、という考えかららしい。
第1章 「アニメーション映画」の想像力
マルタンによって作られた「アニメーション映画」という言葉
→映画ともカートゥーンとも違う独立したジャンルとしての確立
→しかし、それは「美しき敗者」の歴史ともなっていく
(「美しき敗者」=商業的「ではない」から偉い、というようなロジック)
第2章 「アニメーション映画」の小さな革命
「アニメーション映画」と、(本来、「アニメーション映画」的ではない、むしろカートゥーンに連なる」ディズニー映画とのパラレル性→現実ではない、理想の世界を描く
加藤幹郎編著『アニメーションの映画学』 - logical cypher scape2で書いていたライアン・ラーキンの話も出てくる。
第1章と第2章で明らかになったのは、現在私たちが用いるアニメーションという言葉のその使用の起源には、個人作家による「別の」「個人的な」アニメーションがあったということだ。その主導者であるアンドレ・マルタンにとって、それは、知られざるアニメーションの姿を浮上させるのみならず、映画自体を再発明するという意味も持っていた。マルタンは、アニメーション=コマ撮りというCG登場以前の旧来のアニメーションの定義について突き詰めて考えることによって、コマ撮りアニメーションは、フレームの間隙を機械的・惰性的に通過してしまう実写映画よりも、静止したフレームの集積であるというフィルムの物質的条件を活用し、その可能性を最大限に発揮できるものだと考える。それによってもたらされるのは、作者の「精神物理的な」時間感覚に基づく世界の創出である。(p.166)
第3章 『話の話』とデジタル・アニメーションの不安定な現実
ノルシュテインはマルチプレーンの装置の内部において切り絵と並べて実写映像の投影を行っている。もしかするとsれは、ノルシュテインなりのコンポジット作業であったともいえてしまうのかもしれない。(中略)ハイブリッドな映像は、様々なリアリティをまとめあげ、その出自を消すことがないとき、現実感覚の確かさを消し、失調させる。/コンポジットやハイブリッド性が生み出すこの不確かさの感覚を説明してくれるのは、「原形質性」の概念である。(p.179)
ノルシュテインは、ロトマン同様にアニメーションは約束事性(ウスローヴチスチ)の介在によって成り立つと考える。そしてその理由において、アニメーションはむしろ、文学や演劇に近いとみなすのだ。なぜならこれらの芸術は、約束事を介在させることによって、「抽象性と物質性」を同時に扱うからだ。(中略)文学を読むとき、読者が実際に目にしているのは文字列にすぎない(物質性)。しかしそれを読むとき、読者はその文字列そのものではなく、言語という約束事の介在によって生み出される、本来は存在していない意味の次元の世界(抽象性)を体感する。(中略)抽象性のことを、ノルシュテインは「メタファー」という言葉でも語っている(pp.184-185)
エイゼンシュテインが原形質性という言葉で意味しているのは、アニメーションのビジュアルのそのリテラルなレベルで起こっていることではない。アニメーションを観る私たちの意識(つまり抽象性のレベル)において――すなわちノルシュテインの言う「メタファー」を知覚するレベルで――起きている変容である。二重性が活用されることで、描かれているもの(実際には存在しているもの)とは違ったものとを、アニメーションは観客に見せうるということ――物質的にはタコでありつつ、同時に、「メタファー」としては象になる――、それを語っているのである。(p.189)
コンポジットされて、(様々なスタイルが)ハイブリッドされたビジュアルが、「メタファー」のレベルでの変容を引き起こし、現実感覚を失調させる。
→『話の話』だけでなく、ロトスコープを使ったリンクレイターの『ウェイキング・ライフ』や『スキャナー・ダークリー』あるいは『戦場でワルツを』や『はちみつ色のユン』などのアニメーション・ドキュメンタリー作品もまた、同様
この章で行われた議論は、『話の話』を「アニメーション映画」=フレームの「間」の文脈から解放し、デジタル時代の実践=フレームの「上」の世界へと接続してみることであった。フレームの「上」で起こるハイブリッド性は、アニメーションの見過ごされた特質である原形質性と合流することで、流動するような現実感や常に変容するアイデンティティを描き出す、「個人的」であること、そして原形質性、その両者はともに、見逃されたアニメーションの性質を発見しながら、同じく見逃された流動性のある現実の姿を見いだしていく。(p.224)
第4章 アニメーションの原形質的な可能性
エイゼンシュテインを踏まえたノルシュテインのアニメーション理論を通して、『話の話』をはじめとするノルシュテイン作品を論じる章
「メタファー」によってフレームの「向こう側」へ
「世界とのエクスタティックな関係」
メタファーが機能することで誰かほかの人間の世界が観客の意識のなかで自分のもののように生きはじめること――そのことをノルシュテインは「追体験」と言っている。追体験とは、ノルシュテインにとって、芸術が存在する意味そのものである。(p.290)
「個人的」なものだが、その限界を自覚することで、自分の認識の外のものも到来する
死者・幽霊の声、幼いころの知覚へのあこがれなど