フランソワ・ダゴニェ『具象空間の認識論』(金森修訳)(中断中)

地質学や岩石学などを題材としてエピステモロジーの本

びおれん@薔薇の講堂 on Twitter: "この辺(イメージ美学による科学認識)はフランソワ・ダゴニェが『具象空間の認識論』や『イメージの哲学』でやってるのでオススメ。"
以前、描写の哲学で科学哲学と美学の両方にまたぐようなテーマに興味があることを呟いていたら、オススメされた
エピステモロジーは以前から気になっていたものの手を出したことがなかったので、また、地学に関する科学哲学というあまり見ない分野でもあるので、読んでみることにした。
したのだが、やはり全然知らない分野なので、なかなか読み方がわからない。
3分の1くらいまで読み進めたのだが、そのあたりで『天冥の標』を読み始めてしまい、いったん読むのを中断してしまってから、再開出来ずじまいになっている。

序論
第一章 岩石の認識論
第二章 風景の哲学
第三章 表層の発見論
第四章 心理の地図製作法
結論
自発的隷従の哲学(解説にかえて)

Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals"

動物の美学について論じた論文
動物を美的に鑑賞するのは不道徳なのかという問題に対して、機能美を鑑賞するのであれば不道徳ではないと論じる。


以前、青田麻未「動物の美的価値 : 擬人化と人間中心主義の関係から」を読んだ時に、主に紹介されていたもの
内容的にはおおよそ上の青田論文を読んでもわかる

要約

動物を美的に鑑賞することは、美学では無視されてきている。
まず、なんで美学で動物があまり扱われてこないかについて、筆者の推測が挙げられる
動物は芸術作品と比べて複雑な存在だからではないか→自然環境の美学は盛んなのに、動物が扱われていない理由にならない
動物を鑑賞することは非美的だからではないか→非美的なところは確かにあるけど、だからといって全く美的ではないということにはならない
動物を美的に鑑賞するのは不道徳だからではないか
道徳的な存在を、主体subjectではなく客体objectとして扱うのは倫理的に問題だろう。そして、あるものを美的に鑑賞するというのは、それを鑑賞の対象objectとすること。
パーソンズは、この不道徳反論に対して、不道徳ではないやり方で、動物を美的に鑑賞することはできると論じることで、動物の美的鑑賞を美学で扱えるようにしたい。


パーソンズは自身の説を展開する前に、他の哲学者や理論家が、動物の美的鑑賞をどのように理解してきたかを整理し、それらが不道徳反論を免れないことを示す。
ラスキンヘーゲルは、動物の生き生きとした様子を賞賛することだとした
あるいは、エキゾチズム
他には、擬人化やシンボリズム
そして、Zangwillらによるフォーマリズム
これらは全て、人間と動物との関係や動物自身には関係のない人間の関心から、動物を見ており、不道徳反論を免れないだろう、と。


パーソンズは、機能美として動物の美的価値を位置づける
実は18世紀にも、動物の美はこのように説明されていた
パーソンズは、機能美の意味を弱い意味と強い意味とに区別する
弱い機能美は、「Xの美しさがXの機能に適していること」
強い機能美は、「Xの機能がXの美しさの一部であること」
例えばキッチンの色や形は、前者。
カントのいう付属美や、デイヴィスによる機能美の分析も前者。
カントやデイヴィスによれば、機能と美は外在的な関係。機能から美は生じない。
これに対して、強い意味での機能美は、機能から美が生じてくる
チーターの身体のラインの美しさは、チーターの速く走るという機能から生じてくるもの


機能美を鑑賞することも、動物を対象objectとするという点は変わらない、とパーソンズは述べる。
その上で、機能というのは動物の主体性と関わるものであり、機能美の鑑賞は動物の主体性を倫理的に問題ある形で否定することはない、と論じている


機能美の鑑賞は、美的経験なのか? 知識獲得の喜びなのではないか、という反論に対して、確かにそこを混同してしまうこともあるが、芸術作品の鑑賞だって、芸術史やジャンルについての知識を得ることを含むわけで、だからといって美的でなくなるわけではない、と。


機能美は美なのか、ということについて、バークが『崇高と美の観念の起源』で論じているので、それに反論する。
バークはまず、美しいけど機能美じゃない例(孔雀)を挙げる
パーソンズは、別に全ての美が機能美だと主張してるわけじゃないから、これは問題ないとする。
次にバークは、機能美が美の十分条件にもなってない例(ブタの鼻)を挙げる。
パーソンズは、ブタの鼻は確かに機能に適しているが美しくない例だと認める。
しかし、確かに美しいbeautifulという評価語は適用されないだろうが、なお美的aestheticな性質は有するだろう、としている。

土屋健『化石の探偵術』

サブタイトルは、「読んで体験する古生物研究室の世界」とあり、古生物学研究の方法論についての入門書
化石を掘るための道具や地図の読み方・書き方から始まり、どのようなところを掘ればいいか、地層からどのようなことが分かるか、掘り出したあとの化石をどのように調べるか等といった内容


自分は、古生物や恐竜について本や記事を読んではいるが、フィールドに立った経験は当然なく、研究手法だったり、古生物学の中でも地学的な面だったりについてはあまり知らなかった。
まあ、古生物や恐竜についての本を読んでいれば、そういったことも断片的には入ってくるのだが、ひとまとまりに読むことはそうないので。


方法論だけではなく、具体的な古生物の話も書かれており、古生代中生代新生代それぞれからトピックが選び出されている。

はじめに
第零部 探偵術を知る前に……【基礎知識編】
第1章 知っておきたい「およその生命史」
第2章 現在は過去を解く鍵
壱部 徒手空拳は似合わない【アイテム編】
第1章 〝宝の地図〟が必要だ
第2章 細かい記録が、情報を生かす
第3章 〝七つ道具〟をそろえよう
第弐部 化石を探せ
第1章 化石になる、という珍しさ
第2章 〝宝箱〟を探せ!
第3章 〝岩〟にも手がかりはある
第参部 手がかりは現場にある
第1章 いきなり、掘るな
第2章 かつてそこは、海か陸か
第3章 上流か下流かーー水はどこから流れて来たか
第4章 上は本当に「上」か
第5章 あそこのアイツは同時代なのか
第6章 地層に数字は書かれていない
第7章 〝乱れ〟はないか?
第8章 地層の〝色〟は、保存に関わるかもしれない
第9章 時代の〝 ギャップ〟に注意せよ
第10章 博物館にも〝宝〟はある
第肆部 化石の声を聞く
第1章 化石を露出し、記録する
第2章 その輝きは〝後づけ〟
第3章 部分から全体を
第4章 〝犯人〟の手がかりを探る
第5章 傷に「異常」はないだろうか
第6章 その小石も手がかりとなる
第7章 歯は口ほどにモノを言う
第8章 眼は口ほどにモノを言う
第9章 化石を輪切りにすることで見えてくる
第10章 糞も化石になる
第11章 数があれば、見えてくるものがある
監修者より本書によせて
もっと詳しく知りたい読者のための参考資料

化石の探偵術 (ワニブックスPLUS新書)

化石の探偵術 (ワニブックスPLUS新書)

  • 作者:土屋 健
  • 発売日: 2020/10/08
  • メディア: 新書

壱部 徒手空拳は似合わない【アイテム編】

地形図、地質図の読み方、書き方など

第弐部 化石を探せ

化石形成
ノジュール
微化石
石の新鮮さ

第参部 手がかりは現場にある

地層は上の方が新しく、下の方が古いが、地殻変動で上下の向きが変わっていることがあるので、上下判定が重要。どうやって上下を判定するかなど、地層の見方
火山灰層の重要性
地層の不整合


博物館で化石を発見する話、例としてカムイサウルスの話が出てくるが、何度読んでも面白い

第肆部 化石の声を聞く

クリーニングしたあとの化石をあえて白く塗ってしまうという方法もある


複眼は化石として残ることがある
複眼のレンズの数を数えることで、どんな狩りをしていたか調べる(ウミサソリ類の研究)
強膜輪から開放F値を調べて、夜行性がどうか調べる
ステゴサウルスの骨髄炎、鎧竜は自身の骨を溶かして鎧をつくる、デスモスチルスは骨密度的に遠洋まで泳げる、いずれも骨を輪切りに調べた研究
などなど

トッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳)

サールの「生物学的自然主義」を引き継ぎ「神経生物学的自然主義」を掲げる筆者らによる神経生物学的な意識研究の本
前著『意識の進化的起源』のダイジェスト的な本らしく、前著の方を未だ読めていなかったので、とりあえずこっちを手に取ってみた。
基本的な話としては面白いのだが、意識のハードプロブレムの解決になっているのかというと、もっと詳しい議論を読まないとよく分からない、という感じで物足りなさが残った。

第1章 どうして意識は「神秘に包まれて」いるのか?
第2章 ギャップに迫る─イメージと情感
第3章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ①心的イメージ
第4章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ②情感
第5章 無脊椎動物の意識という問題
第6章 意識を生みだす特性とは何か
第7章 原意識の進化とカンブリア仮説
第8章 主観性を自然科学で解き明かす
デカルトの神秘的な幽霊の正体─訳者あとがきに代えて
用語集


第1章 どうして意識は「神秘に包まれて」いるのか?

第2章 ギャップに迫る─イメージと情感

意識は、外受容意識、内受容意識、情感意識の3つのドメインに分けられるとする。
さらに単純化して、心的イメージと情感の2つに分類する(外受容は心的イメージ、情感は情感、内受容が心的イメージと情感にまたがる)
また、説明のギャップについて、これを「参照性」「心的統一性」「心的因果」「クオリア」の4つに分けている。

第3章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ①心的イメージ

外受容感覚意識を生み出すには、感覚器官からの信号を受け取るニューロンが同型的地図として配置されていると推定
哺乳類だけでなく鳥類や魚類など脊椎動物の脳内のどこにそのような神経的基盤があるか
種類によって、脳内の場所は異なる
一方、無脊椎動物にはそのような神経的基盤がなく、同型的地図が初期の脊椎動物で進化したのだと論じている

第4章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ②情感

情感の基準として「大域的オペラント条件づけ」を行うかどうか
大域的オペラント条件づけまでは行わないが、単純な感情価と行動のシステムをもつ動物についてなど


イメージも情感も、種によってそれを実現する神経回路は異なる

第5章 無脊椎動物の意識という問題

無脊椎動物のほとんどは、脳の構造的に意識はないと考えられるが、節足動物た頭足類にはありそうということで、いくつか実験の紹介なと

第6章 意識を生みだす特性とは何か

全ての生命に備わる特性
脳神経系を持つ生命に備わる特性
原意識を持つ生命に備わる特性
の三段階に分けて、意識を生み出すそれぞれの特性を挙げている。


意識に関わるものとして、予測プロセス、注意、記憶を挙げている
ここでも予測誤差最小化

第7章 原意識の進化とカンブリア仮説

先に挙げた3つの段階がそれぞれいつ頃進化の過程で生じてきたか。
カメラ眼登場に伴う視覚先行説
意識の適応的価値


第8章 主観性を自然科学で解き明かす

デカルトの神秘的な幽霊の正体─訳者あとがきに代えて

用語集

感想

この本のいいところ、面白いところは、意識と一言で言っても色々あるよね、と言ってるところで
まず、同じ種内でもイメージ意識と情感意識の違いがあるという話(意識の議論は、大抵どちらかによりがち)をして、また、種によってこれらを実現する神経基盤が異なることを論じていて、それは面白い
一方で分からないのは、その基準を用いることとそれが意識であることの関係
まあ、ある程度測定可能というか客観的に判断できそうな基準を作って、調べてみる、というのは経験科学としては王道だと思うので、意識の科学としては、十分ありだと思う。
ただ、これでハードプロブレムに太刀打ちできるのかというと謎
こういう神経系になってるからこの動物には意識がある、ない、みたいな話をしているのだが、そもそもある神経系の仕組みと意識とが何で一致してると言ってよいのか、というのが意識の哲学的問題のはず


もっともこの本が、ハードプロブレムに対して全然ダメかというとそういうわけでもなくて、問題の腑分けをしているのは役に立つと思う
クオリアについての説明と主観性についての説明は分けた方がいい、という整理は、よい整理のように思う。
主観性を説明するのに、自-存在論的還元不可能性と他-存在論的還元不可能性というものものもしい言葉が出てくるが、これは、自分の脳は自分の脳神経の活動そのものをモニタするように作られていないし、また、他人と神経は繋がってないから他人の経験は経験できない、という話
個人的には、これは至極もっともな話で、ハードプロブレムの問題が説明のギャップに尽きるのであれば、まあ、これでもいいんじゃないかと思わなくもない。
ただ、ハードプロブレムって、神経系が必然的に意識経験を産むわけではないのでは? という問題なので、神経系が意識を生じさせていることを前提にしすぎると、ハードプロブレム論者を納得させることはできないのでは、という気はする


筆者は、説明のギャップを、参照性、統一性、心的因果、クオリアの4つにわけ、それぞれ神経生物学的な説明が可能であることを論じている
参照性というのは、志向性のようなもののことかなと思うのだけど、哲学者は志向性にギャップがあるとはあまり考えていないように思うので、何故これをギャップをなす特徴の1つとして挙げたのか、というのはちょっと疑問
で、問題はクオリア
筆者はクオリアを持つことの必要条件として生命であることを挙げている
このあたり、あまり明示されていなかったと思うが、サールっぽい
この本は意識の「多重実現可能性」にも言及しているが、あくまでも生物の中の話(意識は、脊椎動物無脊椎動物とで異なる神経によって実現されており、おそらく進化史の中で複数回獲得されたのだろうというような話)
非生命(ロボットやAI)が意識を持つことができるかどうかについて直接的な議論はないが、非生命的な情報理論としての意識理論には明確に否定的である。
サールが強いAI批判をしていたことを考えると、通じるものがある気がする。


また、本書は、生命が階層的なシステムとなっていることを強調している。
低層のシステムをベースに、さらに高次のシステムが生じてくる、と。
こういう階層構造もサールっぽい感じがする
(サールは、存在論的には物的一元論をとるけど、生物学や社会科学は、物理学に還元できないという立場で、それはなんかこういう階層構造的なものが念頭にあったような気がするけど、ここらへんかなり不確かな記憶で書いてます)
訳者あとがきでは、ケストラーのホロン概念が言及されていたけれども。


話をクオリアに戻すと
クオリアは、高次のシステムの持つ特性というかプロセスそのものであり、低次のシステムである神経の働きについてとは、そりゃ一致しないよね、という話をしていて
それの喩えとして、呼吸を挙げている
呼吸というのは、全身で見られる巨視的なプロセスであるが、細胞レベルで見られる微視的なプロセスもある。巨視的なプロセスと微視的なプロセスとは違うけど、どちらも生きていることによって生じているプロセスである、と。
クオリアも、生きていることによって生じてくるプロセスなのだ、と。
先程、生命であることがクオリアの必要条件であることとつながる話なのだが。
しかし、呼吸の喩えは本当に喩えとして成立しているのだろうか、というのは気になるところ。


同型的地図の話は、鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』 - logical cypher scape2にあった「内容理論」の神経系的な実装の話として捉えることができたら、面白いかなーと思った



神経生物学的自然主義に最初からある程度コミットした上でなら、この本の議論は面白いし、個人的にも、意識の話は当然進化生物学や神経科学の観点から考えるべきものだよね、とは思うので、その点、正しいアプローチなのでは、と思っている。
一方で、意識の哲学として読むと、ライバル理論を打ち負かすには、議論として足りてないのではないか、という感じがする。
特に、生命が必要条件である、というところは、機能主義だったり統合情報理論だったり、非生命でも意識を持ちうる可能性があると考える立場から見ると、この本の記述だけでは全然納得いかんのでは、という感じ。
訳者あとがきで、ケストラーの轍を踏んで神秘世界に落ちてしまわないように注意しないと的なことが書いてあったが、確かにそういう危険性もあると思う。

Marco Tamborini "Technoscientific approach to deep time"

古生物学(歴史科学)の科学哲学論文
古生物学において、いかに被説明項たる現象がテクノロジーによって生産され、処理され、提示されているか。
テクノロジーと不可分であることを示す。
Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)" - logical cypher scape2の参考文献に挙がってたので、手に取った。


Technoscientific approaches to deep time - ScienceDirect

1.Historical sciences and technology

古生物学(歴史科学)の科学哲学の最近の研究動向
Turnerの悲観主義とClelandの楽観主義の間の論争がまず紹介されている
最近、主に注目されているのは、過剰-過少決定の問題
しかし、テクノロジーはあまり注目されていない
それでも、さらに近年になって、傾向は変わりつつある。A.WyleやC.Wyle、A.Currieの研究

2.Technoscience

テクノサイエンスとは何か
科学とテクノロジーが一体してるような分野
化学やナノテクノロジー

3.Paper technology

18、19世紀の古生物学において用いられたペーパー・テクノロジー
スケッチや表、グラフなど
キュビエの骨のスケッチ
ブロンのグラフ(特徴を数量化し時系列上にグラフ化、進化のパターンを視覚化)

4.Twenty-first-century virtual paleontology

20世紀の初めから、X線が使われるようになり、
1960年代から、コンピュータが用いられる
さらに、21世紀から、いわゆるバーチャル古生物学
より完全なデータを抽出するツールとしてのバーチャル古生物学
単にデータを出してくるのではなく、可能なシナリオの生成ができるようになる。
ラウプの腹足類の殻の研究や、Gatesyのティラノサウルスの後脚の研究(実際のものだけでなく、取りうる形をパラメータいじって調べる)


5.Towards a technoscientific history and philosophy of historical sciences

技術的デバイスは、被説明項を提示する
キュビエは、スケッチから現れたものを説明しようとした
過去に起きた出来事そのものは知ることができないが、過去の力は、十分な現実として現れる
コンピュータで生成されたイメージは、古生物学者がアクセス可能な現実の一部であり、化石と存在論的な差異はない。どちらも、同じ現実に対する側面である


科学とテクノサイエンスの違いは、方法論的なものではなく存在論的なもの
探求の対象が単に発見されるのではなく、創り出される
理論的な表象と技術的な発明は絡み合っている


19・20世紀のペーパーテクノロジーと、20・21世紀のバーチャル古生物学は、強い連続性があるけれど、根本的に変化している。
X線MRI、3Dスキャナーやコンピュータは、表やグラフなどのペーパーテクノロジーにおげる二次元空間ではなく、三次元空間に拠っている
ラウプやGatesyによって視覚化された現象は、ペーパーテクノロジーでは視覚化できなかった


テクノサイエンスとして古生物学や歴史科学を捉えるアプローチは、歴史科学がどのように過去に対して認知的なアクセスをするのかについての理解を助けてくれる
キュビエやブロンやラウプらは歴史的な現象が現れるロバストなシステムを生み出しコントロールするための、テクニカルなスキルを開発してきたのであり、技術と理論のつながりを分析することで、自然史的知識の生産についての理解を広げられる。

Dominic M. Lopes "Drawing Lessons"

画像の認知的価値と美的価値の関係について
ロペスの画像・絵画の価値に関する論集の第4章にあたる論文
同じ本の第2章は以前読んだ
D.Lopes "The 'Air' of Pictures" - logical cypher scape2

個人的には、画像や絵画が、どのような知識がどのように伝えうるのか、という興味から読み始めた。
この論文の前半部は、まさにそのような観点から読むことができるが、後半部からは、認知的価値というのが、知識を伝えることにあるのではなく、知的な徳を涵養することにあるのではないかという観点へと移っていく。
そういう意味では、もともと持っていた自分の関心とはズレがあったが、こんなところにこんな風に「徳」が顔を出してくるのかーという点では面白かった


pictureは、絵画も写真も両方指す語として用いられる。ここでは、一括して画像と訳す。

Cognitivism

画像には、認知的よさと美的よさの両方をもつものもあれば、認知的デメリットと美的デメリットの両方を持つものもあるが、その一致は常に偶然であると考えるのが自律主義
そうした一致には偶然でないものもあると考えるのが、認知主義
この論文は、後者を主張しようとするもの

Knowing Pictures

絵画が知識に貢献するのなら認知的よさがあるのではないか

  • Knowing in, through, and about

画像について知ること
画像を通して知ること
画像の中で知ること、に分類
なお、例としてレンブラントの「ベルシャザールの饗宴」を使って説明されている
「この絵の作者はレンブラントだ」とかは、画像について知ること
ここで問題になるのは、画像の中で知ること
画像に描かれている内容を知ること

  • knowledge and warrant

知識は正当化された(warrant)真なる信念

  • statement blue or green

知識は命題だが、画像は命題ではないのではないか
画像は命題ではないが、画像は命題を主張することはできるのではないか。
知覚的信念の内容を「知覚的報告」と呼ぶことにする。知覚的報告は、知覚されているシーンの中に出てくるモノについての命題
同様に、描かれたシーンの「画像的報告」というのは、描かれたシーンの中のモノについての命題
画像は、画像的報告であるような命題を主張するのではないか。
が、これは広すぎるし、狭すぎる。
まず、1つの画像と結びつく画像的報告は無限にある。画像は、ほとんどの画像的報告が偽であったとしても、真なるステートメントを作ることがある
また、逆に、画像的報告にないような命題を主張しているようなこともある。


画像がpを主張してるというのは、画像がpを主張してるという仮説が、画像がその画像内容をもつことについてのもっともよい説明になっている時、その時に限る
これは、もし画像がグライス的なコミュニケーションの規範に適合するようになっているなら、合理的な仮定。


なお、この節からはラング「出稼ぎ労働者の母」を例に挙げて説明している

  • the limits of warrant

ある画像がある命題を主張しているとして、それは正当化warrantされるのか
まず、知覚的信念についてのwarrant schemaを示し、それと対比させる。
ノーマルな状況でノーマルな状態の観察者がみた知覚的報告は真である蓋然性が高いよね、という奴
画像の中で知ることを正当化するための2つの候補は、1つは画像の内容と画像的報告、もう1つは制作についての事実
前者をwarrant schemaに当てはまると、「画像的報告は真である蓋然性が高い」というのが明らかに偽
後者は、例えば写真的プロセスで作られたなら、真である可能性が高いとか、どこどこに掲載されてるなら、真である可能性が高いとか


なるほど、画像内容から知識を得ることはでかかるかもしれない
しかし、それは認知主義が正しいことにはならない
自律主義も、画像から知識を得られることによって画像が認知的よさを持つことは認めるけど、それが美的なよさを含意してることは認めない


認知主義は、作品のメッセージが美的価値と繋がってることはあるのではないか、と論じるかもしれないが、批評が重視するような要素は、そのメッセージの説得力であって、そのメッセージが真であるかや正当化されているかではない(美的に評価される時に、認知的価値と関わる要素は見られていない)

  • beyond truth and warrant

Virtuous Vision

認知的評価は、信念の特質(insightfulとかopen-mindedとかnarrowとかconfusedとか)もターゲットにする
認知的な目的は、知的な徳intellectual virtureを通して達成される
知的な徳を持つことは認知的なよさ
画像は、知的な徳を涵養することに貢献することで認知的な価値を持つのではないか

  • intellectual virture

知的な徳とは何かについての説明
外在主義と内在主義で、徳についての説明が違うことなど

  • fine observation

画像を鑑賞する時に、知識を獲得したりしようとしているわけでは必ずしもなくて、知的な徳のエクササイズ
実際に、画像は、知的な徳を涵養してるのか。
画像が見る者に対して要求するものが、知的な徳を強化するなら、そう言えるのではないか。
画像が見る者に対して求めるのは、よき観察者であること
よき観察者として求めること
(1)deliacacy of discrimination
(2)accuracy in seeing
(3)adaptability of seeing

Aesthetic Ascent

最後の節は、当然この論文の結論部で、画像が知的な徳を涵養することと、その画像の美的な価値がどのように関わっているか論じている箇所となっているが、省略する

  • cognitic -- aesthetic
  • Cognitivist criticism
  • fine seeing-in

”All Yesterdays: Unique and Speculative Views of Dinosaurs and Other Prehistoric Animals”

筆者は、 Darren Naish、John Conway、 C.M. Kosemen
以前読んだDerek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)" - logical cypher scape2の参考文献に出てきていた本だったので、手に取った。



Paleoart(復元画)についての本で、筆者のうち2名はアーティスト・イラストレイターである。
サブタイトルに、ユニーク&スペキュレイティブ・ビューとあるように、少し変わった見方を紹介している。
恐竜や古生物についてデータがあるのは化石が全てであり、基本的には骨である。
骨の長さなどは分かるが、皮膚がどのようになっているかなどは分からない。
作者は、そこにスペキュレイティブの余地があって、データとスペキュレイティブの両面から復元画が描かれるというようなことを述べている。
もちろんこれは何でもあり、という話ではなくて、データに基づいて、また現生の動物を参考にしながら仮説がつくられていくことになる。
本書の面白いところは、All YesterdaysとAll Todaysの二部構成になっているところで、前半では、恐竜や恐竜と同じ時代の古生物について個々の種について紹介されていくのに対して、後半では、現生の動物について、恐竜と同じ方法で(未来の古生物学者からの視点で)仮説とイラストが作られている。
実際の動物を知ってる身からすると、かなり奇妙な仮説や見た目が登場するのだが、恐竜でもこれと同様の推測がされていることがあるのだということと併せて述べられていて、古生物学の難しさと面白さが伝わってくる。


カルノタウルスの小さな手がディスプレイに使われていたのではないかとか
小型翼竜を捕食するでかいムカデとか
泥遊びするカマラサウルスとか
(表紙にも使われている)木登りするプロトケラトプスとか


逆に現生動物だと、ネコとかカバとかサイとかクモザルとかの、なかなか不気味でインパクトのある「復元画」が続き、未来の古生物学者による説明が付されていたりする
首が水平に伸びて動かないウサギとか、毒腺のあるヒヒとか、吸血ハチドリとか、実際の動物を知ってると何だそれは、という復元なのだが、これらは恐竜に対して実際にそのような仮説が言われたことがあって、それを適用してみたもの
あと、鼻も耳もない象とか、やけにほっそりした姿のクジラとかも