『犬王』

室町時代の猿楽師である犬王と琵琶法師の友魚(ともな)がバディを組んでロックをやる映画。
某動画サービスで見た。
2021年8月3日に、以下のようなツイートをしていた。

これ(『犬王』のこと)全然知らんかった
原作古川日出男、監督湯浅政明、脚本野木亜紀子、音楽大友良英
スタッフ名だけで情報量過多
あと、キャラクター原案が松本大洋

まあ、そういう作品である。
また、メインキャストとして、犬王に女王蜂のヴォーカルであるアヴちゃん、友魚に森山未來というのも話題を呼ぶ感じである。


室町時代にロックやってるという一点の映像・音楽だけで十二分に面白し、よい作品だったと思うが、物語的にはちょっと消化不良なところも残った感じだった。
動画サービスを使って細切れに見てしまったために、ちょっとその消化不良なところの印象が強い感じなってしまったが、劇場でちゃんと見たら、音楽シーンのよさに圧倒されてもっと満足感高かったかもしれない。
湯浅作品ってあんまり見たことなくて、
『夜明け告げるルーのうた』 - logical cypher scape2『映像研には手を出すな!』しか見ていないのだけど、逆にこの2つがとてもよかったので、というギャップはあるかもしれない。いや、『犬王』もかなりいいんだけども。

あらすじ

壇ノ浦の友魚は、父親ともども侍からの依頼をうけて、壇ノ浦の戦いで海に沈んだ天叢雲剣を回収するのだが、その呪いにより、父親は死に、友魚は失明する。亡霊となった父親に突き動かされ、友魚は復讐の旅に出る。
旅の途中、琵琶法師に出会い、友魚も琵琶法師となる。「覚一座」に所属し「友一」と改名する。名前を変えることで、父親の亡霊が友魚を見つけられなくなり、次第に復讐を忘れていく。
京都へ着くや、異形の少年である犬王と出会い意気投合
犬王の異形は亡霊による呪いであったが、犬王と友魚は、亡霊たちの声を聞くことで、今まで誰にも知られていなかった平家の物語を拾い上げる。
この新たな平家として披露されるのが、さながらロックのような音楽と、犬王のド派手なダンスパフォーマンスとなっている。
琵琶ヴォーカル(?)の友魚は、ベースのような巨大琵琶と巨大和太鼓、火ふき男によるバンドを引き連れ、犬王はその異形の手足だけでなく、巨大な舞台装置を駆使したステージングを、河原で披露する。
2人のパフォーマンスは、客にも手拍子させたり歌ったり踊ったりを求める、斬新な舞だと評判を集める。
いやそうはならんやろ(その楽器からその音は鳴らんやろ、火だけでその照明効果は無理やろ)みたいなオンパレードではあるけれど、しかし、室町時代風ロックはめちゃくちゃかっこいいし、犬王のステージングは、現代であっても再現不可能なような演出を含んでいて、見ていてとても楽しい。
普通にどの曲もかっこいいんだけど、やっぱり、「でっかい鯨」があまりにも最高
「でっかいでっかいでっかい鯨~」って河原に詰めかけた群衆が唱和する室町のロックフェスのラブ&ピース感
室町ロック全然楽しめた派なんだけど、ライブスタッフというかセキュリティというかみたいな人たちまでちゃんといたのには笑った
アヴちゃんの歌がよいのは当然として、森山未來ってこんなヴォーカルができるのかと、まあ、森山未來のこと全然知らないだけなんだけど、驚いたりした。
そうやって民衆の心を鷲掴みにして、友一は「覚一座」から独立し、「友有」に改名し「友有座」を結成する。
さて一方で、当時、将軍足利義満と猿楽や琵琶法師には以下のような関係があった。
一つには、義満は観阿弥と藤若(後の世阿弥)を寵愛していた。その一方で、犬王の父が棟梁である比叡座は不遇をかこっていた。
もう一つ、まだ南北朝統一はなっていなかったが、南北朝統一を視野におさめた義満は、平家物語の正本編纂を覚一に依頼していた。
人気のあがりつづける犬王は、将軍の前で舞う機会を得る。
これに我慢できなかったのが犬王の父であったが、犬王と友魚は、将軍の前で舞う中で、犬王にかけられた呪いのもとが、この父親が呪われた面に対してした願掛けであったことを知る。父親は逆にこの面に襲われて死に、犬王は呪いから解放される。
犬王の異形は、踊る度に普通の人間に戻っていっていて、この犬王の経過はまんま『どろろ』ではあった。
こうして晴れて呪いが解け人間の姿となった犬王は、新たに義満の寵愛を受けるに至る。
一方で、平家物語の正本統一を命ずる義満は、友有座を弾圧。古巣である覚一座は友一の名を再び名乗るよう友有に助け船を出すが、友有は自分の音楽を捨てることはできず、斬首となる。

ラストについて

ラストシーンで時代が現代となり、亡霊となって彷徨い続ける友魚を犬王が再び見つけて、成仏するという結末になっている。
友魚は斬首される瞬間「俺は壇ノ浦の友魚だ」と再度名前を変えたため、犬王は長年見つけることができなくなっていたが、ようやく見つけることができた、というオチになっている。


まず、犬王はうまく権力者に取り入り、友魚は逸脱者として処刑されるという展開について。
犬王は、その平家を続けるようなら友有を殺すぞ、と義満に脅されたために、ロックを捨てたのであって、犬王の行動は友魚を守ろうとしたゆえのもので、決して裏切ったわけではない。一方の友魚にあっても、その信念に殉じての死であり、それはそれで尊重される選択ではある。
また、少しメタ的な話をすると、犬王というのは謎めいてはいるが実在の人物であり、本作はその歴史の隙間を埋めるような設定の話になっているので、そこに着地させるためには当然こうなるという展開でもある。
つまり、犬王は、実際に義満の寵愛を受けた猿楽師らしいのだが、その曲は全く残されていないのであり、友魚の方は架空の人物である。犬王が義満に阿る猿楽師として生き残り、そして友魚とその音楽が葬り去られることによって、確かに史実とのつじつまがあうことになる。
というわけで、この展開自体は理解できるのだが、なんかわりと唐突に始まって唐突に終わるので、感情の流れ的な点で納得しそこねた感じがある。
ところで、このあたりのことは以下の記事が面白かった

『犬王』は夭折する異端児と、社会に適応する異端児の双方を描いている。とりわけ僕は異端児が予想外に社会への幇間が上手であるという物語も描いていることが興味深いと思った。夭折した異端児というのは物語として受け取りやすいこともあり、数多くの映画がよく描くのだが、実は異端児が器用に世渡りするというドラマになりにくい部分を描くのは珍しく、本作の見どころと言っていい。
(中略)
僕は『犬王』は “伝統的な芸能を打ち破る異端児の物語”の爽快感と言うより、異端児が予想外にも社会に適応し、世渡りして出世してゆく苦さのほうが印象に残る作品だと思った。
『犬王』レビュー: “異端児”を描くのに古いロックみたいなカウンターカルチャーを持ち出すのは正しいのか?


最後のシーンが現代であることについて。
これは全然説明がなくて、よく分からなかったところである。
名前が変わったから600年も見つけられなかったよー的なエクスキューズがあるにはあるけれど、そういうことではなく……。
スティーヴ・エリクソン『君を夢みて』(越川芳明・訳) - logical cypher scape2に引き続き、俺はロック史が分からんからなーとなったのだが、本作の音楽は、おそらく元ネタがある。そして、一番最初に橋の上で披露する曲、鯨、最後に義満の前で披露する曲と、それぞれ曲調が違うので、おそらく元ネタも異なっているのではないかと思う。となると、まあ本当に全然分からないので完全に想像ではあるが、なんとなくロック史へのオマージュが捧げられているのではないか、という気がしている。
で、ラストシーンは現代なのだけど、この現代ってロックはもう時代の音楽ではなくなっている時代じゃないか、と(時期を特定できるような描写はないが、普通に考えれば2020年代なんだろうし)。
600年前に奇しくもロックの先駆けとなっていた者たちが現代にも再び姿を現すのであれば、そこに何らかの対応を示す仕掛けがあった方が、まとまりが出たのではないかと思う。
最後に、犬王と友魚が少年時代の姿に戻って再びともに音楽をするのはエモーショナルではあるけれど、しかし、とってつけた感は否めなかった。