グレアム・プリースト『存在しないものに向かって 志向性の論理と形而上学』

志向性*1について非存在主義を採用することで一般的な説明を与え、また同時に非存在主義についての擁護を行う本。
非存在主義とは、存在しない対象についても指示や量化ができるという立場。マイノング主義ともいわれ*2、かつてラッセルやクワインによって批判された。
論理学が分かってないと読めない部分が多く、実際、自分はかなり読み飛ばした。なので、理解としてはあやふやな部分も結構あるが、それでもある程度の論旨は分かって、面白い本だった。


非存在主義は、存在しない対象が、何か特別な形で存在しているとかいったそういう主張ではない。存在しない対象はいかなる意味でも存在しない。しかし、そうした対象を指示したり量化したりすることはできるという立場。
近年では、リチャード・ラウトリー(のちシルヴァン)が詳細な分析をすすめた(マイノング主義ではなく非存在主義と名乗ったのはリチャード)。彼は若くして亡くなったが、この本はその強い影響下に書かれた、とのこと。

第一部 志向性の意味論 第1章志向性演算子

述語と演算子の違いが、補部に名詞句をとるか節をとるかと説明されていた。
非存在対象を量化するために、存在を含意しない量化記号を導入する。∀、∃の代わりとなる量化記号が使われる(PCだとどうやって出すか分からないの出せない)。
可能世界意味論をさらに拡張した、世界意味論が導入される。可能世界だけでなく、論理法則が不可能な不可能世界、論理的帰結に大して閉じていない開世界がある。開世界があることで、論理的全知の問題が解決できる。

第2章 同一性

同一者の置換可能性(SI)についての問題。
エウブリデスのパラドックス。古代の逆説家としてはゼノンが有名だが、プリーストはエウブリデスの方がより偉大であるとしている。様々なパラドクスがあるが、大きく分けて4つのパラドクスがあるという。すなわち、嘘つき、フードをかぶった男、砂山、角の生えた男である。ここでは、フードをかぶった男のパラドクスが問題となる。
志向的文脈ではSIが成り立たないので、パラドクスも成立しない。

第3章 思考の対象

志向性演算子から志向性述語の話へ。
述語には、存在帰結的なものとそうでないものがある。非存在対象には、後者の述語は適用できない。aがbを蹴るといった述語の場合、bは存在しなければならないので存在帰結的。aはbを怖れるといった述語の場合、bが存在しなくてもいいので存在帰結的ではない。
志向性述語においては、SIが成り立つ。
不確定性の問題→志向性演算子に変えるという分析を行う。
この章では付録として、中世論理学についての説明がつけられている。
代示suppositionについて*3。項辞には、「拡大」という性質があって、現在だけでなく過去や未来、あるいは可能な対象も代示することができる。どこまで拡大できるかについて論者によって異なるが、非存在対象まで拡大を認められており、中世の論理学者は非存在主義を採用していた。
不確定性と置換可能性については、オッカムとビュリダンの立場についてそれぞれ説明されており、プリーストはオッカムに近い立場。ビュリダンの使う「アペラチオ」という概念は、フレーゲの「意義」と似ている。

第4章 特徴づけと記述

対象のSein(存在についての身分)とSosein(対象のもつ性質)の区別
最も素朴な特徴付け原理は、どんな対象についてもその存在が帰結してしまう。そこで特徴付け原理に使われる性質を制限する方法がとられた(想定可能性質、特徴づけ性質、核性質)→しかし、そのような試みはうまくいっていない。→ある描写によって特徴付けられた対象はその性質をもつ、ただしそれは現実世界ではなく、その描写によって記述される世界において。

第二部 存在しないものを擁護する 第5章 なにがないのかについて

ラッセル、クワインによるマイノング批判に対する反論
ラッセルは、ある時期自らもマイノングに似た見解を持っていた→ラッセルによるマイノング批判は、マイノング批判というよりかつてのラッセル自身を批判したものとなっている
非存在主義は、ペガサスやサンタクロースなどの非存在的対象が存在しないということに同意するし、また「存在する」とは別の意味で「ある」とかいったことも言わない。
クワインは、不可能対象を認めるとそれについての記述が矛盾になるとするが、非存在主義は必ずしも矛盾に与するわけではない(現実世界ではなく、描写された世界を使うから)。
クワインによる、確定記述に置き換えて消去するという解決法はうまくいかない。固有名と記述は同じ意味ではないから(同じ意味なら「ゼウスはギリシアの神の長である。」は分析的なはずだが、これは分析的ではない)。志向的文脈に使うと失敗する。
クワインが、存在とは束縛変更の値だと言ったが、これを支持する実質的な議論はない。そのように想定していたというだけに過ぎず、中世論理学を知っていれば、これ以外の読みがあったことを知っていたはず。
戸口に立っている可能的な太った男は何人いるのか(非存在対象の同一性の問題)→この不確定性は、非存在対象の同一性条件が不確定だからもたらされるのではなく、記述が話者の意図を含む文脈に依存しているから。文脈の不確定性を取り除けば、同一性も確定できる。

第6章 フィクション

非存在対象の中でも代表的なものとして、フィクションの対象について考える。
フィクションの対象の特徴付け性質の多くが存在帰結的だが、それは現実世界で成り立っているのではなく、それが描写された世界において成り立つ(第4章)。
作者とは、その対象について最初に想像した人のこと。
非存在主義は、矛盾を含むフィクションを認める。矛盾こそがその物語の本質になっている作品もあるので、矛盾をなくすように解釈することがいつでも正しいとはいえない。矛盾があるからといってあらゆることが帰結してしまう(爆発)わけではない論理=矛盾許容論理を採用する。
この章では、「シルヴァンの箱」というプリーストが書いた短編小説が付されている。
この小説は事実をもとにして作られたストーリーである。リチャードの遺品を整理するために、彼がかつて暮らしていた家に訪れた「私」は、ニックと共にリチャードの残した原稿などをチェックする。その中で、「不可能対象」と書かれた箱を見つける。その箱の中に不可能な対象を彼らは見つける。
ラストシーンは、文字通り矛盾しているが、物語自体は整合的であり、矛盾であることが物語にとってちゃんと意味のあるシーンとなっている。
フィクション中の矛盾が、作品の瑕疵ではなく、むしろ積極的な意義をもつこともあるということを主張している点に共感した。

第7章 数学的対象と世界

フィクション対象と同じく、非存在対象の代表的なものとしての数学的対象ないし抽象的対象について。
抽象的対象→マイノングは存在しないが、存立すると考えた。ラウトリーは単に存在しないと考えた。
抽象的対象とは、もしそれが存在していたとしても、私たちと因果的に相互作用しなかっただろうような対象
非存在主義に対する5つの反論、指示、知ること、アプリオリなこと、数学の応用、プラトニズムについて再反論がなされる。
やはり面白いのは、指示について。指示は因果関係を要求しないので、非存在対象についても指示ができると主張している。また、心による指差し=原初的志向性によって指示ができるとしている。これは、純粋な意図の働きによるもの。私的なもの、神秘的なもののようにも思えるが、プリーストは一蹴している。
数学的な知識とフィクション的対象についての知識には、当然相違があるが、質的に大きな違いがあるわけではない。
数学を使って現実世界の物理について知ることができるのは、数学的対象と物理的対象の構造が同じだから。
非存在主義は擬装したプラトニズムではなく、プラトニズムこそが擬装した非存在主義である。

第8章 多重表示

非存在主義に対する最も重大な批判だとプリーストがみなしている問題について書かれているが、一番よくわからなかったので、読み飛ばした。すまん。


そういえば、注釈の中ではあるが、八木沢敬の論文への言及があった。日本人の論文に言及があるのは珍しいなと思った。あと、中国人*4の論文への言及もあった。当たり前っちゃ当たり前だけど、英米系とは言われても、別にイギリス人とアメリカ人だけがやってるわけではない。
はしがきに書かれた謝辞の中には、柴田正良の名前もあった。訳者あとがきによると、半年間京都に滞在していたこともあるらしい。


非存在主義は魅力的、というか、存在しないものについてだって有意味な言明を私たちは普通にやっているのだから、それを当然認めようという、その名前のインパクトと比べて、わりと当然のことを主張しているように思える。
特に、フィクションについての考え方は好きなのだが、最近自分はフィクションについての説明としてはウォルトンのごっこ遊びが妥当だと考えていて、ごっこ遊び論と両立するのかどうかがよく分からない。ウォルトンは可能世界を使ってフィクションを説明することを否定するが、開世界とかまで出てくるとどうなるのかよく分からない。プリーストの貫世界的同一性の説明もいまいちよく分からなかったし(というか、プリーストは貫世界的同一性みたいな問題が生じないと考えている)。
数学的対象についての話とかも判断しにくい。
クワインからマイノング主義への批判を、ばったばったとなぎ倒していくあたりは非常に痛快な感じだけど

存在しないものに向かって: 志向性の論理と形而上学

存在しないものに向かって: 志向性の論理と形而上学


この本は、英語版が表紙がすごいので、そっちの書影もはっておくw
プリーストは「空手道を愛し、糸東流四段の腕前であ」*5り、また、非古典論理を用いた仏教思想の分析とかもやっているらしい。日本語版のはしがきで、非存在主義は仏教哲学に適用できると述べている。

Towards Non-Being: The Logic and Metaphysics of Intentionality

Towards Non-Being: The Logic and Metaphysics of Intentionality

*1:「〜ということを知っている」とか「〜について怖れる」とか

*2:マイノング主義が非存在主義の一種なのだと読みながら理解したが、訳者解説だと非存在主義がマイノング主義の一種だと書かれていた

*3:他の本では「代表」と訳されていた気がする

*4:王文方という名前なので、中国人だと思う

*5:グレアム・プリースト - Wikipedia