倉田剛『「現代存在論入門」のためのスケッチ』

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著者が計画している『現代存在論入門』(仮題)という著書の「スケッチ」ということで、プロトタイプになるような原稿が公開されている。
普通の文章に混ざって、ヨシオ、ノリコ、タカシの会話文が挟み込まれるスタイルで書かれている*1
序論から第九章までが構想されており、第一部では第一章と第二章、第二部では第三章と第四章、第三部ではおよそ第五章と第六章にあたると思われる部分が書かれている。

第一部

まえがき

存在論形而上学の一部であると位置づける。ただし、形而上学の核心部分である。
何故存在論入門が書かれる必要があるのか。
(1)日本語で書かれた適当な書物がないから。
(2)日本で存在論というとハイデガーがイメージされることが多いが、そのような傾向を払拭したいから。
(3)哲学への手引きとして存在論がふさわしいから。
(4)存在論は、哲学とそれ以外の学問分野を結ぶ理論だから。
(5)筆者は、今までオーストリアの哲学者を通して存在論について考察してきたが、一度哲学史から離れて整理してみたかったから。

序論:何が存在するのか

どのような種類のものが存在するのか
「行為」や「出来事」、「性質」と「関係」、「集合」と「部分」
経済原理(あるいは「オッカムの剃刀」)
「事態」や「事実」、「フィクションの対象」や「可能的対象」
「領域的存在論」と「一般的存在論」→我々の仮題は「一般的存在論」を記述すること。

第一章 カテゴリーと形式的因子

存在論的カテゴリー」→存在を分類する最高次の類。ただし、本当に最上位まで遡ると何もかも全てが「対象」に属することになるが、これでは分類の用を足さないので、「対象」はカテゴリーではない。アリストテレスは、10個のカテゴリーを挙げた。
カテゴリーは集合ではない。
カテゴリーを個別化する属性を形式的因子と呼ぶ。例えば、ある何かが、「実体」と「出来事」というカテゴリーのどちらに属するかという時、時間的部分を持っていなければ「実体」、持っていれば「出来事」である。この時間的部分という属性が、形式的因子である。
存在論的スクエア」:現代存在論において重視される、『カテゴリー論』に出てくる4つのかてごりー。すなわち、普遍的実体、普遍的偶有性、個別的実体、個別的偶有性。「述語となりうる」という形式的因子があると「普遍的〜」、「述語となりえない」と「個別的〜」、「依存的でない」と「〜実体」、「依存的である」と「〜偶有性」となる。

第二章 二カテゴリー存在論と四カテゴリー存在論

二カテゴリー存在論:普遍者と個別者を基本とする。普遍者と個別者は、例化関係にある。「このリンゴは赤い」というとき、「このリンゴは赤性を例化している/赤性の実例である」と言われる。普遍者は例化されうるもの、個別者は例化されえないもの。また、全ての実例が個別者であるわけではない。赤は色を例化している。個別者と普遍者のどちらが優位にあるかで、さらに立場が分かれる。普遍者は、個別者を実例としてもっていなくても存在すると考える立場(プラトン的)と、普遍者の存在はそれを例化する個別者の存在に依存すると考える立場(アリストテレス的)。
四カテゴリー存在論:先述した存在論的スクエアをもとに、近年、イギリスのロウによって洗練された。オブジェクト(個体的実体)、様態(個体的偶有性、最近はトロープとも)、種(普遍的実体)、属性(普遍的偶有性)の4つを基本とする。存在論をカテゴリーのシステムとして捉える。
・種はオブジェクトに例化される。(トマトという種はこのトマトとして例化される)
・属性は様態に例化される。(赤という属性は、このトマトの赤さとして例化される)
・種は属性に特徴づけられる。(トマトは、赤によって特徴付けられる)
・オブジェクトは様態に特徴付けられる。(このトマトは、このトマトの赤さに特徴付けられる)
・属性はオブジェクトに例示される。
例示関係について、オブジェクトは、種の例化やトロープの特徴付けを通して間接的に属性と関係している。これを用いて、傾向性を説明することができる。このコップの水が水という種を例化している時、種の属性「100度で沸騰している」を例示している(実際に沸騰していなくも)。実際に沸騰した場合は、「100度で沸騰している」というトロープで特徴付けられていることになる。
「形式的存在論」の「形式的」という言葉について、「論理学的」という用法と(コッキャレラなど)、「一般的」という用法(フッサールなど)とで使われる場合がある。
認識論や言語論との関係について
実在論vs唯名論」と言われるときの実在論と、「実在論vs反実在論構成主義)」と言われるときの実在論は、ちょっと違うものなので注意。後者はメタ存在論

第二部

第一章*2 普遍者とは何か

普遍者:反復可能なものであり、遍在可能なものであり、個々のものが共有しうる同一の何か
普遍者を擁護するいくつかの立場
(A)普遍者は、類似性にもどづく分類に基礎を与える
(B)日常的な言語使用は普遍者の存在に深くコミットしている
「数的に同一」と「タイプ的に同一」の違いについて
(C)普遍者は、主語述語形式の文の真理を形而上学的に説明する
フレーゲの言語表現の分析(固有名と関数表現)が、世界に対応しているものがあると考える。固有名に対応するもの個体だとすると、関数表現に対応するのが概念。そしてその概念というのが普遍者ではないか。
多くの論理学者は、概念を集合だと考えるが、フレーゲは概念は集合ではないと考えていた。「共外延」の問題。「Xは肝臓をもつ」と「Xは腎臓をもつ」という関数表現に対して、「肝臓をもつ性」と「腎臓をもつ性」という概念が対応する。概念=集合だとすると、それぞれの性質をもつものの集合は同一であり、2つの概念は同一ということになってしまう。
フレーゲにとって、文の意味は真理値であり、また、彼は真理値を対象と考えていたので、対象の下位カテゴリーとして真理値があると考えていた。理論的整合性はあるが、真理値が存在するというのはよく分からないので、文に対応するものとして事態が存在していると考える存在論者が多い。
抽象指示の問題→性質がいつも関数表現になるとは限らない。性質が主語になるような文を、全称量化文として分析すると明らかにおかしい分析になる場合がある。非述語的な普遍者→「タイプ的対象」

第二章*3 唯名論への応答

クラス唯名論(集合唯名論):集合のメンバーシップによって説明しようとする。個別者を持たないタイプは、全て空集合なので、全て同一と見なされる問題→実在論者の中でも個別者を持たない普遍者は存在しないと考える者もいるので問題ない。共外延の問題→可能世界を使えば解決できる。→偶然的に共外延な性質についてはよいが、必然的に共外延な性質については解決できない。同一性の問題。デタラメな集合もタイプとなるのか問題。
類似性唯名論:類似性による自然な集合だけがタイプとなる。プライス→典型例への類似性→認知意味論におけるプロトタイプとカテゴリー化、ウィトゲンシュタインの家族的類似性などと関連
述語唯名論:aがタイプFに属するというのは、aが述語Fに適合していると考える。言語に依存してしまうという問題がある。例えば、もし「Xは草食である」という述語がないとしたら、草食であるという性質について説明できなくなってしまう。アームストロングは、述語唯名論よりも集合唯名論の方が優れていると主張。

第三部

2.個別的性質あるいはトロープについて

唯名論としてのトロープ理論について
反復されない、普遍的ではない性質
述語づけられない、個体から独立して存在することはできない(アリストテレスの個別的偶有性の説明)
「ヨシオのタカシに対する愛」などの関係的性質の個別なものについても言いうる。
哲学者によってそれぞれ異なる命名をされてきたが、現在ではウィリアムズの「トロープ」という名称が定着してきている。

3.個別的性質の存在

トロープという存在者を認めるのは経済原理に反するのではないか。トロープの存在を主張する論証について
(A)変化からの論証(色あせるといった変化)
(B)消失からの論証
(C)知覚からの論証
(D)因果性からの論証(普遍者は時空のうちに存在しないので因果作用を及ぼせないが、因果作用を及ぼすような性質は存在しており(例:「そのケーブルの脆弱さが橋を崩壊させた」)、それは時空間に位置をしめるトロープである。

4.唯名論としてのトロープ理論

ウィリアムスは、トロープを唯一の真正なカテゴリーであり、他は派生的なカテゴリーと考えた。
個体はトロープの和である(束理論)*4。無数のトロープを束ねる「統一性」は何かという問題がある。トロープ論者は「共在」などと呼ぶ
普遍者はトロープの集合である。(和と集合は異なる。和は構成要素と部分関係に立つ、集合は構成要素とメンバーシップ関係にある)

5.トロープ理論の批判的考察

アームストロング:トロープ論者は普遍者の問題を先送りにしているだけ。どういう原理で、各トロープは集合を構成しているのか。
性質と類似性の関係について:唯名論者は類似性で性質を説明しようとするが、実在論者からすれば類似性を規定するのが性質

6.実在論とトロープ理論

フッサールグロスマンなど、普遍者とトロープの両方を認める立場もある。
フッサールは、トロープを「モメント」、普遍者を「スペチェス」と呼ぶ)
経済原理に反していると見るか、問題点をうまく解決できていると見るか

7.束理論としてのトロープ説の問題点

束理論は、トロープに限らず、個体を性質の束と捉える説で、原型はイギリス経験論。
個体は性質が変化しても同一であるということを説明できないという批判。
個体についての性質を述べる文が全て分析的となってしまうという批判*5



存在論面白い。読んでて何度も「おお〜」となった。
こういう入門書はもっとあってよいと思う。
トロープが何かやっとわかった*6。他にも、例化とかタイプとか色々。
傾向性についての説明、共外延の問題、抽象指示の問題あたりが結構面白かったかな。
あと、類似性唯名論がうまくいかない感じはありありとしているけれど、しかしどうも、種とか普遍とかが「存在している」というのが実感として納得できない感じはある。
系統樹思考の世界」みたいな感じで、種とか性質とかは世界の側で分類があるわけじゃないんじゃないかと。生物種については、特にそう思う。性質だと、例えば色はスペクトルになってて。つまり、生物種も色も連続的になっている。それを分類するのは、人間の側が認識するための都合なんじゃないかという話。
しかし、まあありとあらゆる性質が連続的なわけではないけど。
この赤とあの赤は違う、という実感はあるので、トロープという考えは納得いくのだけど、トロープ一元論はどうも。というか、この束理論の問題というのは常々気になってきた問題である。束のような気もするし、束じゃないような気もするw
ある個体がその個体であるための必然的性質、みたいなものがあるのか。でも、これはあるような気もするんけど。固有名はそれを指示しているのではないかと。
以前も書いたことがあるけれど、批評界隈で「固有名」というと、固有名そのものよりはそうした性質のことについて論じているように見える。さらに言えば、それは記述することのできない、何か神秘的な性質のように捉えられているのではないか、と。とはいえ、そういうふうに考えてもいいけど、そこまで考えなくてもいいんじゃないのかとも思う。つまり、何が言いたいかというと、批評界隈は「固有名」って言葉を使わずに、例えば「単独性」みたいな言葉を使った方がいいと思うという話。
あと、個人的には、シノハラユウキという個体の必然的性質としては、自分の両親から生まれてきたこととかがあげられると思う。例えば、シノハラユウキが5月生まれでなくて6月生まれだったとしてもそれはシノハラユウキだと思うけど、シノハラユウキが別の両親から生まれてきた場合はそいつはもうシノハラユウキではないと思う。あと、この考えは、クリプキの可能世界を使った固有名=確定記述の束説に対する例の批判とも両立していると思う。というか、クリプキが虎が哺乳類であることは虎にとって必然的って言っていたことを考えると、個体についても同じ主張を当てはめてよいはず。
うーん、しかし、必然的性質があることを認めたとして、その必然的性質(を持っている対象)が固有名の指示対象なのか*7とか、その必然的性質がトロープの束を束ねる核性質なのかとかになってくると、どうももやもやする。同一性って何かって話かな。
話が大いにそれた気がする。
今回、この文章を読んで、「類似性」というのが非常に厄介で、なおかつ面白い問題であるということを改めて知った。「類似性」って言葉は何度も出てきたけど、「同一性」って言葉はあんまり出てこなかった。
上述したように、普遍っていう問題があまりピンと来てなかったんだけど、それは類似性についての説明と関わりあってるんだと言われて、その問題の意義が分かってきた気がする。

*1:このスタイルについても検討中のようだが

*2:第三章にあたる

*3:第四章にあたる

*4:束理論はトロープ以外にもある)

*5:プリーストが、固有名=確定記述の束説に対して同型の批判をしていた

*6:まあ、簡単な説明とか書いてるブログとかあった気がするけど、ブログは断片的になりがちなので、結局何だったのか分からなくなりがち

*7:指示対象であることは間違いないが、その性質についての記述によって指示することと固有名によって指示することが同じことなのか