『犬狼伝説』と『GUNSLINGER GIRL』/日常化した非日常的存在/自分にとっての文学・文芸評論

最近読んだ。ガンスリは新刊を買った。犬狼伝説は友達から借りた。

GUNSLINGER GIRL 9 (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL 9 (電撃コミックス)

あと、このエントリも加えておく
「ヘンリエッタとジェイソン・ボーン――あるいは例外状態の倫理」(BLUE ON BLUE(XPD SIDE))
犬狼伝説」で描かれているのは、凶悪犯罪の増加に伴う警察の軍化である。
そして、警察の軍化は、平時と有事の区別を曖昧にしてしまう。警察は平時に働くものであり、軍は有事に働くものである。首都警特機隊は、有事に動くための訓練によって鍛え上げられながら、平時に動く組織である。
この警察の軍化というのは、今では単なるフィクションとは言えなくなってしまっている*1
平時の有事化こそが、上記エントリで書かれている「例外状態」だろう。
ヘンリエッタらの義体もまた、有事で機能する身体でありながら、平時における活動を命じられる。


平時と有事の区別が曖昧化する、というのは、日常と非日常の区別が曖昧化すると言い換えてもよい。
特機隊や義体というのは、日常化してしまった非日常的存在といえるだろう。
そうした存在に対して、日常をあてがうのか、非日常をあてがうのか。
その点で、サンドロとマルコーの選択は対照的といえる。
ジョゼやヒルシャーは、どっちつかずというわけだ*2
しかし、義体を日常的な存在として扱っても、非日常的な存在として扱っても、おそらく無理が生じ、悲劇が生まれる(特機隊を警察として扱っても、軍隊として扱っても無理があるように)。
というのも、我々にとって日常と非日常というのは峻別されているものであるからだ。
その峻別を無効化するとともに、その維持を担う存在、おそらくそれがホモ・サケルと呼ばれるものなのだろう。
そうしたホモ・サケルがいることによってこそ、我々の日常と非日常の区別が維持される。
そのような維持のためには、例外状況ないし例外措置(義体)は必要不可欠である(と考えてしまうようなあり方が、上記のエントリでは批判されているのだと思う)。


さて、上で言われた「我々」とは一体何か。
ごく普通の、一般的な共同体のことである。
通常の共同体では、日常と非日常は区別される。
しかし、その区別とは人為的になされるものであるから、その区別を維持するための特異的な存在としてホモ・サケルが要請されてしまう。
そうではないような共同体のあり方は可能か。
1つの答えとして、是枝裕和『誰も知らない』があるように思える。
この作品は、実在の事件をもとにしたノンフィクション的な作品だと一般には言われている。だが、この作品には、それとは別の側面がある。
我々が知らないようなコミュニティが成立するか、という思考実験的な側面だ。
以下は、僕が以前書いた『誰も知らない』の感想である。

そして妹の死。少年はその死を「気持ち悪い」と素直に表現する。彼らの空間の究極の純化ともいえる。「気持ち悪い」という感情を「気持ち悪い」まま純化してしまっている。そして、これは、我々の社会とは異質のコミュニティが形成されたことを意味するシーンではないか。構成員の死を如何に位置づけるか、というのはコミュニティにおいて重要な問題である。宗教や国民国家イデオロギーなど様々な解決法が見出されながら、それでも構成員の死を受容することは困難なことである。
『誰も知らない』というフィクションがなした優しさと残酷さとは、この子供だけのコミュニティに、我々の社会とは異なる形で、死を受容させたことである。

http://www10.ocn.ne.jp/~fstyle/text/nobodyknows.htm

死とは、非日常に属することであり、それをどのように日常の中で受容するかという原理を提供するのが、共同体の1つの役割であるだろう。


僕は、今日書いた別のエントリで、自分にとっての文学の問題は「共同体、公共性というものをどうやって担保するのか、ということを、主観(私的な視点)から考えること」と述べた。そして、この「私」と「公」の間には、暴力(死、性、言葉)という緊張状態がある*3
その暴力に対する様々な答えをアクチュアライズしたものこそが、僕にとっての「文学作品」*4なのだ。
さらに、そうして提出された答えを選別し、順序づけることが「文芸評論」の仕事なのだろう。
例えば、セカイ系作品も決断主義的作品もポスト決断主義的作品も、どれも同様に答えの1つなのである。どれが正しい答えであり、どれが誤った答えであるかを確定することはできない。
しかし、それらの答えに対して、価値判断することは出来る。そのような価値判断が、評論と呼ばれるのだろう。
一方で、そのような価値判断を括弧に入れて、物語の構造などを分析するあり方もある。
そういう行為は「評論」ではなく「研究」と呼ばれるのだろう。
現実には、この二つは入り混じってくるので、ある評論文を「評論」か「研究」かはっきりと区別することは難しいだろう*5
まあ、とりあえず、現段階で僕は以上のように整理した。*6


ところで、ジョゼさん、髪型と顔つきが変わった気がするなあ。


あと、「犬狼伝説」のでっかい版で、友成純一が解説を書いていて、非-物語で自分の観念をずらずら語れば読者に通じると思ってたけど間違いで、物語によって提示しなければならないんだ、という話も面白かった。

*1:911以降、実際に起こっているのはどちらかえといえば、軍の警察化だけど

*2:以下に書くことは、多少ネタバレになってしまうので、9巻を読んでいない人は注意して欲しい。マルコーの選択は、アンジェリカの悲劇を呼んでしまった。それを見たヒルシャーは態度を決めざるを得なくなっていく。8巻がサンドロ・ペトルーシュカフラッテロの(ある種の)答え、9巻がマルコー・アンジェリカフラッテロの(ある種の)答えを描いていたとするならば、10巻はおそらくヒルシャー・トリエラフラッテロのそれが描かれることになるのだろう。こうやって淡々と整理しているけれど、いちガンスリファンとしてはなかなか……

*3:共同体ないし共同性と公共性は、はっきりと別の概念である。特に政治・社会について論じるときはこの二つは区別すべきだろう。ただし、この領域においてはとりあえず区別せずに扱うことにする。ちなみに、僕は公共性が共同性を担保ないし基礎付けるものだと考えている。それゆえに、政治は共同性についてではなく公共性についての営みでなければならない。おそらくその点で僕は、保守ないしコミュニタリアンではなくリベラルないしリバタリアンということになるのだろう。では、この公共性はいかにして担保されるのか。近代において、それは啓蒙ないし規律訓練によって担保される。ポストモダンにおいて、それはアーキテクチャないし管理によって担保される。現代日本は、近代であると考えるならば、大塚英志のように政治を啓蒙レベルで語ることになるだろうし、ポストモダンであると考えるならば、東浩紀のようにアーキテクチャレベルで語ることになるだろう。僕はこの点については判断保留中

*4:繰り替えすが、ここには小説だけでなく映画やマンガなども含まれる

*5:簡単に区別できるものも当然あるが

*6:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071203/1196694146において、僕は自分の佐藤友哉論が『子供たち怒る怒る怒る』を含まない不完全なものであることを述べた。その作品について論じるには、『物語の(無)根拠』とは別の議論をしなければならないとも述べた。おそらくそこに、「評論」と「研究」の差異がある。『物語の(無)根拠』は第三章までは「評論」を、第四章以降は「研究」をしているのではないか。『子供たち怒る怒る怒る』は「評論」として論じられる作品であり、『1000の小説とバックベアード』は「研究」として論じられる作品であったから、この2作品について語るには別の議論の枠組を要するのではないだろうか。まあ、以上は、読者に対しては単なる言い訳にしかならない。僕が自分の書いたものを整理するためのメモでしかない