心の哲学について勉強した(『心は機械で作れるか』『心の現代哲学』『なぜ意識は実在しないのか』)

自分の中で心の哲学ブームが到来したので、とりあえず入門書二冊*1と、最近出た本を一冊。
実は今まで、同じジャンルは入門書を一冊読むとそれで満足していたことが多くて、同ジャンルの本を一度に何冊も読むのは自分としては珍しい。けど、ちゃんと勉強したいならさらにもっと読まないとダメなんだろうなあ。

大まかに感想

心の哲学はかなり面白いと思うのだが、その大部分が実際には偽の問題を巡ってぐるぐる回っていただけなのではないか、という感想もぬぐえない。とはいえ、それは結果論ともいえる。結果的には、その論争は無駄だったのではないか、というものがあるが、その無駄さが分かるためにはその論争が必要だったのかもしれないともいえる。
しかし、心の哲学の全てが無駄だとは決して思わない。
やはり重要なものや、今後も論じられるべき問題が残っているように思う。
とりあえず、1つの到達点としてはデネットなのかな、と思う。デネットの解釈主義と進化論的説明が、今のところ一番うまく説明しているものだと思う。


さて、それでもまだ残っている問題、というか個人的にまだ納得いかない問題が以下の3つ。
まず、心物因果ないし行為と自由意志の問題
これは、行為の哲学になるのだろうか。自分が何に納得いっていないのか自分でよく分からないので説明できないのだが、行為と意図との関係がまだよく分からない。行動主義もデイヴィドソンも消去主義も、それぞれ魅力的なのだが、腑に落ちないところがある。
次が、自己知ないし自己認識の問題
おそらく、心の哲学が問題にしてきたことはほとんど全部、この問題に集約されるように思う。
自分が考えていることについて自分が知っている、という反省的な、あるいは第2階的な知もしくは認識。
それはそもそも一体何なのか。
それは一体どのようにして発生したのか。
このことが解決されれば、心の哲学の問題は全部一気に解決するはずだ。
これは永井均の問題とも関わってきているように思う。
最後に、表象の問題
これは必ずしも心の哲学に限った問題ではないが、とりあえず心の哲学では(でも)うまく解決できていない問題。
チョムスキーのレキシコンの研究(プラス進化心理学とか比較認知科学)あたりから、自然化されていくんじゃないだろうか、と思う。自然化といっても、ミリカンあたりはよく分からない。ミリカンとうまく繋がればいいのかな。
あとは、ウィトゲンシュタインとかパトナムとか、か。


そして心の哲学の中には、心の哲学そのものよりも、哲学全般に関わるような大きな問題があって、むしろそちらが重要かもしれない。
心の哲学の議論が無駄でなかったとすると、心について何かが分かったから、というよりも、以下の哲学に関わる問題が炙り出されたからかもしれない*2
それは、因果とは何かという問題と、説明とは何かという問題だろう。
この二つの問題は、心の哲学では何かと顔を出してくるのだが、その都度答えが出ず、多くの哲学者は括弧に入れてしまっている。だが、この問題を括弧に入れてしまっているから、心の哲学自体もあんまりうまくいかないようにも思える。
因果は、ヒュームに疑われて以来、哲学の問題になり続けている。
説明については、ティム・クレインが提起している。自己知の問題や永井均の問題と関わっていたり関わっていなかったりしているような気がしている。


クレインと信原の本は、心の哲学の様々な〜主義や〜説の流れを解説しているので、それらについてまとめようと思ったのだが、あまりに長くなるので挫折*3

ティム・クレイン『心は機械で作れるか』

これは非常に読みやすい本。
説明も丁寧で、初学者にとっても分かりやすいと思う。
また、哲学、特に分析哲学の議論の進め方、というものがよく分かるようにも出来ている。
その一つに、必要条件、十分条件必要十分条件がある。
確かに必要十分条件分析哲学の論文にはよく出てくる。必要条件と十分条件の区別を理解することによって、問題を精緻化できる。
問題を区別し整理して、ごちゃ混ぜにならないようにするのも、分析哲学の議論の進め方の特徴である。
クレインは「機械的世界観」に立つ。これは、法則性・因果性によって説明がつくという考え方。
そしてこの本は、「表象とは一体何で、一体どのように働いているのか」というテーマを巡って話が展開する。
心身二元論や意識について考えても、表象についての問いは解けないといってスルー(二元論だろうと一元論だろうと表象の問題は残る)。
計算について詳しい説明があるのがよかった。

説明の問題

機械論的説明と現象学的説明との間のギャップをどのように埋めるかが問題。
現象学的説明とは、内観によって得られる「われわれに思われる心のありよう」*4に基づくものである。
シミュレーション説やドレイファスのフレーム問題は、現象学的説明の立場から出されているように思われる。
機械論的説明は、単に現象学的説明を退けるだけではいけない。なぜなら、機械論的説明もその根拠や議論のスタート地点に「われわれに思われる心のありよう」がおかれているからである。
分析哲学は、常識を疑うというよりは、常識をいかにうまく説明するか、ということを追求しているように思える。そういえば、戸田山・伊勢田往復書簡で、戸田山が伊勢田に対して「生活世界?」と揶揄していたけれど、そういう基盤、公共的に同意していると思われることを重視するような気がする。

訳者あとがき

土屋賢二による。彼の文章読むのは、実は初めて。
最後に、担当編集とのやりとりが載っているが、これだけ読むと、哲学者は単なる屁理屈屋にしか見えない。

信原幸弘『心の現代哲学』

クレインのと比べると、文体もフォントも文字組も硬いイメージを与える。
だが、クレインのが、彼自身の一貫したテーマ設定はあるものの、最終的には各学説の紹介に終わっており、問題が解決されたという感じがしないのに対して、
こちらは、各学説を紹介した上で、さらに信原説が展開されて、ある程度の見通しが与えられる。
信原は、コネクショニズム、消去主義に対して肯定的である。
クレインを読むと、チャーチランドの主張は詰めが甘いように思われるし、受け入れがたく思われるのだが、信原はむしろこの主張を積極的に受け入れる。
また、クレインがスルーした意識と無意識の違いを信原は重視する。
クレインは、生物学的に志向性を説明する試みはうまくいかないと考えるが、信原はむしろ、進化論的な志向性の説明が志向性をよく捉えていると考える。
また、心的表象の因果性を退け、合理性によって心物因果を捉えようとする。そのため、心的表象(命題的態度)には全体論的、文脈依存的性質があると考える。
クオリアについては、志向説による消去を試みる。
意識は、接近的意識と現象的意識に分類できる。後者がクオリアなどだ。
ここで、後者を言語化可能性と見ることで、言語システムによる接近的意識として捉え直し、現象的意識を消去する。意識を言語システムによる利用可能性だと考えるのは他に、デネット、タイ。カルーサーズがいる。

永井均『なぜ意識は実在しないのか』

永井は、そもそも心の哲学はなぜ成立しているのか、その基盤を問わねばならないと主張する。
そこで「私」と「現在」というものを類比的に考える。
「現在」というのは、まさに今この時を指す言葉であるが、それと同時に10年前であれば10年前の「現在」があったし、200年後には200年後の「現在」もある。そのように「現在」という言葉は使われる。
「私」も同様で、まさにこの私、この場合つまりid:sakstyleの中の人である「私」を指す言葉であるが、この「私」以外の人が自分を指す言葉としても使われる。
そもそも「私」とか「現在」とかは前者としてあるが、しかしそれが言語として使われている以上、後者の意味を持ってしまう。
このギャップにこそ、心の哲学の問題は全て集約される。
このことは、様相の問題においても同様にいえるだろう。


狭義の心の哲学というのは、分析哲学の問題系なのだが、永井はその問題系にのることを拒否することで心の哲学に答えようとしているように思える。
永井の指摘する、言語の構造の問題は、大陸系哲学が、それこそハイデガーデリダが問題として扱っていたことだと思う。永井は、ウィトゲンシュタインが指摘したこの問題を、哲学者たちはなぜ忘れてしまったのか、と嘆くが、この問題を意図的にスルーすることで分析哲学は成り立ったのではないかな、とも思う。
英米哲学と大陸系哲学のギャップというのは、ウィトゲンシュタインから埋められる、あるいはそこから始まる?!


この本は、講義形式なのもあって最初は読みにくい。
ただ、ある程度まで読んでいけば、缶詰の比喩が不意に分かるときがあって、そこからはわりとすらすら読めるようになる、と思う。
ちょっと説明不足のような気もするので、何となく何を言っているのか掴めればいいか、掴めないと最後までさっぱり分からないままになるかもしれない。
永井のいう言語の構造の話は、面白く読めたし、たぶん分かったと思うのだけど*5、そこから全員ゾンビだ、ということが出てくるあたりが、議論の流れは分かるのだけど腑に落ちない。
あと、コストパフォーマンスもあんまりよくない本だと思う。人文系の本ってこんなもんか?

心の哲学の流れ

物的一元論

タイプ同一(スマート、ファイグル)
→法則的トークン同一(準タイプ同一)(多型実現可能性、機能主義(マシン機能主義(パトナム)、素朴心理学的機能主義(ルイス、アームストロング、ブロック)、目的論的機能主義(ミリカン、パピノー))
→非法則的一元論(刹那的トークン同一、デイヴィドソン

命題的態度の因果性、法則性

ライル行動主義、ウィトゲンシュタインアンスコムデイヴィドソン行為の因果説
理論説(folk psychology)→チャーチランド消去主義
             →シミュレーション説
フォーダー「思考の言語」説→コネクショニズム、消去主義(チャーチランドラムジー
デネット解釈主義

思考と計算

チューリングテスト、AI開発
→ドレイファスフレーム問題
→サール中国語の部屋

志向性

フォーダー因果説
ドレツキ目的論的機能説
ミリカン、パピノー生物学的目的論
非還元的理論、解釈関数

クオリア

フォーダー、ブロック、クオリアの欠如と反転
チャルマーズ ハードプロブレム
知識論法(ネーゲル、ジャクソン)
クオリアは命題知ではなく技能知(ネミロウ)
→知り方の違い(チャーチランド
志向説によるクオリア消去(ハーマン、タイ)
→知覚と思考を区別できない(ロビンソン)→概念的内容と非概念的内容という区別がある(クレイン)

心は機械で作れるか

心は機械で作れるか

心の現代哲学

心の現代哲学

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

*1:ちなみに、二冊とも以前読んだ『心の哲学入門』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071122/1195730524のネタ本。同じ例が頻出する。アプローチの仕方がそれぞれ違うので、違う読み方が出来るが、書いてあることは大体同じ

*2:とはいえ、以下の問題は心の哲学以前から、というか心の哲学以前の方が議論されていた

*3:各主義や学説の内容についての説明を省いたとしてもきつい

*4:必ずしもクオリアに限らない

*5:しかし、実は本当の意味で分かったということは言えないのだけれど