『ユリイカ11月号』特別掲載「フィクションは何処へゆくのか 固有名とキャラクターをめぐって」

東浩紀桜坂洋新城カズマの鼎談。
ギートステイトハンドブックに収録された「SFとライトノベルの未来」の続編。

2つのリアリズム

大塚英志によって提示された「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」を取り上げることによって、東はライトノベルをジャンルとして捉えない方向を探る。
横軸にジャンルを、縦軸に2つのリアリズムをとった図が表示される。つまり、自然主義的リアリズムのSF(ミステリ、ファンタジー等々)や、まんが・アニメ的リアリズムのSF(ミステリ、ファンタジー等々)がある、ということになる。
そして、自然主義的リアリズムを徹底したものとして「純文学」があるように、まんが・アニメ的リアリズムを徹底したものとして「純キャラクター小説」があり、清涼院流水をその代表としておく。流水は、もはやエンターテイメントとしても成立しがたい。
また、この「まんが・アニメ的リアリズム」の誕生は、書き手に限ったことではない。むしろ、読み手にとってこそ大きな変化である。何故なら、最近、古典をキャラクター小説として読む、ということが行われているからである(鼎談では源氏物語が例に出された。僕の身近ではドストエフスキーがその対象となっている)。むろん、源氏物語はなにもキャラクター小説として書かれた訳ではないし、またそのように読まれてきたわけでもない。しかし、読み手の持つ「解釈系」によって、姿を変えるのである。
例えば明治以降、自然主義的に光源氏の「私」を主軸にそえた解釈によって、源氏物語は現代語訳されてきたのかもしれない。そして、現代では、ギャルゲー的解釈によって、現代語訳されていくかもしれない。

キャラクター

まんが・アニメ的リアリズム」にとって重要なのは、キャラクターである(伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』の用法に従えば「キャラクター」ではなく「キャラ」)。
伊藤は、「キャラ」の成立のためには絵が必要であると述べるが、東は、必ずしも絵は必要ではないと考える。ライトノベルには確かに挿絵がつけられているが、挿絵がなくてもキャラは成立する、と。そして、それ故にブログ上でライトノベル語りが好まれる。
ところで、前回の鼎談の際「乳輪問題」なるものが持ち上がった。朝比奈みくるの乳輪はでかいか否か、という話なのだが。
みくるの乳輪の大きさは設定されていないわけだが(ただし、谷川はでかくないって言ってるらしいけど)、二次創作がなされれば、それこそ乳輪が小さいものから大きいものまで創られるのだろう。
要するに、一つの固有名詞に対して、様々なパラメータをふることができる。
さて、ここでブログの話に戻るのだが、このような一つのキャラに対する解釈の振れ幅、というものを、ブログがある程度収斂させているのではないか、という話がなされていた。
つまり、谷川流には谷川流の脳内データベースがあるし、ハルヒ読者にはハルヒ読者それぞれに脳内データベースがある。例えば、朝比奈みくるハルヒでも長門でもいいんだけど)という固有名詞が与えられたとき、各々のデータベースから様々な要素が引き出されてきてその固有名詞に割り当てられる。そのみくる像には、それぞれブレがあるんだけど、そのブレがブログによって収斂していくのではないか、という話なのだと思う。
また、これはキャラが絵に拠らずに成立しうるからこそ起こることでもある。

キャラクターと私

大塚は、自然主義的リアリズムでは「私」が描かれ、まんが・アニメ的リアリズムでは「キャラクター」が描かれる、といった。しかし一方で、前者の「私」も実はまた「キャラクター」に過ぎないとも言っている。
ところで、まんが・アニメ的リアリズムでは、どのような「私」が描かれうるのか。
それは、「プレイヤー」として「私」なのではないか(おそらく、近々発売されるとか言われているらしい動ポモ2のメインテーマの一つとなってくる話だ)。
桜坂洋は、阿部和重が審査員を務める新人賞で落選したことがあるらしい。そのことを、東は以下のように解釈する。
東は、桜坂の『AllYouNeedIsKill』を阿部の『インディヴィジュアル・プロジェクション』の試みのあとを継ぐものだと考えている。阿部も桜坂も、「方程式を解くように」作品を創る作家であり、「プレイヤー」のような「私」が出てくる。しかし、阿部の作品はどうしても(既存の文学賞との関係から?)阿部自身が出てきてしまう。一方で、桜坂の作品には桜坂自身は決して出てこない。つまり、自分には出来なかったことが出来ている桜坂に対する阿部の反応が、件の落選なのではないか、と。

アニメの話、マンガの話

アニメにも、2つのリアリズムはあてはまるのではないか。
要するに、ジャパニメーションと呼ばれる、IG作品や鈴木P作品というのは、自然主義的リアリズムアニメなのではないか、と。
同じSFであっても、自然主義的リアリズムSF(いわば普通のSF)とまんが・アニメ的リアリズムSF(ハルヒとか?)が、同列に語ることが困難になっているように
自然主義的リアリズムアニメとまんが・アニメ的リアリズムアニメも、同じアニメとはいえ同列に語ることは最早困難・不可能であろう。
で、自然主義的リアリズムアニメは、日本出て行ってハリウッドとかとくっついた方がいいんじゃないの、みたいな話にw
マンガの絵の描き方について。
東や桜坂は、眼から描き始める。新城は輪郭から描き始める。漫研とかにいる人たちの描き方は、ほとんど前者なのではないか。美術をある程度基礎からやってる人は、輪郭とか十字線から描き始めるのだけど。
(確か)桜坂は、ここからマンガはアウトサイダー・アートである、という仮説をたてる。
正規の芸術教育を受けていない者たちの描く絵。
輪郭や十字線から描く、というのは、人間の身体をまず物体として捉えることができるということでもある。一方で、眼や鼻から描くのは、その方が表情が描きやすいからである。しかし、バランスは崩れやすい。
ちゃんと全身を描くことはできないんだけど、頬の輪郭だけなら任せろ!みたいな奴が、漫研とかには多いんじゃないか。そして、そういう奴の方が、結構人気だったりするんじゃないか。

固有名

動物化するポストモダン』において、東はキャラの生成をデータベースによるものとして考えていた。しかし、今の東は固有名の問題にこだわっている。
固有名がフィクションにリアリティを与えているのではないか。
固有名さえ与えられてしまえば、あとはそこにどのようなパラメータが割り当てられても問題ではない。しかし、固有名はどこから与えられるのか。
どのようなパラメータが割り当てられても問題ではない、というのは、キャラに限った話ではない。
例えば「東浩紀は女である」という言明は、偽であるけれども必ずしも無意味と言うことは出来ない(一方で、「男は女である」という言明は偽であるし無意味だ)。
このような固有名の問題は、言語哲学分析哲学の世界で非常に盛り上がった話題でもある。『存在論的、郵便的』でもクリプキの議論がとりあげられている(僕はここで初めて、固有名が哲学の議論になっていることを知った)。
新城も、個人的に、かなり分析哲学的な思考実験をやっていたことが明らかになり、東は新城に分析哲学をやることを勧める(三浦俊彦とかを薦めていた)。東が、学部生時代は分析哲学の方をやっていたというのは聞いたことはあるが、文章上であれだけ分析哲学について言及したのは初めてではないか、と思った。
存在論的、郵便的』では、固有名の問題は、それこそ「郵便的」という概念を使ってある程度解決されていたはず(少なくとも僕の理解では)なんだけれど、ここでまた再び出てきたのは面白い、と思う。
今後、ライトノベル文芸批評と固有名に関する分析哲学とを繋ぐような仕事をしてくれたらば、個人的には非常に嬉しい(情報社会論も面白いことは面白いけど、個人的な関心からはブレる)。

その他

新井素子というのは、星新一が見出したらしい。新人賞で、星新一以外の審査員は全員新井を批判した中、星新一の推薦で特別賞か何かもらったらしい。
で、星新一というのは、実は自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムを繋ぐ、何か重要な役割を果たしていたのではないか。もう一度、星ショートショートを読み直すことが必要なのではないか、という話に。
あと、長門がずっと「長戸」と誤植されていた。それはダメだろ。


ユリイカ2006年11月号 特集=大竹伸朗 全身表現者の半世紀

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