『不過視なものの世界』

『コンテンツの思想』でも『文学環境評論集』でもなく『不過視なものの世界』
今までずっと読み損ねていた東浩紀の対談集で、斎藤環山形浩生村上隆法月綸太郎、山根信二、阿部和重との対談がそれぞれ収められている。
存在論的、郵便的』『郵便的不安たち』に継ぐ3冊目の著作で、この時点ではまだ『動物化するポストモダン』も『網状言論F改』も出ていない。斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』を、東浩紀は『動物化するポストモダン』を、阿部和重は『シンセミア』をまさに書いている途上でなされている。
そんななか、「永山薫というライターがこんなことを書いているのですが」という発言があったり、伊藤剛のイラスト(!)が注釈に使われていたり、後の網状メンバーとの関わりも見え始めている。
そしてまた、東浩紀の持っているエネルギッシュな部分がもろ出ていて、読んでいて非常に面白い。
例えば、表紙のすぐ裏の部分を埋め尽くす単語の羅列から、そういうエネルギーが伝わってくる。はっきり言ってこのページのデザインは、とても気持ち悪いしセンスがいいようにも思えないのだけど、しかしこの時期の東浩紀が出していたエネルギーというのはこういうものだったのではないか、と思う(過去形で書いたけど、多分今でもこのエネルギーは持っている。ただその表出の仕方がもっとスマートになってきているのだと思う)。
気持ち悪いといえば、話は逸れるが、阿部和重との対談だけは他と違って「です、ます」体ではなくて、「だ、である」体で会話していて何だか不自然。彼らは同世代でかなり親しいらしので、おそらく砕けた感じで話しをしていたのだろうけど、それが活字になる段階で何やら妙な感じになってしまった気がする。

全体的に

この対談集は、実に重要だ*1
東浩紀自身によって、東浩紀という哲学者が哲学史の中でどのように位置づけられるのかが示されているからだ。
ゲーム的リアリズムの誕生』などは、大塚英志柄谷行人を引用しながら日本文学史の中での位置づけはかろうじて本文の中に示されているけれど、哲学者としての東浩紀との繋がりをこの本だけで見出すのは難しい。
もともとデリダの研究でデビューしながら、ある時期から彼はデリダの話など全くしなくなる。この対談集はいわばその転換点に位置しているともいえる。


東浩紀は、20世紀の思想・文化史を、「見えるもの」と「見えないもの」の対立図式によって整理する。
いやそもそも20世紀に限らず、ヨーロッパの文化はこの二つに支えられているといってもよい。つまり「見えないもの」とは「神」のことであり、それが如何にして「見えるもの」と関係づけられているのか、ということを、哲学の世界でも美術の世界でもずっとやってきていたのがヨーロッパなのだ。
だがそれが特に徹底されてくるのが20世紀の初頭ということでもある。
博物学が終わりを迎える。「生命」というものに興味が向くようになる。いわば「見えるもの」に基づく分類、整理から「見えないもの」の仕組みを知ろうとする試みが始まるようになる。
あるいは「見えないもの」に支えられている、という感覚である。
それが今現在急速に変化を迎えている、というのが東浩紀の考えであり、この対談の全てを支えている。
「見えるもの」と「見えないもの」という図式が崩壊し、全てが「見えるもの」になっている(過視化)。そしてまた一方で、今までとは全く別種の「見えないもの」が現れつつある。
その「見えないもの」というのは例えばデータベースである*2
『動ポモ』以後の東が、デリダなどのフランス現代思想にほとんど触れなくなるのも当然なのであり、東はフランス現代思想までの20世紀ヨーロッパ哲学が依拠していた状況とは異なる状況に基づいた哲学を構築しようとしているのである。
もちろん、そのような大それた試みが、成功しているか失敗しているか、一人でやれるようなことなのか、ということの判断は別になされなければならない。だが、東自身の目論見として、そのような大構想があることがこの対談集からははっきりと見ることができる。

斎藤環との対話

上のような想定のもとで、ラカン理論はもう無理なのではないか、と東が繰り返し斎藤に詰め寄る、という、まあお決まりといってしまえばお決まりのパターンなのだが、この対談集全体を通じる東の主張がここでは繰り返される。
つまり、イメージとシンボルの区別が今では崩れてしまっているのではないか、ということだ。
斎藤に拠れば、ラカニアンにとってイメージとシンボルの区別は絶対に譲れないところらしいが、だからこそラカン理論はもはや現代と合致しなくなりつつあるのではないか、と東は主張する*3
マグリットの「これはパイプではない」あるいはゴダールの映画に出てくる字幕は、イメージとシンボルが区別された上でそれが衝突することの違和が表現されている。一方で、日本のアニメはどうか。そこではイメージとシンボルがむしろ互いに同じ役割を負っている。あるいはこのことは、斎藤の『戦闘美少女の精神分析』に結実してくるように、オタクの二重見当識の問題とも関わってくる。
オタクにとっての「リアル」とは何なのか。アニメの絵は、まず一義的にはイメージであるが、そこにシンボルとしての機能もあるが故にオタクはアニメの絵に同一化できる=リアルを見出すことができる。
このシンボル、というのは、いわば言語のことであるが、これは「見えないもの」のシステムによって成立している。ハイデッガーラカンは、人間と動物を区別する。人間は自意識、あるいは言語を持つ。動物は持たない、という区別である。斎藤はその区別を、ソフトウェアがインストールされているか否かというような比喩で説明する*4
しかしこのソフトウェアが一体どのようにしてインストールされるに到ったか、その発生の問題についてはラカンは沈黙せざるを得ない。東はその点に神秘思想に陥る可能性を見て批判するし、斎藤も首肯するに到る。ただしこの点に関していえば、チョムスキーなどを引っ張ってくるとあながち間違いでもないかもしれない可能性は捨てきれないのではないか、とも思う。
ところで、この対談には、あきらかに『ゲーム的リアリズムの誕生』へと繋がっていく問題意識がかなりはっきりとした形で既に現れている。

東 ...かつての「文学」の枠組みを知っている立場から、いまの若い作家はただ単調な物語を紡いでいるだけだと言って断罪するか、そうでなくて彼らは別のところで勝負しているのだと理解するべきなのか。まあ僕は、自分の趣味は横において、やっぱり後者の立場を取るしかないという考えなんです。...
斎藤 それにしても、いまは文学にあまりにも見るべきものがない。たまに送られてくる『文藝』とかを読んでいても、面白いと思うのは中原昌也くらいで。
東 まあ、なんとなく低調なのは事実だと思いますけどね。ただ僕は、出発点を変えて読まなきゃダメだと思う。...中原さんの小説は確かによくできているんですが、そういう意味で言うと、けっこう近代文学の正しい継承者のようにも見える。...むしろ僕なんか不思議に思って興味を惹かれるのは、若い人たちに読まれてるゲーム小説やノベルですね。これはもう、かつての感覚では明らかに文学ではない。小説というよりアニメの台本みたいな感じです。...小説家と絵描きは同列で、二人とも印税をもらっているらしい。あのイラストは挿し絵ではないんですよ。ちょっと新しいシステムでしょう。こういうことでも、僕はまたまたイメージとシンボルの分割について考えちゃうんですけどね。
P.45-P.46

ただしここでは、東にしろ斎藤にしろ、まだ「ライトノベル」を「発見」しきれていない(特に斎藤)感じがある。

山形浩生との対話

ここではハッカー文化について語られる。
山形はオタクについてはあんまり興味も知識もない様子なのだけど、東はここではオープンソース運動とオタク文化をうまく繋げられないか、ということを熱弁する。
ここで面白いのは、東は明らかに、オタクはもっと政治的に振る舞うべきだ、と主張していること。これは児ポ法のせいではあるのだけど、当時、今とは違ってオタクへの社会的関心が低かったことを思わせる。
キャラクターの話をしていて、東は「キャラクター権」なる言葉を言ったりして、今現在の東に直結する問題意識がはっきりと現れてはいるけれど、それでももう今となっては東はこういう対談はしないだろうと思う。つまり、『テヅカ・イズ・デッド』にも繋がりそうなキャラクターの話をしていると同時に、山形との対談ということもあってビジネスへと繋がるような話もしているのである。
もう一つ、インターフェイスの話をしている。これは、『動ポモ』での超平面的の話へと繋がる話題で、やはりこの対談集全体で何度も出てくる話だ。

東 ...階層構造がない世界認識と言うことで言えば、まさに、グラフィカル・ユーザー・インターフェイスの発明はすごく画期的だったと僕は思うんですね。
p.79

東 一昔前にシミュラークルとか表層性という言葉で何となく言われていたことが、インターフェイスの普及で具体的になったような気がしてるんですね。ひとことで言えば、「階層構造がない」、あるいは「内部がない」「彼方がない」ことへの欲望がこの数十年間でばーっと現れてきているわけです。...例えば生物学は、かつては博物学が主流だったのに、十八ー十九世紀の転換期に急速に生物の「内部」に対して関心をもつようになる。「内部」が発見されて、表面と内部が対立しているという発想が一気に強くなる。これが近代だとすると、「階層構造がない」ことへの関心の高まりは、またそれとは異なった文化的フェーズを示していると言えないか。
P.81

余談だが、『動ポモ』という本は三部構成になっている。第一部では、オタク文化についての考察が日本趣味との関係においてなされている。第二部は最も有名な、データベースについての考察になっており、第三部がここにあるような、インターフェイスと「階層構造がない」こと=超平面的についての考察になっている。
『動ポモ』は、第二部が最も注目され、動ポモ=データベース論という読まれ方、使われ方が多い。しかし個人的には、オタク文化論の本として読むのであれば第一部の方が、哲学書として読むのであれば第三部の方が、より重要であると考えている。

村上隆との対話

東浩紀村上隆の組み合わせなので、当然のように(笑)アニメの話から始まる。しばらくオタクの話をするのだけど*5、欧米のアートと日本のアートの違いになってくる。
まずその大きな違いとして現れてくるのが、欧米は人間中心、日本(アジア)は人間不在であることだという。その中で、ハリウッド映画は人間不在、というかスーパーフラットなものなのではないか、とか。
もう一つ、再び出てくるのが、イメージとシンボルの区別について、欧米は明確だが、日本は曖昧である。日本のオタクは、イメージを現実と切り離して受容できるが、欧米はイメージと現実が繋がっている。
後半は、日本のアートシーンの話になる。椹木野衣『現代・美術・日本』にはオタクが欠けていた、とか、あるいは椹木と大竹伸朗というのはいわば「オタク」と「サブカル」で分かれたときの「サブカル」側にいるよね、という点で、村上隆と対になるのではないか、という話。さらにそこから、岡崎乾二郎と自分(村上隆)は近いのだと言い始めると、東は岡崎のことが好きで、岡崎と村上は似ていると考えていたので本人からそういうことが聞けて嬉しいとなって、岡崎乾二郎の話を始める。

法月綸太郎との対話

ずっとエラリィ・クイーンの話。

東 ...つまり小説の登場人物たちは、一見固有名(単独的なもの)をもっているように見えるけれども、実はそうではない。誰もが感情移入できる、ということはそれは真の固有名ではなく、せいぜいが一般的な性質描写でしかない。ところがその一般的記述が固有名に見えてしまう、本当はすかすかの特徴だけで組み上げられた人物が何か単独的なものに見えてしまう、この二重構造こそが小説を支えている。ですから...登場人物はしょせんは記号でしかない、「A」でしかない、ということを赤裸々に見せるのがミステリの問題なのだとしたら、これは一般的に面白い問題ですよね。

今になって読むと、これは「キャラ」の議論をしているようにしか見えない。
ちなみにここで東はこれを「批評」にもかぶせる。つまり、ウィトゲンシュタインを読む、というのは結局ウィトゲンシュタインに感情移入して自分の問題について語ることに過ぎないのではないか、と。
次に、1930年代の話。
クイーン、カー、クリスティの活躍したミステリ黄金時代、ミステリをパズルゲームとした時代が1930年代、そしてこの時代には内面描写を削ったハードボイルド小説も出てくる。
ベンヤミン複製芸術論、ラカン鏡像段階論、チューリングのコンピュータ理論の基礎が36年に発表されている。
ベンヤミンブロッホアドルノの盟友クラカウアーも探偵小説論を書き、「ラカンもポー『盗まれた手紙』に言及していますし、日本でも花田清輝坂口安吾中井正一なんかが探偵小説論を書いている」(P.138、法月の発言)
ベンヤミンの複製芸術論は、オリジナルなものだけにアウラがあって、コピーにはアウラがないと説いたわけですが、世界がコピーだらけになってしまったとすれば、そこには別のタイプのアウラを与える技法が蓄積されてくる。九〇年代の日本で異様な発達を遂げたキャラクター文化は、基本的にはこうした必要性によって支えられたものなのだと思います。」(P.137 東の発言)
コピーにアウラを与える能力、それがキャラ萌えなのだと東は言うのだが、その時例に出してきているのが「どこでもいっしょ」のトロというのも、当時の感じが出てて面白い。
続いて、後期クイーン問題と郵便の問題が重ね合わせて論じられる。「操り」が遅延する、ということから、誰もメタレベルに立てない状況が現れる。
そこから、空間的な論理と時間的な論理の区別が出てくる。
普通の探偵小説は前者にたっている。つまり、全ての証拠が出てくればそれがピタッと収まって真理が分かる。しかし、後者はそうではない。証拠の意味が時間経過によって変わってくることがある。例えばそれは精神分析のセッションであり、あるいはそれは裁判における一事不再理の制度であったりする。
空間的な考え方は、論理的で白黒はっきりさせやすいのだけど、時間的な考え方は神秘思想的なものに流れやすい。デリダというのはその折衷案としてある。郵便というのは、空間的なものが時間的な中で現れてくるという比喩なのではないか。
クイーンが、そもそも作家としても分身であること(つまり二人で合作していたかつ二つのペンネームを持っていたこと)と多重人格との関わりも論じられる。
分身というのには一つには鏡像関係の分身がある。ドッペルゲンガーというか、相手は実は自分だった、という関係。多重人格は、異なる自分が沢山並列している関係。この関係は、ラカン精神分析では分からない問題。

山根信二との対話

この章は、他と大きく雰囲気が異なる。山形との対話に近い。
ハッカー」という言葉に対してまず議論される。
ここでなされている議論は、後にisedの仕事として結実していくもので、まさに技術と社会と倫理に関わる話がなされている。
利便性のために個人情報を提供する社会になる、というisedで一貫していた東の主張は既にここでみられる。

阿部和重との対話

阿部和重がひたすら映画について喋りまくる。負けじ東浩紀も、その話を「見えるもの」と「見えないもの」の話へと落とし込む。
過去作品のアーカイブ化が映画における「引用」の意味を決定的に変えてしまった。
あるいは、今までは「見える」もので如何に「見えない」ものを描くかが問題とされてきた。例えば、ヒッチコックは決定的に残酷なシーンや性的なシーンは描かない。それはもちろん規制のためでもあるのだけど、それによってむしろ観客に「見えない」ものを想像させる作品となっていた。今は技術の発達によって、何でも見せてしまう。例えば、それは「宇宙人」の姿やありえないくらい「リアル」な災害だったりする。
その時「リアル」とは何なのか。
かつては、まず自然主義的な「リアル」がある。そしてその次にあったのが、ヒッチコックのような「リアル」、つまり、肝心なところが「見えない」ことによってむしろ逆に感じられる「リアル」
しかし今は全てが「見える」。ところがそれはかつての自然主義的な「リアル」では決してない。

阿部 ...僕は先ほど、三〇年代や四〇年代のハリウッド映画から作家性の違いを見出すのは簡単でなかったはずだと言ったけれど、それはカメラアイに対する意識が希薄だったと思えるから。ハリウッドの全盛期、つまり撮影所システムが十全に機能していた頃の映画というのは、カメラの存在(フレーム)を感じさせない透明な画面の連続をとりあえずの基本原則として撮られていたわけだ。
...オーソン・ウェルズの登場が事件と見なされたのは、『市民ケーン』という彼の初監督作品が、ハリウッド映画的透明性に真っ向から逆らった作品だったからだと蓮實重彦は指摘しているよね。...つまりウェルズは映画を、窓の向こう側に広がる夢の世界ではなく、カメラで撮られた視覚芸術として示したわけだ。...六〇年代以降は、カメラ自体に備わった効果以外にも、特殊撮影技術を導入するなどして、ますます撮られたこと(カメラの存在)を示唆するような画面構成の映画が大量に生産されてゆく。
P.226-227

と阿部が、カメラアイについてまとめると、東はアニメにおけるカメラアイについてまとめる。アニメにおいては映画とは逆方向のベクトルを持っているという。つまり、元々アニメは虚構だということがはっきりしているので、フレームを意識することにはあまり向かわない。むしろ作画、動きのデフォルメなどによって、映画におけるカメラの発見と同じことが起きた。

東 リアルタイムの撮影と実写が母語を聞き母語を話す状態だとすると、アニメの制作というのは、いわば外国語を書くような状態ではないか。常に頭の中に文法を意識して、努めて構築的に作らないととても映像にならない。
P.230

この話は、阿部によってさらに拡張される。つまり、実写映画というのも必ずしも母語で話す状態とは限らない、というわけだ。

阿部 いや、そうした異国語環境の中で「どもる」ということはね、ハリウッドにおいては紛れもない現実でもあるわけだよ。...ハリウッドで映画を撮るということは、英語を使って映画を作ることを意味しているわけで、(ヨーロッパから第二次大戦時に亡命してきた)ルノワールなんかは随分と苦労したらしい。
...三〇年代にトーキーへと移行したことで、サイレント映画的手法がまるで使えなくなってしまう。結果的に改めて、トーキー映画用のフォーマットが整備されてゆくわけだけど、その過程で新しい形式に馴染めず淘汰されてしまう作家もけっこういたわけだ。
P.232-P.233 ( )内引用者

普通に実写で映画を撮るという作業も、決して母語で聞き話すような自然な状態ではないのである。

阿部 ...彼(ゴダール)は常に何らかのかたちで映画の媒介性を示してきた。つまりそのずれや「どもり」こそが、映画にとっての現実というわけだ。
P.235 ( )内引用者

さて、映画のフレームに関して、アメリカ・ハリウッド映画とヨーロッパ・アート映画は異なる戦略を示す。
前者は、とにかくフレームの内部の映像の作り込みを行い、内部(作品世界)の完成度を競う。後者は、むしろフレームの存在をアピールすることで外部(作家)への興味を誘う。結果、ハリウッドはSFXを駆使するスペクタルとなり、アート映画はドキュメンタリータッチのものが増える。そしてそれが、スピルバーグにおいて融合していた、ともいう。しかしその幸福な融合は、キャメロンの時代の到来とともに変わる。
スピルバーグは、スペクタクルをドキュメンタリーっぽく撮る(『未知との遭遇』)。一方、キャメロンの時代においては、リアルではなく「リアルっぽさ」が重要となる。
ハリウッドは、「見えないもの」を「見えるもの」にすることを躍起になって進めていく。
そしてその中で「見えるもの」と「見えないもの」の意味が変わってしまったのだと東はいう。

東 ...イメージとシンボル、スクリーンとカメラ、見えるもの(可視なもの)と見えないもの(不可視なもの)という近代的な対立から、スペクタクルとデータ、インターフェイスアーカイブ、過剰に視覚化されたイメージ(過視なもの)と決してイメージでは捉えられない情報の集積(不過視なもの)という新たな対立へ。
P.245

これは、『動ポモ』のデータベース論と完全にパラレルである。
近代のモデルとして登場する「大きな物語」とは、シンボルであり見えないもの(不可視なもの)である*6。一方でシミュラークルは過視なものであり、データベースとは不過視なものである*7
続いて『2001年宇宙の旅』が取り上げられる。そこでキューブリックが徹底して作り上げたものを「計測可能なリアリティ」と呼ぶ。しかしその計測可能なリアリティが暴走することで、怪物的な映像を生み出しているのではないか、という。2001年であればそれはスターゲイトの映像である。タルコフスキーの『惑星ソラリス』も全く同じタイプの映画だが、タルコフスキーは「計測可能なリアリティ」を信頼しておらず、科学的な宇宙の描写などはやらない。その点では徹底していて、だから「見えないもの」は絶対に撮らない。しかしそれ故に、自己の内面描写をやって終わらせてしまう。キューブリックは、「計測可能なリアリティ」を描こうとして、つまり宇宙をしっかり描こうとしてしまったがために、スターゲイトの映像を撮らざるをえなかったのである。
そこで再び特撮やアニメの話に戻る。

阿部 なるほど。つまりかつての実写映像は、瞳で捉えた、窓の外に広がる風景のように映っていたのに対して、七〇年代以降のアニメや特撮映像は、脳に直接信号を送ってきているようなものとして機能していると……。
P.253

ここから、ドラッグカルチャーやニューエイジの話になっていく。

東 ドラッグ・ムービーにしてもSFXにしてもヴァーチャル・リアリティにしても、神経回路に直接インパクトを与えましょうという発想でしょう。これは、映像という「見えるもの」を通して意味という「見えないもの」を伝える、という発想とは全く別のものだと思うんだ。さっきからの言い方で言えば、意味は計測不可能な「見えないもの」だけど、情報は計測可能な「見えないもの」なわけ。

こうして、この対談集全体を貫くテーマが示されたことになる。
そしてこれは、その後の東浩紀の仕事を貫いていくテーマでもあるし、またそうした仕事を他の思想史と繋ぎ合わせるためのアンカーともなりうる。


不過視なものの世界

不過視なものの世界

*1:特に今の僕にとってはそう感じられるのかもしれないが

*2:ただしこの時の東はそれをアーカイブと称しているが

*3:ただし、イメージとシンボルの区別が譲れないのは、臨床医としての実感も強くあるようだ。

*4:OS(オルガニックな主体)は学習するが、PS(精神分析的な主体)は学習しない

*5:再び児ポ法についての危惧を東は語るが、村上はそれを一笑に付している

*6:例えば美術で言えば、宗教画は典型ではないだろうか。「神」という「大きな物語」がある。これは明らかに見えないものでありシンボルだ。宗教画はそれを見えるもの、イメージへと変える

*7:こちらの不過視なものが、不可視なものと決定的に違うのは、後述されるように、不可視なものは計測不可能であるのに対して、不過視なものが計測可能であるということだ。再び絵で言えば、今まで描かれてきた作品のモチーフや技法のデータベースの中からいくつかをピックアップしてサンプリングしたものが、過視-不過視という軸における製作なのだ