ギートステイトハンドブック他メモ

ギートステイトハンドブックの通販が始まったので、買った。
色々と面白そうなアイデアはちらちらあるけど、まだ断片的なのでなんとも。
ちょっと気になったことをいくつか。

「技術と欲望の相互作用」(東、桜坂、新城鼎談より)

欲望がないと技術は進まない
技術によって生まれる欲望がある
という二つの軸の相互作用。
まず前者。
60年代くらいのSF雑誌にあった未来予想で、「60億人時代が来たら人類は肉の代わりにクロレラを食う」というのがある。
だが実際には、肉の生産量を増やすことでまかなっていてクロレラを食ったりはしていない。
みんな、クロレラなんか食いたくないから。
後者。
今、ネット(ブログやSNS)の話をすると、「コミュニケーションをみんな欲していた」ということを言いがちだが、ブログやSNSがある前からそんなことはほんとに思っていたのか。
例えば十年前に、mixiみたいなシステムの話をしても気持ち悪がられただけではないのか。
特に後者は気になるところ。

「リアリティの差異」(企画会議議事録抜粋より)

東が、リアリティは固有名詞に宿る、と言っている。
鈴木は、架空の未来を作るためにそこへと到る理論構築をすることでリアリティを得ようと考えているが、東はそのような理論は代替可能であると退ける。
波状言論の通信販売ページ

ギートステイトハンドブック以外。

昨日、フランス語の授業でベケットの話をしていた。
その中で気になったのが
ベケットは、表現する意志もなく表現するものもなくただ表現する義務だけのある表現をしたい、とか言っていたらしい。
なんとなく、中原昌也を想起した。
色々なものを全て剥ぎ取ったあとに残る何か。プリミティブな何か。
ところで、そういう話を聞いていて考えたこと。
普通、表現なりなんなり、というのはアウトプットだと考えられる。
何故表現するのか。それはインプットがあるから。インプットに対してアウトプットをしないとオーバーしてしまうから。
だけど、そうではない考え方もできる。
世界には、表象システム(オートポイエーシス的なもの。作品は排出物)があると考える。これは、ドレツキの情報概念みたいなもの。
何からの表現主体とは関係なく、表象が行き交っているネットワークが予め張り巡らされているとする。
人間は、たまたまそのネットワークのノードとして組み込まれてしまっただけ。
特にトラフィックが多いところとか、ちょっと妙な回路として組み込まれてしまうと、望む望まざるに関わらず、表現せざるを得ない、とか。
システムとモチベーション、ということでちょっと考えてみたい。

次は、限界小説書評第25回

渡邉大輔が元長柾木の『ヤクザガール・ミサイルハート』について論じている。
この小説は読んだことがないので、それについてはパス。
ヘタレについて書いていて、それはそれで面白いのだけど、それもちょっとパス。
最後に、環世界的世界観と可能世界的世界観が併置されているのが面白かった。
選択と適応とどちらが自由意志なのか。


なんだか、バラバラのことを書いてきたが。
技術と欲望
システムとモチベーション
環世界(適応)と可能世界(選択)
というあたりで、実に似ている(あるいは同じ)問題系なのではないのかと。


追記
というわけで、このエントリの続きとなるのが
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061014
技術と欲望に関しては、blog(ネット)中毒
リアリティに関して、表象のネットワークに関しては、フィクションにとって重要なのは、世界か表現か
環世界に関しては、まっしゅるーむの世界2005/ギートステイトハンドブック
に書いた。
同じ問題と言いながら別の話になったのは、切り口が違うから。
これら3つのエントリは、問題の内部から見ている。これらをメタ的な視点から見れば、同じような問題に見える……はず