InterCommunicationVol.56(購入後)

貨幣・法人・バザール(岩井克人安冨歩鈴木健東浩紀

貨幣論とか経済学とかよく分からないので、「へぇそうなんだ」と楽しみました。
でも、難しい、よくわからないことが多い……。

岩井「貨幣論

本人による「貨幣論」要約!
まず、「価値形態論」と「交換過程論」にわける。
価値形態論では、貨幣とは自己循環構造をしていることを示す。

構造自身が自己自身を決定することを意味している。自己循環論法とは、まさに構造それ自体が自律してしまうことなのです。

そして、その自律性ゆえに、貨幣とは人間の主観によって存在しているのではなく、客観的に存在しうるものだとする。
続いて、交換過程論に入る。

交換過程論の内部の論理からだけでは貨幣の発生を一義的に決定できないということです。

つまり、商品を交換している間に、そのなかのある商品が貨幣になる場合もあるし、誰か偉い人がいて「今からこれが貨幣ね」っていって流した場合もある。あるいは、そもそも貨幣が生まれない場合もある。
しかし、現実には貨幣が流通している。これが歴史の固有性であり、マルクスの価値形態論ではこの固有性が消されてしまう(貨幣は必然的に生まれる、とされるから)。
さて、貨幣は決して主観の産物ではなく、客観的な実体である。だが、物理的な実体というわけでもない。社会的な実体である。何故かというと、貨幣は「無限の予想の連鎖」に支えられているから(ちなみに、あとで紹介するが、大澤真幸はこれを「第三者の審級」と呼ぶ)。
ところで、東は、岩井貨幣論を西欧現代思想の典型的なパターンであるとし、これを否定神学と呼び批判する。岩井は、典型的なパターンの一種であることは認めるが、どうも否定神学という言い回しが気に入らないようで、話が噛み合わない。
それで東は、岩井は貨幣の誕生は一回限りの奇跡と呼んでいるが、これは神学ではないのか、と問う。
それに対して岩井

それは人間には記憶があるから

その後、記憶がなくても貨幣の生まれる(しかも何度でも生まれる)安富モデルとの比較がなされるが、均衡と定常の違いがよく分からなくてよく分からなかった。
ちょっと話がそれるが、岩井の不均衡動学の理論では、マクロ的に不均衡である限りミクロ的な予想は必然的に間違う、らしい。要するに、市場参加者がどんなに合理的に振る舞おうとインフレになるときゃなる、って話だと理解した。

安冨モデル

安冨モデルと岩井論の違いは何か、について安富と東が解説。
要するに、安富モデルとは郵便空間のことなのだ、ということで東読者としては納得(^^;
もう少しいうと、貨幣のある世界とない世界をきっちりと分けずに「グニャグニャにさせて、穴を通してしまう」

貨幣がある/ないというのをはっきり分けていた壁にチーズのように穴がぼこぼこ空いてしまって、行き来可能になるんです

これに対して、岩井貨幣論はそこはきっちりと分ける。それは何故かというと、西欧形而上学ならびに形而上学批判の伝統だから。
逆に、安富は、もう形而上学形而上学批判も終わってしまったという認識にたち、むしろ複雑系力学系といった形而上学形而上学批判の枠組みの通用しない枠組みで考えようとする。

形而上学批判のあとは?

形而上学形而上学批判(否定神学)も失効したあと、何が来るのか。
岩井は、「歴史」と「倫理」を提案する。それでオープンソースとかの話をするが、鈴木が反論を始める。
そして、PICSYの話へと移る。
鈴木は、何百年後かには、今の貨幣体系をPICSYというものへ移行できないか、と考えている。
ところで

結局、エルゴード性でしょう。フロベニウス根を計算して、その値(プラス1)で毎回価値ベクトルを正規化するわけですね

という一説が、完全に意味不明だったのですが、誰か分かる方いますか。
PICSYアルゴリズムに関する説明なので、個人的に理解する必要性は感じないのですが、それにしてもここまで意味のつかめない文章も珍しい、と思ったので引用してみました。

法人

PICSYというのは、組織を仮想化させるためにやっている、と鈴木が言ったあたりで、組織・法人の話になる。
法人とか決済貨幣なるものが成立したのは、西欧と日本だけだという。
何故か。
西欧と日本だけが、一子相続による「家」というシステムを作ったから。
中国や中東、アフリカは、巨大な家族と個人主義によって成り立っている。
このような地方では、基本的にはすべて個人のコネが重要になる。例えば、何かの災害にあった時、日本では近隣住民で助け合うが、中国などでは近隣住民とのコネは役に立たない。なぜなら、みんなやられてるから。むしろ、遠くに住んでいる親戚とのネットワークを形成して、いざというときそちらに逃げた方がよい。
また、貨幣交換ではなく贈与交換を行う。
貨幣交換というのは、売買が成立するとそこで売り手と買い手の関係は一回一回切れる(決済)。
だが、贈与交換は切れることがない。受け取ったら、それには返答の義務がある。そうやって繋がりを切らないでおいて、いざという時に役立てる。
だが、そのために通貨パニックが起きやすいらしい。どこかで何かがアクシデントが起こると、そこに財が集中してしまうから。だから、こうした地方では、流通する範囲を区切ったり、米には米貨幣、酒には酒貨幣と対象を絞ったり、「マルチで多層的な通貨」を作っている。
もう一つ、日本と中国で違うこと。
中国は無縁世界を徹底的に微分する。どういうことかというと、墓場を一カ所に集めたりしない。
日本では、無縁世界を作りやすい。そこが市として作用する。また、日本は一子相続なので、食えない次男三男が無縁世界へと集まる。そこで資本主義が生まれる。
もう一点。
欧米や日本では、家・組織・法人の外部は資本主義・貨幣経済だが、内部では非貨幣経済である。つまり、一子相続の家というのは内と外とを分けるものであり、ユーラシアの家族(あるいはバザール)はそうした境界を曖昧にするもの。

組織と知識

岩井は、資本主義には必ず、組織が必要だと考えている。
何故か。
「知識の囲い込みが必要だから」
それに対して安富は、「組織は知識を蓄積できない」と主張する。
その上で、岩井は蓄積を重視しているが、むしろこれからは分散化してしまうのではないか、という。しかし、その分散化された状況というのは、理想的な状況というのでは全くなく、かなり辛い状況なのだ、とも。

最後の方

最後の方まで密につまっているので、面白いのだが疲れてきた(^^;
法人的・蓄積的なものとバザール的・分散的なものがあるとして、安富は後者に傾いていると考えているが、それは、色々なことを人間関係のネットワークに依存してしまって、生きにくい、辛い状況なのだと述べている。
それで、信用・信頼・責任というのは、どのように担保されるもののなのか、という議論がなされている。
岩井は、専門家の集団というものにそれを見いだそうとする。
一方安富は、バザール化に基本的に悲観的なのだが、そこに新しい可能性も見いだす。
法人や国民国家というものは、人のコミュニケーション能力を低下させてしまった。何故かというと、コミュニケーションの場を作るのはコストが高すぎるので、法人なり国民国家なりがプラットフォームを作ってそのコストを下げたから。一方で、バザール的な世界では高いコミュニケーション能力を維持することが必要。しかし、コストが高すぎてしんどい。これをどうするか。

貨幣の普遍性と多元性(大澤真幸・黒田明伸)

黒田の著作に大澤がコメントしていく、というもの。
貨幣はどのように生まれるのか、という話。
貨幣というのは、今では一元的だと思われているが実は多元的なのだ、というのが大枠。
それで、例えば貨幣の中でも、米専用貨幣とかがある。また逆に、贈与交換の中でも、贈与を引き出すためだけに象徴的に交換されるモノがある。貨幣交換と贈与交換はきっちり分けられる別物と考えられてきたけど、案外その違いというのは大きくなくて、グラデーション的なのではないか、とか。
今でも貨幣というのは均一的・一元的ではない。地域によって、同じ貨幣なのに流通の仕方が違ったりする。資本主義、というのは均一の速度で流通していることを仮定しているけど、そうでもない。それが、地域格差に繋がったりしている。
第三者の審級にも複数性がある。要するに、神とか正義とかは唯一ではないのだ、ということ。

ネットワーク・カオス・シミュレーション(甘利俊一・中島秀之・土屋俊)

読み終わったのが結構前で、忘れてしまったところが多いので、覚えていることを少し。
情報「処理」って言葉は変じゃないか。だって「処理」だと捨てるみたい。
そういう能力って、物語を作る能力じゃないか。ググっててるだけじゃダメで、それを自分なりにリニアに並び替えないといけないんだ。文章を書く場合、どうしても情報をリニアにしなければならないから、データベースじゃなくて文章を書くのが大事なんだ、とか。

成年期の映画(青山真治

スピルバーグの映画について書かれた文章だが、全然意味が分からなかった。

コミュニケーションの連鎖としての組織と社会(井庭崇)

「個人」が学習するのではなく、「組織」が学習するとはどういうことか。
組織学習の方法として、シナリオ・プランニングというものがある。ある問題に対する、未来を予想する、というもの。ここでは、予想し語り合う過程が重視され、その予想が現実的かどうかは問題にはならない。なぜなら、あらゆる可能性を経験しておくことが重要だからだ。
さて、そもそも組織とは何なのか。ルーマンの社会システム論に依拠して話がすすむ。
ともすれば、組織とは個人の集合と考えられてしまうがそうではない(それでは、組織の学習と個人の学習の差が見えてこない)。組織の構成要素は、個人ではなくコミュニケーションなのである。
そうしてコミュニケーションが連鎖するシステムが社会システム(組織)である。
また、意識が連鎖するシステムが心的システム(個人)である。
ではコミュニケーションとは何か。
それは、単に情報が送り手から受け手へと流されるプロセスではない。
コミュニケーションとは、「情報」「伝達」「理解」という3つのフェイズそれぞれで、無数の可能性から一つが選択される(=創り出される)過程である。
コミュニケーションには、不確定要素が多くある。それを補うためにメディアがある。
そのうちの一つが言語であり、言語は相手が理解しかかどうかという不確定要素を補う。
コミュニケーションの不確実性として、受容されるかどうか、というものがあるが、それを補うのがコミュニケーション・メディアである。
コミュニケーション・メディアとは、コミュニケーションの連鎖を支えるメディアである。コミュニケーション・メディアは、コミュニケーションの動機付けとして働く。例として、真理、愛、宗教的信念、芸術、基本的価値などがある。
さて、シナリオ・プランニングにおいて、シナリオこそがコミュニケーション・メディアとして機能する。
未来について語り合う、など日常的には起こりえないコミュニケーションを発生させるのが、シナリオだからだ。

読了記事

「鏡について」藤幡正樹
ホログラムに鏡を記録させると、再生させたホログラムが鏡としての機能を果たすらしい。
「おいしいという力と文章」後藤繁雄
「男性結社のエロス」田中純
「情報社会を設計する」吉田民人・國領二郎鈴木健公文俊平東浩紀

未読記事

肖像画の前で」蓮実重彦
ターナー、プレミンジャー、成瀬によるいくつかの映画における家を離れる旅」クリス・フジワラ