『順列都市』グレッグ・イーガン

今年の1月に待望の増刷がかかったイーガンの長編SF
1994年に発表され、イーガンの長編SF作品としては2作目にあたる本編だが、イーガン作品の真髄といっても過言ではないような出来。
かなり脳のあちこちをかき回してくれて、知的刺激に満ちている。本筋とはやや離れるが、興味をかきたてられるトピックや仕掛けも多い(例えば、各章タイトルが「順列都市」のアナグラム変換になっていたり(しかも実はアナグラムは本編の核をなす塵理論とも関係がある)、未来社会では気象をコントロールする技術の開発が行われていたり)。
しかし、なんといってもこの作品の中核であり、またイーガン作品に共通して見られるテーマは「アイデンティティ」である。いや、同一性というよりはイーガンにならって「不変量」と言いたくなるのだけど。

あらすじ

物語は2045年から始まる。人間の脳をスキャンしてコンピュータ上の仮想空間で走らせる技術が生まれ、世界各地の大富豪がコンピュータ上の不死の存在<<コピー>>となっている世界。ポール・ダラムという男は、ある研究を通じてコンピュータが物理的に破壊されてもましてや宇宙が終わっても不死でいられる計画を富豪達に提案する。
物語は、このダラムによる計画を中心に、他3つの視点から進む。
マリアというプログラマは、自分の仕事はなかなかうまくいかず、オートヴァースという非常に精密に作られた化学のシミュレーション(正確に言えば現実世界のシミュレーションではない)に熱中していた。病気の母をスキャンして不死にしてやりたが、その金のあてはない。そんな折、ダラムからある依頼をされる。
トマスは、すでに自分をスキャンした大富豪であるが、現実世界でのある過去が彼を悩まし続けてきた。当初はダラムの提案を受け入れないが。
ピーという男もまたすでに自分のスキャンをしている。だが、富豪ではない彼は、公共コンピュータのリソースを細々と利用しているにすぎない。しかし、無限のリソースを大富豪達に提供しているというダラムの計画を嗅ぎつけて、密航を企てる。
以下、ネタバレ注意!

塵理論

ダラムは、とんでもない実験を自分に課していた。
自分の<<コピー>>を、物理的なハードウェアの上で時系列をバラバラにして走らせるのだ。しかし一方で、<<コピー>>の主観では時系列は一定のままである。そのように感じさせるようにプログラムを組んだのだから当然だ。しかし、物理的には彼の時間は砕かれているというのに、何が彼に一貫性を持たせているのか。
彼は「塵理論」なるものを考え出す。
世界というのは、無数の塵で出来ている。それらの塵は単体では無意味だが、あるパターンで抽出すれば意味を読み込むことが可能になる。先ほどの実験で言えば、物理的には彼(<<コピー>>)はバラバラにされて塵のような状態だが、そこに「彼」のパターンを見出せば「彼」を読み込むことが可能なのだ。
そして、無数の塵の中には無数のパターンを読み込むことが出来る。アナグラム変換と関係がある、というのはこのためだ。いくつかの文字の集合があれば、そこからいくつものパターンを読み込むことが出来る。
つまり、自己あるいは世界というのは、塵の中に読み込まれるパターンだということだ。しかもそのパターンは無数にある。
東浩紀は『順列都市』を絶賛しているのだが、この塵理論は東のデータベース論とも親和性が高い。塵とはデータベースのこと、パターンとは小さな物語のこと、とえいば東読者なら理解しやすいだろう。
そして、塵が無限であるならば、読み込まれるパターンもまた無限になる(まあ「バベルの図書館」みたいなものになってしまいそうだけど)。無限の並行世界がひとつの塵の中に無数に隠されているのだ。
話はかなりずれるが、東で思い出したので書き足しておく。最近、『動物化するポストモダン』を久しぶりに斜め読みしていて、やっぱり「超平面的」「過視的」という概念は重要なんじゃないか、と思った。近代が視覚によっていた(ラカンフーコーのことと思われる)のに対し、ポストモダンは違うとか何とか。

パターン・シミュレーション

自己とか世界というのは、要するにパターンなのだ、というのは、要するに情報なのだ、ということだ。
『こころの情報学』にあったが、情報とはパターンなのだ。
そして、実はパターンがあればモノはいらないんじゃないのか、というのがこの作品の問題提起だ。
パターンをシミュレーションとして走らせてやれば、そのパターンの入れ物としてのモノはいらないんじゃないか、というより、パターンがパターンとして維持されるのであればモノの有無は無関係である、という主張なのだ。
つまり、この宇宙も実は壮大なシミュレーションに過ぎないのかもしれないし、とかそういう話も出来る。
少し話がずれるかもしれないが、(確か)デネット(だったはず)は、意識というのはシミュレーションなのだ、と言っている。
あるいはモノなんていらないんじゃないか、というのはオートポイエーシスにも似ている気がする。あれは確か、生物の肉体をオートポイエーシスシステムの排出物とみなしていたはず。

多重人格・不変量・同一性

<<コピー>>は、言ってしまえばソフトウェアなので、パラメータを自由にコントロールすることが出来る。彼らは、自分の人格や感情も自由にコントロール可能なのだ。
作中で、これを最も極端に実践しているのがピーである。そもそもピーは、ディビッド・ホーソンなる人物だったのだが、スキャンと共に名前を変えてしまったのだ。彼は、自分の人格をランダムに変換させ続ける。ある時には椅子職人として見事な椅子の脚を作ることに喜びを感じ、またある時には昆虫学者となって甲虫の分類に熱を上げる。そのとき、そのときで彼のパラメータは完全にコントロールされる。
そもそも、ある人間がその人自身になるというのは一体どういうことなのだろうか。数多の偶然によって選好や能力が設定され、それによっているのに過ぎない。通常われわれはその設定の過程を知らないので、自分が自分であるということは所与の前提、あるいは運命、必然の類だと感じている。僕は今文系の大学生をやっているが、それは本を読むのが好きだからである。こうした因果関係によって、人は自分自身を定義づけるだろうが、そもそもその「因」の部分が偶然に満ちている。そこは所与の前提、運命、必然として受け入れざるを得ない。だが、そこをコントロールできるとしたら? 自分のパラメータを本好きからスポーツ好きに変えることが出来るとしたら?
それは、もとの自分と同じ人間なのか、それとも違う人間なのか。
それを同じと規定し続けるものが、イーガンSFの中ではとりあえず「不変量」と名付けられている。基本的な性格設定(しかし性格も変更可能だ)あるいはいくつかの記憶だ。
ミンスキーの『心の社会』は未読なのだが、どこかで読んだ概略によれば、感情が人間の論理的判断の基盤となる、という話らしい。つまり、自分が文系の大学を選んだ、という判断は、本が好きという感情によってなされている、というようなことだ。
しかし、イーガン作品の中では、その判断の基盤となる感情を何らかの判断によってコントロールしているのだ。その何らかの判断を下すのも、実は感情だから厄介なのだが、それが不変量なのである。しかし、この不変量というのも決して絶対のものではない。それを多く保つか、減らしていくかもまた何らかの判断によって決めていかなければならない。
作中の<<コピー>>たちは様々な判断をする。
前述したピーは、最終的にそれぞれの人格をまったく別の人間としてわけてしまう。
あるいは逆に、首尾一貫した記憶や同一性にこだわる者もまたいる。

神の不在

ここから先は、まさに本編のラストについての話なので、よりいっそうネタバレ注意!
ダラムは、<<コピー>>と彼らの仮想環境(VR)を丸々走らせることの出来るセル・オートマトンを組むのだが、そこには仮想環境だけでなくオートヴァースの惑星も搭載された。
オートヴァースとは何かというと、現実世界の化学法則に似ているものの異なる法則で支配された化学分子のモデルである。現実世界の化学法則に基づくシミュレーションは、21世紀初頭のコンピュータには荷が重いため、簡易化したモデルを作ったのである。そのモデルは、現実世界からは完全に独立していて、そこで使われる原子や分子も実在のものではない。オートヴァース分子はオートヴァースの化学法則に基づく振る舞いをする。
オートヴァース分子だけで作られた惑星と生物の設計図もまた、ダラムの計画する世界の中に投入されたのだ。
早い話が、永遠を生きる<<コピー>>達のための暇つぶしであるが、このオートヴァース惑星は思わぬ成功を見る。知的生命体が誕生したのだ(この知的生命体は社会性昆虫が発達したもので、地球人類とは似ても似つかない。こうした人類との異なる知性との出会い、というのも単体で十分興味深い。『ディアスポラ』の中の「ワンの絨毯」という一編とも似ている)。
オートヴァース惑星で誕生した知的生命体(ランバート人)は、自分達の世界の法則を発見していく。そして彼らはついに自分達の宇宙誕生に関する理論の構築を始める。ダラム達はその時点でランバート人に自分達という上位の存在を教えようとするのだが、ランバート人は無限の存在をナンセンスとして取り下げる。彼らは、ダラム達=オートヴァース惑星の創造主なしに、自分達の宇宙誕生を説明する理論を構築してしまうのだ。
このことが、ダラムの作った世界に影響を与える。ダラムたちのいる世界を上位、オートヴァース惑星を下位とする階層構造が崩壊し、ダラムたちはオートヴァース惑星で「神」のような振る舞いをすることが出来なくなる。ダラムたちもまたオートヴァース惑星ではオートヴァースの法則に基づいた振る舞いしかできなくなったのだ。
ここに、神が消滅する。
「宇宙は、自己完結した全体として、それ自身の意味をそれなりに見出すか、でなければ、全く見出さない。神は決して存在しえないし、これからも決して存在しない」下巻p.269
パターンの話や神の消滅の話は、メタフィクション的というか物語を創るプロセスに関しても連想をさせてしまう。
物語というのも、パターンから出来ていて、無数のヴァージョンがあるはずで、僕はそれらのうちいくつかが実際に文章や映像で実体化されていて、まだ実体化されていないものもたくさんあると思っていて、しかしそれらが実体化されるか否かはいかに決まっているのか。実体化しなければ存在していないのか。そして、それらの物語に対して神=創造者=作者はいかに振舞うことが出来るのか、という疑問がある。
ちょっとだけ思い出したこと。『無限論の教室』では、無限という概念に二つの立場があるという。実無限と可能無限。実無限は、無限を実際にある数と考えるが、可能無限では、そうではないと考えている。実体化されていないヴァージョンもどこかにあるんじゃないか、というのは実無限的な考え方で、『無限論の教室』には批判されるかもしれない。では、「塵理論」はどうか。実無限っぽくもあるけど、案外可能無限かもしれないなあ……?

<<コピー>>の世界の不思議さ

<<コピー>>やスキャンといった技術、概念は、イーガンSFの他の作品でもよく登場するのだが、非常に不思議な体験をさせてくれる。
人間の脳をコンピュータ上で走らせる、というのはSFではありきたりの話かもしれないが、それが実際に行われるとどうなるか徹底的に考え抜かれているイーガン作品は、そんなありきたりの設定も驚きに満ちたものへと変える。
例えば、現実世界との時間のギャップ。コンピュータ上の<<コピー>>にとって物理的客観的時間はなく、ただ彼らの走っているコンピュータの性能に拠ってしまっている。タイムワープ的な現象が起こるのだが、自分達が早くなって未来に行くのではなく、自分達が遅くなって未来に行く、というのが面白い。
あるいは、<<コピー>>になった者の壮絶なる不安。もう一人の自分が現実世界にまだ残っている時、その不安は想像を絶する。今までの記憶・人格を全く共有しながら、ある時点から全く異なる人生を歩む二人。もう一人の自分を自分とみなすことは可能だろうか。

ディアスポラ

と、設定やテーマ上似ているところが多いが『ディアスポラ』より読みやすいかも(^^;

誰か教えてください

実は、この作品のまさに核となる、セル・オートマトンのことがよくわかりません
ライフゲームみたいなものだというくらいの認識で
なので、TVC宇宙がなぜ物理的コンピュータがなくても走るのか、理解できませんでした
何かこう、そこらへんのことを解説してくれる方いませんでしょうか
あるいは理解の助けになる書籍、サイトを知っている方いたら教えていただけると嬉しいです。

追記(20060307)

神の視点が消滅する、というのはどういうことか
それは、各価値観(でもなんでもいいのだけど)の間の優劣の差がなくなる、序列がなくなる、ということ
ポストモダニズムやカルチュラルスタディーズが目指していたのは、おそらくそういうことなのだと思うのだが
それによって起こるのが「過視的」であって、何か価値を決めるための遡及が止まらなくなる。
例えばカルチュラルスタディーズなら、メインカルチャーが偉くてサブカルチャーはそうではない、という序列を前提にした上で、でもサブカルチャーにもメインカルチャーに匹敵する優れたところがあるのだ、という提示を目指している(た)のだと思うのだけど、いざメインカルチャーサブカルチャーの間の序列(優劣の差)がなくなったとしたら、何が価値・優劣を担保するのだろうか。メインカルチャーサブカルチャーがフラットになったとしたら、その際にサブカルチャーをあえて選択する理由は何か?
うちの大学のある先生が、新自由主義以後に物を考えるのはどういうことか、ということを考えている、といっていたが多分そういうことなんだと思う。
さて、さらに神の視点がなくなると、何が起こるかというと同一性を維持する何かがなくなるのではないか。
例えばラカンであれば、対象αへの視覚的運動によってバラバラの感覚の集合に過ぎない自己を一つのものへと絞る(鏡像段階)。近代は、視覚(神の視点)によって分散しているものを一点へと絞ろうとする。
だが、神の不在あるいは超平面的な生においては、そのように分散しているものを収束させる何かがなくなってしまう(東用語でいうのであれば、郵便的あるいはデリダ脱構築
あとはこれに、パターンとシミュレーションの話を組み込めると、すごく面白くなりそうなんだけど力不足のためこれにて終了。

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

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