『偶然性・アイロニー・連帯』

リチャード・ローティが語る、リベラル・ユートピアについての本
東浩紀が、「大きな物語の凋落(リオタール)」とはどういうことか知りたければ、これを読めって言ってた本でもあるはず
本書は三部構成となっており、それぞれ「偶然性」「アイロニズムと理論」「残酷さと連帯」となっている

第Ⅰ部偶然性

ローティの本書の主張は、リベラル・アイロニストたれ、である
ここでリベラルとは「この世で最悪なことは残酷であると考える」ことであり
アイロニストとは「自分が最も正しいと信じていることも、実は偶然的なことにすぎないと自覚している人」のことである
第Ⅰ部ではまず、アイロニストの自覚する「偶然性」とは何か、について語られる
つまり、例えば言語や道徳といったものは、歴史的な偶然の中で生み出されたものであり、歴史を越えた――普遍的な真理に拠るものではないのである
道徳などの根拠として、何らかの「普遍性」や「真理」を付そうとする試みは、形而上学として批判される
しかし、注意したいのは、ローティは道徳そのものを否定しているわけではない。あくまでも、道徳の根拠に普遍性はない、といいたいのである。
人間は生きていく中で、自分や自分の生き方を根拠付ける言葉を見つける
ところで言語には、字義通りの言葉とメタファーの言葉の2種類がある。
字義通りの言葉の中からメタファーの言葉が生み出されるが、メタファーの言葉はそれを生んだ人にしか理解することは出来ない。しかし、それも時が経つに連れて、他の人々にも理解されるようになり、字義通りの言葉へとなっていく。
自分の生き方を根拠付ける言葉を得るために、メタファーを生み出す人のことを、ここでは詩人と呼ぶ。
もとより、自分の生き方を根拠付ける言葉というのは、自分以外には理解できないものであり、そこに普遍性はないのである。
ローティは詩人(ただし、その中にはいわゆる詩人だけではなく一般的には哲学者や小説家と呼ばれる人々も含まれる)という生き方を評価するが、その活動はあくまで私的なものなのである。
ローティは、自己を私的と公的に分裂させて生きることを提案する。
自分の生き方の根拠は、偶然性によるものであり、自分にしか理解できないものであり、それはあくまでも私的なものであり、公的な志向(普遍化)を持ってはいけないのだ、と。

第Ⅱ部アイロニズムと理論

そして、第Ⅱ部では、メタファーを生み出す=自己創造をし続けたアイロニストたちが紹介される
すなわち、プルーストニーチェハイデッガーデリダである。
ニーチェハイデッガーはある時期まで、それぞれヘーゲルニーチェの仕事を参考にしながら、見事にアイロニストとして生きてきた
しかし彼らは理論家であったため、彼らの使う言語の普遍化を免れなかった。
例えば、ヘーゲルニーチェハイデッガーはあくまでも自分達の使う言語を私的なものとして使っていたが、それが他の人々に渡る際普遍的な要素を帯びざるを得なかった。
また、彼らがそのパースペクティヴァリズムを発揮した対象は、しばしば自己を越えるもの(ヨーロッパや精神)へと向けられた。
ニーチェハイデッガーは崇高さを求めたゆえに、時間を超越したものへと志向してしまい、私的なものと公的なものをつなげてしまう。
一方で、プルーストはそのパースペクティヴァリズムを日常的に出会った人々へと向け、美的なものを追求した。彼の私的なアイロニズムは、決して公的なものとは出会わない。
またあるいは、デリダは後期のテクストにおいて、公的なものとのつながりをなくす。
デリダは、他の人の言葉(例えば言語哲学の言葉)を別のコンテクストにおくことで、そうした言葉の偶然性を露にするのだ。

第Ⅲ部残酷さと連帯

第Ⅱ部で見てきたアイロニストは、私的な自己の完成を目指す
しかし、そうした運動は時に他者に対して残酷となる。
この残酷さを示してくれる作家として、ローティはナボコフオーウェルを紹介する。
リベラル・アイロニストは、そうした他者への残酷さに敏感でなければならない。
他者への残酷さとは、暴力などだけをさすわけではない。最大の残酷さとは、辱めを受けることだという。
そして、それは他者への無関心によってなされる、ことがナボコフの作品から示されるのである。
また、オーウェンの作品から分かるのは、よいとされる社会も悪いとされる社会も歴史的にたまたま生じただけであり、それを支えるような根本的な何かはない、ということであり、そしてそうであるからこそ、人は自分を支えるために自分を支える何かについて、語り続ける、ということである。
リベラルな連帯、というものを目指す時、「われわれ」は「われわれ」の根拠となるものを探してはいけない。「われわれ」をさす集団を形成する根拠を探し出すと、この「われわれ」という集団は限定されてしまう。
自分という存在の偶然性を自覚することは、他者への関心を呼ぶ。自己も他者も同程度の不確かさの上に成り立っているのだから。
他者への関心を広げること、そして残酷さこそがこの世で最悪なことだと思うことによって、リベラルな連帯が成立していく。

追補

偶然性、という概念には共感。
こうした偶然性の自覚をもつこと=アイロニストとなることは、現代を生きるうえでは重要なことだと思う(「大きな物語の凋落」後に生きるとはそういうことなのだろう)。
しかし、アイロニストとして生きるというのは、自分にとっても他人にとってもリスクをはらんでいる
それに対し、私的な領域と公的な領域とに分裂する生き方やリベラルな連帯などは、非常にプラグマティックな解決法であると思う。
「真理」や「普遍」を形而上学として退け(偶然性の自覚を持った場合そうせざるを得ない)、アイロニカルに生きることを相対主義として否定するのではなく、プラグマティックな選択として肯定していくこと、それがこの本の試みだ。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性