エンジニアと思想家のギャップ?(ised設計研第4回議事録の感想)

設計研第4回
江庭という慶応の先生の講演として、「コミュニケーション」によって「つくる」ことの提案がなされる。またそのための実践として教育の話やシミュレーションの話がなされる
ゲストコメンテーター江島の回答もそれを受け継ぐものであり
司会者鈴木健の提案する「なめらか」という概念も、「コミュニケーション」によって「つくる」ことによってつくられていくものだろうということで繋がるものだった。
それに対して、東からの応答は、全く異なる角度からなされたものだった。
この異なる角度からの発言は、鈴木が「設計研は2〜30年後の話をする」と言ったからなされたもので、2〜30年後の話をするなら2〜30年後になっても耐えうるような話をしようというのが東の趣旨だったのだと思う。東としては「コミュニケーション」の話は、今現在の状況を分析する上ではとても面白い話題だが、未来の話をする上では必ずしも重要ではないかもしれない、ということなのだと思う。
一方で、その東の問題意識が他のメンバーにはあまり共有されない。自分達は十分未来の話が出来ていると思っている。
東(そして東に限らないが)が最近目指しているのは文理の別にこだわらない新しい学問の形なのだろうけど、それでも設計研の議論を見ていると(今回に限らず)文理の溝が横たわっているのではないか、と感じてしまう
エンジニアと思想家との間にあるギャップ。
情報社会論は、エンジニアと思想家が同じ題材を使って話が出来る、同じ題材を両者の側からいじっていかなければならない分野だけれど、それ以前に前提としている思考のスタイルが異なっているように思う。もちろん、だからこそ両者の会話から面白いものが生まれてくるのだろうけど、そのズレがフラストレーションも生んでしまう
isedは、個々の議論はとても興味深くまたレベルも高いと思う。これだけ多様のメンバーを招集し、これだけの議論を行い、そしてそれが僕のような素人も読むことが出来る(キーワード機能には非常に助けられている)ということだけで、isedには十分存在価値があると思うのだが、全体としての方向性がいまだに見出せていないようにも思えるのだ。
半分を過ぎなお議論がどこに向かうのかが分からない、というのは、ある意味東浩紀らしいといえば東浩紀らしい。でもそれが、エンジニアと思想家の間にある埋められない溝のせいだとすれば、なんというか非常にもったいない。
エンジニア的な方向で行ったとしても、思想家的な方向で行ったとしても、どちらも劣らず面白いものになるだろう、と僕は思っている。つまり「情報社会論の球体」に留まったとしても設計研としては十分なのではないか、と。
逆に、どちらで行くのか決めておかないと、どちらも中途半端になるのではないか。
東のちょっかいによって展開できなかったと思しき井庭の話にも興味があったわけで、今後も「内部か外部か」という話で終始されてしまうのはやはりもったいない。
外部の話は倫理研、内部の話は設計研という割り切り方をしても有意義な議論が展開できるのではないか、と思う。
ただ、東が言うように設計研での議論が30年前の未来学の本のようになってはならないのではないか、という問題意識には共感するし、もし設計研がそういう方向に向かうことが可能なら是非ともそっちへと行って欲しい。ここで言いたいのは、どっちつかずでずるずるはイヤだなぁ、というただそれだけのこと。しかし、そのどっちつかず状態をつくっているのがエンジニアと思想家の間にある溝であるとするならば、その溝をいかに埋めていくかを見せるためにずるずるやってみせるのもありなのかもしれないけれど……
なんだか、isedに対するメタな感想になってしまった。
本当は「コミュニケーション」によって「つくる」だとか、「なめらか」だとか、そういう話にとても興味が惹かれていて、それについて色々書ければいいな、と思っていたのだけど力不足なのだろう
複雑系・エンジニアリング・コミュニティ/コミュニケーションの3者が入り混じっている、そんな議論・実践を見せられて、とてもワクワクしたし、こんな未来がどんな未来なのかは分からないのだけど、とても楽しげだった。
エンジニアと思想家のギャップの話に戻すと、どちらかといえば(大げさな言い方だが)エンジニアは未来に楽観的、思想家は未来に悲観的という違いもあるのかもしれない。