『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』

この記事の目次
外観
装丁や文体(?)に関して
全体要約
本書の全体について
「メタリアルフィクションの誕生」との比較
本書のもとになった連載記事との比較。特に、削除されてしまった柄谷行人に関する議論について
大塚英志
本書と大塚英志の関係
コミュニケーション
本書と宮台真司の関係
自然主義的読解と環境分析的読解あるいはポップ文学とメタリアルフィクション
本書と仲俣暁生の関係、並びに阿部和重環境分析的読解する試み
メタ物語的な詐術とセカイ系と青春小説
「オタク」の生を肯定するか否か、あるいはポストモダンの実存文学としてのメタリアル青春小説??
自分の考えとの接合
個人的なメモに近いが、自分の理論と本書の関係
「限界小説書評」「小説の環境」
本書に関係する、若手の評論の紹介

外観

本書の内容について入る前に、いくつか。
講談社現代新書はリニューアルに伴って明らかに装丁が悪くなったが、本書の装丁もなかなかにひどい気がする。この帯の作りはちょっと滅茶苦茶ではないか、と思う。
この本の読みやすかった点としては、注釈がページ末に記されていたこと。注釈というのは、たいてい章末か巻末にまとめて記されていて、読みながらいったりきたりしなければいけないが、ページ末にあるとその作業がなくなって楽。
この本の読者というのは、一体どういう人たちが想定されているのだろうか。
東は、全くオタク的な作品には触れたことがないような人たちが読んでも分かるような記述を心がけようとしている。ネット上や読者層・数の限られている媒体とは異なるので、煩雑と思えるほど注意が多い。もちろんそこには、この本を単なるオタク文化論にとどめないという意図も絡んではいるだろう。とはいえ、このような記述がどれくらい有効なのかはやや疑問でもある。というのも、果たして全くオタク的な作品に触れたことがない人は、この本を読むのだろうかと思うからだ。仮に読んだとして、東の注意深い記述があるとしても、理解できるのだろうか。
東浩紀の文章に多少とも慣れ親しんでいると、出てくる作品や用語の意味は非常に分かりやすいのだが、この本は何気なく手に取ってもなかなか読めない類のものだと思う。例えばタイトルにある「ゲーム的リアリズム」なる言葉は、非常に限定された意味で使われている。そんなこといえば、「動物化」も「ポストモダン」もそれなりに限定された意味でのみ使われているわけだが。「ゲーム的リアリズム」なる言葉は、そもそも大塚英志の「まんが・アニメ的リアリズム」を受けて作られている言葉なわけで、かなり用法も文脈も限定されているテクニカルタームだ。テクニカルタームをタイトルに使っていけないという決まりはないけれど、それにしてもタイトルからしてかなり挑戦的というかなんというか。
僕は新聞はとっていないのだが、偶々見かけた新聞にかなりでかでかと広告が載っていたのにも驚かされた。

全体要約

理論編と作品論編に大きく二つに分けられている。
東自身が自分のブログで、体系立てて書けた、と言っているけれど事実その通りである。
これを読むとここ何年かで東浩紀が考えてきたこと、というのがかなり筋道たてて分かるようになっている。
ただしさらに言うならば、この本に書かれていることは、東理論(なるものがあるとして)の部分であって全体ではない。半分以上はここに明示されていると言っていいが、「ポストモダン化」という非常に大きな状況認識があって、その状況認識から導き出されたものの一部が本書である。その同じ状況認識から、isedやギート・ステイト、『東京から考える』が生み出されている。
もう少し言うならば、東浩紀にとって、ライトノベル美少女ゲームについて考えることとネット社会の未来について考えることと管理社会について考えることはそれほど異なる次元にあるものではない。例えば、バシュラールにとって、科学哲学と詩論は彼の中で別々の興味・関心によって支えられていて、それらを統一することはできない。一方で東浩紀にとっての美少女ゲーム論と情報社会論は、「ポストモダン化」という状況認識から導き出されており、統一して語ることも不可能ではないのだ。


まず現在日本に流通している小説(あるいは物語メディア)を、「自然主義的リアリズム」によるものと「まんが・アニメ的リアリズム」によるものとに二分する。これは『ユリイカ11月号』特別掲載「フィクションは何処へゆくのか 固有名とキャラクターをめぐって*1において述べられていた。
そうやってまず、日本の小説業界の現況をみたあと、「まんが・アニメ的リアリズム」が小説(物語メディア)に何を与えたか、を見たのちに、しかし「まんが・アニメ的リアリズム」だけでは捉えきれないものがあることを提示する。それが「ゲーム的リアリズム」と呼ばれるものである。
またさらに、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」というメディアの2分類を提唱する。
作品論編では、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」との軋轢から生み出され、「ゲーム的リアリズム」によって描かれている作品について論じられている。


全体的に興味は尽きないが、やはり後半の作品論編の方が面白い。
理論編も決して退屈ではないが、具体的な作品を読み解いていくプロセスの面白さには敵わない。

「メタリアルフィクションの誕生」との比較

本書は、『ファウスト』誌において連載されていた「メタリアルフィクションの誕生――動物化するポストモダン2」がもとになっている。
大きな違いは、まずその構成にある。
「メタリアルフィクションの誕生」では、理論編と作品論編が交互に提出される。そこでは、東がここの作品読解を通じて理論を作り出していく過程を見ることができる。『ゲーム的リアリズムの誕生』では理論編が先に置かれ、そこから作品論が導き出される構成になっているが、実際の手順は作品論から理論を導き出していたことが分かるだろう。
また、「メタリアル〜」では本文に書かれていたことが、『ゲーム的〜』では注釈に書かれ、逆に「メタリアル〜」では注釈に書かれたいことが、『ゲーム的〜』では本文に、という部分もいくつかある。
ゲーム的リアリズムの誕生』に書き直される過程で、完全に削除されてしまった議論は、「メタリアルフィクションの誕生」第4回における柄谷行人に関するものである。
この部分の議論は、東の理論そのものを知るためには不必要かもしれないが、この理論が何故要請されたのかを知るのには非常に役に立つ。
それはリアリティの行方だ。
柄谷は、夏目漱石の中に「存在論的位相」と「倫理的位相」の乖離を見出す。簡単に言ってしまえば、「存在論的位相」とは「私」についての問題で、「倫理的位相」とは「社会」についての問題だ。「私」の悩みと「社会」的な問題は乖離してしまっている。そのことに夏目漱石柄谷行人は苦悩する。これはそもそも、「私」も「社会」も言葉によって仮構された概念に過ぎないからだ。これは、大塚英志による「自然主義的リアリズム」解釈とも重なる。
つまるところ、「私」も「社会」もリアルな存在ではない*2。しかし、近代において「私」にも「社会」にもリアリティがあった。そのリアリティを支えていたものこそが「大きな物語」なのである。だが、ポストモダン状況においてこの「大きな物語」もその虚構性を浮き彫りにされる。柄谷は、夏目読解を通じて、「大きな物語」のあとにくるリアリティを担保するものを探す*3

そこで柄谷が、自然主義的な現実描写(物語)から、それを支えるコミュニケーションの構造分析(メタ物語)へ、という創作原理の転回を提案していたことである。それは、明らかに本論の問題意識と深く呼応している。
「メタリアルフィクションの誕生――動物化するポストモダン2」第4回『ファウスト』Vol.4 P.617

大きな物語」のあとのその位相を占めるもの。それは、『動物化するポストモダン』においては「データベース」と呼ばれた。本書ではそれはメタ物語と呼ばれる。メタ物語とは、物語を成立させる「環境」のことである。それは「データベース」でもあるし、「キャラ」でもあるし、「コミュニケーション(志向メディア)」でもある。
まんが・アニメ的リアリズム」によって、「自然主義的リアリズム」の虚構性が浮き彫りにされ、「ゲーム的リアリズム」によって、「大きな物語」(それは「自然主義的リアリズム」によって記述されていた)の代わりとなるものが提示されるのである。

大塚英志

動物化するポストモダン』は、良くも悪くも大塚英志の『物語消費論』の後を継いだ本である、と評されていた。大塚の『キャラクター小説の作り方』は、さらにそれに対する応答ともいえる。だとすれば、本書はさらにそれへの応答だ。
本書の理論編は多くを大塚英志に負っている。「ゲーム的リアリズム」は、「まんが・アニメ的リアリズム」に接ぎ木された概念であり、それゆえに理論編の前半部はほぼ完全に大塚英志の理論の要約である。東の「ゲーム的リアリズム」は、大塚の構築した文学史・マンガ史に完全に拠っている。
東浩紀大塚英志は、雑誌『新現実』の立ち上げに際して様々な意見の不一致により、お互い交流を絶ってしまっている。しかし、本書が大塚英志の批判的発展であることは疑いべくもなく、彼らが直接的な交流をしていないことは残念なことである。
さて、やはり『ゲーム的リアリズムの誕生』に書き直される過程で削除された部分がある。それは、大塚英志の政治的な立場と「物語」への態度の変化についての議論だ。
大塚英志(そして宮台真司もここに加えられる)は、社会のポストモダン化にいち早く対応した。しかし、2000年代に入り彼らは自分たちをモダニストとして強く自己規定しはじめる。東浩紀にしてみれば、ポストモダン化はもはや止めることの出来ない事態である。その状況認識は、現実に街の風景が変わっていることなどに基づいている*4。一方の大塚英志は、必ずしもポストモダン化は進行しておらず、今なお近代は継続中である、と考えている。それは身も蓋もなく言えば、政治が選挙や議会などの制度を備えた近代的民主主義に基づいて遂行されているからだ。彼は近代的民主主義を生きているという、再帰的(!)自覚に基づいて、自らの近代を再構築しようとするマニフェストを声高に喧伝せざるを得ない状況に、自分で自分を(!)追い込んでしまった、と見るべきなのではないだろうか。そしてそれが、大塚の「物語」に対する態度変更をもたらした。

コミュニケーション

本書はもちろん一方において大塚英志に多くを負っているが、一方で宮台真司に対してもまた負っているところが多いだろう。正確に言えば、コミュニケーションというものに注目するという、日本では宮台真司が提供した、視座に対して、だ。本書では宮台真司の名前は出てこないのだが、繰り返しコミュニケーションに注目させるやり方は宮台を彷彿とさせる。その視座ややり方は、決して宮台のオリジナルなものではない(「まんが・アニメ的リアリズム」が大塚のオリジナルであるのに対して)わけだから、宮台の名前が出てこないのは当然なのだが、それでも宮台を想起せざるを得ない。
東浩紀が本書で何度となく注意を促しているのは、ポストモダン化によって「私」や「社会」などといったものが物質的に変質しているわけではない、ということだ。「私」や「社会」は確かに虚構かもしれない。だがそれは、実在するか否かという論争を喚起させるようなものではないのだ。存在論的な問題ではなく認識論的な問題として、「私」や「社会」は虚構なのである。
より正確に言うならば、そのようなコミュニケーションが成立するようになった、ということである。あるいは、「みんながそう思っていることをみんなが知っている」状況と言い換えてもいいかもしれない。*5
あるいは、「大きな物語」の消滅と言うとき、例えばそれは宗教そのものの消滅や変質を指すのではなく、宗教に関するコミュニケーションの変質を指すのである。
こうしたやり方は、『サブカルチャー神話解体』も思い起こさせる。
本書では、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」というメディアの区別がなされる。本書では単純に、小説、映画、マンガなどを前者、ネットとゲームを後者に割り当てているが、「メタリアルフィクションの誕生」を読むと両者の区別はもう少し複雑であることが分かる。

同じマンガが、商業誌では物語志向メディア*6として、同人誌ではコミュニケーション志向メディアとして機能しうる。
「メタリアルフィクションの誕生――動物化するポストモダン2」第2回『ファウスト』Vol.2 P.256

とするならば、『サブカルチャー神話解体』においてなされていたことは、マンガや音楽を全て「コミュニケーション志向メディア」と見なして読解する試みだったのではないだろうか。

自然主義的読解と環境分析的読解あるいはポップ文学とメタリアルフィクション

本書では、作品の読み方として二つの読解方法が示される。それが、自然主義的読解と環境分析的読解である。
僕個人としては、この二つが厳密な意味で区分できるかどうか疑問である。とはいえ、これはもともと僕自身が、自然主義的読解をしている文芸評論よりは、東浩紀による文章や考え方に多く触れていて、東浩紀による読解をより自然なものとして捉えているためかもしれない。


さて東は、仲俣暁生石川忠司を、自然主義的読解でしか読めていない評論家として紹介している。ちなみに、僕は本書を読む直前に『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』を読み終わり*7、この記事が書き終わり次第『現代小説のレッスン』を読み始める予定*8である。だから、石川忠司に関してはまだ何とも言えないので保留しておく。問題は、仲俣暁生である。
仲俣暁生の読解の仕方と、東浩紀の読解の仕方は、確かに全く異なるものであるのだが、僕としてはその両者から学ぶところがあったので、出来うることならば対立させたくないのである。仮説としては、環境分析的読解とは、反自然主義的読解ではなく、非-自然主義的読解として自然主義的読解を包摂しるのではないか、ということである。またそれは、ポップ文学とメタリアルフィクションとはどのような関係にあるのか、とも言い直すことが出来る問いだ。
そもそも、東は「自然主義的読解」をライトノベルを「新しい現実を描く新しい自然主義文学(P.80)」として読む読み方だとしている。そしてその「新しい現実」とは、仲俣に関しては「ここ四半世紀の日本を襲ったさまざまな変化、経済のグローバル化や生活空間の郊外化、あるいは日本の「J国」化(P.80)」であるとしている。
東が考える「環境分析的読解」とは、では何なのか。それは、現実をそのまま描くことが不可能になった現実を描いた文学を読み解く方法ではないのだろうか。
仲俣は確かに、現実をそのまま描くことが不可能になった現実、というものへの理解があまりないかもしれない。仲俣は「本当の「言葉」」とか「強い強い言葉」とかいった言い回しを、何の衒いもなく使う。そうしたナイーブさは確かに気になるところである。だが一方で、小林秀雄寺山修司のおかれた状況を理解していたではないか。それは語ることの不可能性ではなかったのか。ポップながらくたで出来ている「レプリカ」の中では、語ることは不可能である、にも関わらず小説が書かれている。そうした小説こそが「ポップ文学」なのである。
「メタリアルフィクション(「ゲーム的リアリズム」によって描かれた作品)」は、おそらく「ポップ文学」と呼ばれる作品群の一角を形成しているのではないだろうか。


物語は、今やあまりにも語りやすく、そしてあまりにも語りにくい。それは、メタ物語が顕在化したためである。それはつまり「大きな物語」の失墜である。それはつまり、ハイカルチャーサブカルチャーの階層構造が自明ではなくなったこと、マスカルチャーがなくなりポップカルチャーが乱立するようになったこととも同義である。
メタ物語は、複数の物語群をメタ的に見回す視点のことである*9。このような視点を多くの人が自然と手に入れている状況が、ポストモダン化である。東浩紀が注目する作品は、ほとんど例外なくメタフィクション的であるが、それは技巧や批評性によってメタフィクション的となったのではなく、自分たちの置かれている自然な状況(=新しい現実!)を記述しようとすると当然のようにメタフィクション的になってしまうからである。
それに関していえば、舞城王太郎はやはり圧倒的だ。『九十九十九』『ドリルホール・イン・マイブレイン』『私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる』といった作品が該当するだろう。舞城王太郎に対して、仲俣暁生(や石川忠司)がどのような評価を下しているのか、まだ読んでいないので分からないが、このメタフィクション性は注目すべきことだろう(さらに言えば、単にメタフィクション的だから舞城は評価されるのではなく、そのメタフィクションな世界のなかでどのような生き方をするか描いていることが評価できる)。
しかし、僕は阿部和重佐藤友哉もやはり評価したい。東浩紀は、阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』以降「彼の関心は、物語の多層性の追求よりも、むしろ、ドラッグや暴力、セックス、ネットといった現代風俗の描写に向かうことになる(P.78)」と述べている。本書で東は、阿部和重について1ページしか語っていないし、またそれも「純文学」というジャンルを多くの消費者がどのような期待によって消費しているか、という観点によるものである*10。そのため上述の記述が、東の阿部評価の全てだとは思えない、というより思いたくない。
僕が思うに、阿部和重が「ドラッグや暴力、セックス、ネットといった現代風俗の描写」をしているのは、マーケットの要請に従っているだけだ。石原慎太郎芥川賞の選評において、阿部がペドフィリアを選択した内的な理由が分からない旨述べていたが、おそらく阿部にそもそもそんな理由はないのだろう。あるとすれば、単に自分が素材として使いやすい、という程度のことだろう。例えば東浩紀であれば、別にライトノベル美少女ゲームを使ってポストモダン化を論じる強い必要性は本当はない。ただ彼自身がオタクであり、ライトノベル美少女ゲームをよく読んでいたので、素材として使いやすかっただけだろう。また、マーケットの要請に従って暴力を描くのは、舞城も同じだ。もちろん、東はそのような舞城の作品は評価しない(というよりも、評価を躊躇う)。
阿部和重のデビュー作『アメリカの夜』は、「物語の多層性の追求」を行った作品であるが、もしかすると『九十九十九』的なところがあるかもしれない。というよりも本書P.289において示唆された、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『九十九十九』を結ぶ「メタ物語的なポストモダンの実存文学の系譜」に連なる作品の1つとして見ることが出来るだろう。
また、『インディヴィジュアル・プロジェクション』以降の作品も、メタ物語的な認識の中で描かれていると考えている。確かにメタフィクション的な要素はない。僕がここで注目したいのが、「妄想の自律」である。そこにおいてはメタ物語的な視座はない。しかし、そこで描かれる「物語」が「妄想」であることが、読者にとっては明白であるという点に、メタ物語的な視座がある。阿部和重は読者に登場人物への感情移入を許さない。登場人物に過剰な妄想を抱かせることで、読者をメタ物語的な視座へと送り込む。これはまさに「ゲーム的リアリズム」ではないだろうか。そして、登場人物たちも、終局で「暴力」に出会うことでまたメタ物語的な視座へと送り込まれていく。
阿部和重について語りすぎたので佐藤友哉については、該当すると思われる作品を述べるに留まる。『水没ピアノ』『クリスマス・テロル』「世界の終わりの終わり」シリーズである。


メタ物語的な詐術とセカイ系と青春小説

本書の美少女ゲーム論が、美少女ゲームを論じるに当たって妥当かどうかは僕には全く判断が出来ない。
しかしここで注目したいのは、東が(メタリアルフィクション的な)美少女ゲームを差し当たって二つに分類してみせたことだ。
『ONE』『AIR』(加えて美少女ゲームではないが『AllYouNeedIsKill』)と
Ever17』『ひぐらしのなく頃に』である。
どちらも、プレイヤー(メタレベル)をキャラクター(オブジェクトレベル)へと召喚する、という点でよく似ている。
だが、前者はプレイヤーはキャラクターに対して無力であるのに対して、後者はプレイヤーによってキャラクターが救われる。前者はメタレベルからオブジェクトレベルへと移行することによる喪失を描くのに対し、後者はメタレベルからオブジェクトレベルに介入することによる全能感を描く。
ここで、やや両義的な位置に立つのが、『未来にキスを』なのだろうと思われる。
前者は「オタク」に対して成長や責任を要求するのに対し、後者は「オタク」の生を肯定する。『未来にキスを』は、本書などを読む限り、「オタク」の生をかなりニヒリスティックに肯定する作品のように思えた。
僕はかつて、『サマー/タイム/トラベラー』『AllYouNeedIsKill』を青春小説、『涼宮ハルヒの憂鬱』『涼宮ハルヒの消失』をセカイ系と位置づけた*11。僕はここで、「セカイ系」という言葉をやや限定的に使っている。「オタク」の生を肯定する作品といったニュアンスをもたせている。
メタレベルに立つことによる安定とその永続を肯定する作品を、ここで仮に「セカイ系」と呼ぶことにすると、『Ever17』『ひぐらしのなく頃に』「涼宮ハルヒ」シリーズは「セカイ系」ということになる。『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』もまた同様だ。
未来にキスを』は、「オタク」の生を肯定しつつも、それはメタレベルへの安住は肯定しない点において、「セカイ系」と呼びがたい。
一方で、『ONE』『AIR』『サマー/タイム/トラベラー』『AllYouNeedIsKill』は、メタレベルからオブジェクトレベルへと移行する。そこには「選択」と「喪失」が伴う。メタレベルにおいて、オブジェクトレベルは複数存在している。そのどれもを選択する可能性を持っている。しかし、その複数の可能性から現実に1つを「選択」することによって、それ以外の選択肢を「喪失」する。これは優れてビルグンドゥスロマン的とも言えるのではないだろうか。
ところで、仲俣暁生は「アンチ青春小説」をこそ評価する。とすると仲俣は「セカイ系」を評価するのだろうか。いや、そうではないだろう。仲俣暁生は、「喪失」を抱えること自体は否定していない。
さてここで再び、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『九十九十九』を結ぶ「メタ物語的なポストモダンの実存文学の系譜」なるものを思い起こしてみる。『九十九十九』は、『ONE』『AIR』『サマー/タイム/トラベラー』『All You Need Is Kill』といった青春小説群の中にもその位置を占めるだろう。九十九十九は、「選択」と「喪失」を経験するからだ。ただその「選択」は、何か1つのオブジェクトレベルを選ぶものではない。その「選択」は絶えず「可能性」へと開かれている。メタレベルへと降りつつも、なお「複数性」を失わないこと。『九十九十九』が提示する「青春=アンチ青春」がそこにある。

自分の考えとの接合

メタ物語的な視座とは、可能世界的な視座のように僕には思える。複数の、無数の可能世界を想定する想像力のあり方だ。
しかしそれは、「データベース」であり「キャラ」であるが、「物語」でも「キャラクター」でもない。
「私」も「世界」も、無数の可能性の束としてある。
そこに何らかの「選択」が行われることで、1つの「物語」なり「キャラクター」なりが立ち上がっている。僕は、その「選択」とその選択の結果を「秩序」と呼ぶことにしたい。その「秩序」は果たして何によって成立しうるのか。僕個人としては「記憶」というものが重要な役割を果たしていると思う*12

「限界小説書評」「小説の環境」

いくつか、東浩紀の周縁で展開されていた他の議論にも目を通しておきたい。
1つは「限界小説書評」の試みである。この企画には、東浩紀自身は関わっていないが、東浩紀が主宰したメールマガジン波状言論」でスタッフを務めていた前島賢が編集長を務めている。
例えば、笠井翔*13による「『断章のグリムⅠ』/投影と鑑賞」では、メタレベルにたってオブジェクトレベルに降りてこない「オタク」のあり方が示されている*14

新しい伝奇小説の作品たちは、物語の主人公たちと自己とをバッサリと切り分けた上で、物語の展開していく場そのものに、鑑賞型感情移入という新たなリアリティを見いだそうとする姿勢から読み解かれる可能性を持ち合わせている。


 私は、このような新たな感情移入のメソッドに、あるいは、オタク第4世代の足音を聞き取ることができるのではないか、とも考えているのだ。

あるいは、渡邉大輔*15による「『ヤクザガール・ミサイルハート』/ 自堕落さをめぐって」は、2006年10月10日に公開された文章だが、既にして『ゲーム的リアリズムの誕生』に対する批判となっている。
ポストモダン状況において生き方は二つある*16。1つは「動物化」であり、それは「システム論的」で「外部=他者というノイズとの葛藤を極限まで縮約してある種のナルシシスティックな万能世界を構築」する、「「脱ロマン主義」的な生活世界の志向」に基づく「外部環境のゾーニングによって自分にアプリオリに課せられた「運命」(=二十一世紀の「関係の絶対性」?)を受け入れ、それに添って行動範囲を決定する」環世界的な生き方である。
そしてもう一方は、「ロマン主義的」「ヘタレ」な「自意識」を抱えていく生き方である。前者の生き方は「物語」を必要としないが、こちらの生き方は「物語」を生産し続ける。それも「再帰的」に。またそれは「「可能世界的」=相対的な認識」に支えられたものである。

とりあえず評者がここで想定している「へタレ」とは、九〇年代後半(あえて最も象徴的なメルクマールを出せば『新世紀エヴァンゲリオン』ブーム以後)からの若い世代の自意識=リアリティの形態をおおまかに規定してきた、社会=外部環境の苛酷さにさらされた「かわいそうな僕」という、思春期特有のナルシシスティックな自意識を温存する人格類型の表象一般のことであり、さらにその先には、そうした社会に対する微温的な被害者意識を、何らかの超越的な「崇高さ」の希求に肩代わりさせることによって、外部に向けて自堕落な肯定の身振りを表明するスタンス――評者の用いる言葉でいえば、広い意味での「ロマン主義」に結実するものである。
 現代のロマン主義にはさまざまな様相が見出されるが、その最も自堕落な姿がこのへタレであるわけだ。そして、誰しもが容易に思いつくように、『ほしのこえ』(新海誠)から『最終兵器彼女』(高橋しん)まで、『AIR』(麻枝准)から『水没ピアノ』(佐藤友哉)『好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎)まで、二〇〇〇年代以降の数多くの注目すべき作品は、ひとしなみに、それが素朴な形であれシニカルな形であれ、ロマン主義的な自意識=へタレのリアリティを主題化していることは疑いを容れない。そして、当然のことながら、ロマン主義=へタレは再帰性/伝染性を持つ
(中略)
現代にあって主体の自意識=ロマン主義の可能性に焦点化した作品は、枚挙に暇がない。(中略)われわれの自意識がより存在感を強めているのは確かだろう。そして、それは往々にしてきわめて自堕落な形で結晶化する。(中略)また、例えば東浩紀の発表された限りでの「ゲーム的リアリズム」をめぐる議論が、結局は「プレイヤー視点」という最も貧弱な形での現象学的発想に接近していることからもその問題の根深さは窺い知ることができよう。

ポストモダン状況において「動物」と「人間」という二つの生き方がある(より正確に東浩紀の考えを要約するなら、「動物」と「人間」という二つの生き方は「解離」という形で一人の中で同居している)。「動物化」の進行によって「物語」は必要となくなったが、それでもなおその不可能をおして「物語」を語るならどうなるか、というのが『ゲーム的リアリズムの誕生』の主なテーマである。それに対して渡邊は、ポストモダン状況における「人間」はどうしようもなく「自堕落」で「ヘタレ」だ、と批判している。


最後に紹介したいのは、福嶋亮大*17の「小説の環境」(『ファウスト』Vol.6 Side-A,Side-B)だ。
西尾維新の『ヒトクイマジカル』と佐藤友哉の『水没ピアノ』が論じられている。
前者では、コミュニケーション空間の巨大化によって因果関係(運命論!)が過剰に可視化した「小さな有限の世界」をいかに描くか、後者では、無時間性というリアリティに如何に時間というリアルをぶつけるか、という問題を論じている*18
ここでの「コミュニケーション空間」や「無時間性」といったものは、『ゲーム的リアリズムの誕生』における「メタ物語」的なものであると考えられる。ただ、これに対する福嶋による処理は、東によるもの(あるいは僕が東によるものと理解しているもの)とは異なっており、多少なりとも複雑なので、ここではこれにとどめる。


*1:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061101/1162390170

*2:このような言い方を東は好まないだろう。「私」や「社会」が完全な虚構であり実在しないというような言い方に対して、東は「錯覚」であると何度も注意を促している。これはおそらく「サイエンス・ウォーズ」的な事態が起きないようにする配慮だと思われる。東のポストモダン論は、存在論(実存するか否か)についてのものではなく認識論(コミュニケーション)についてのものである。東は何度も「錯覚」という言葉を使うことで、ポストモダン化を存在論の位相で語ることを戒めているのだと思われる。

*3:ポストモダン化とは、交換可能性が飛躍的に高まっていることも意味しているかもしれない。それは近代化の過程でも見られた。交換可能性に耐えられなくなった「自意識」を馴らすために「大きな物語」が機能していたのが近代である。「大きな物語」は交換不可能と考えられていたがそうではなかったことが分かったのが、ポストモダン状況である。しかし、そもそも近代とはそういうものであったと考え、交換可能であることを知りつつ交換不可能であると信じる再帰的コミットメントを要求するのが、宮台真司大塚英志である。一方で、そのような困難な再帰的コミットメントをせずとも、動物化してしまえば交換可能性にも耐えられるというのが動物化論ともいえる。東浩紀北田暁大再帰的コミットメントとは別の形でポストモダン状況に耐えようとする。

*4:isedや『東京から考える』を参照のこと

*5:作品論編において東は何度も「錯覚」という言葉を使う。正直、僕はこれほどまでに「錯覚」という言葉を強調する必要性を感じない。これはまず第一に、「オタクは虚構と現実を混同する」という誤解に対するエクスキューズとして機能している。僕はこの「錯覚」という言葉が単にそういうエクスキューズとしてのみ使われているのであれば、不必要だと思う。オタクを社会的に語る際にはそのエクスキューズは必要だが、個々の作品を評論として語る際にはそのようなエクスキューズは邪魔だ。だが一方で、「実際にそういう現象が起こるのではなく、そのようなコミュニケーションが発生しうる」という意味でもこの「錯覚」という言葉は使われているのだと思う。それはそれでやはり煩雑な感は否めないのだが、「メタ」的な感性を表現するためにはそれなりに必要なのかもしれない……。

*6:コンテンツ志向メディアのこと

*7:参照http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070321/1174496159

*8:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070330/1175258400

*9:僕はこれは、可能世界論へと接合できるのではないか、と思う。

*10:これもまた『サブカルチャー神話解体』的だ。作品をその内容よりもむしろ、その機能やそれが引き起こすコミュニケーションによって論じている

*11:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060710/1152530307http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060720/1153625702

*12:タイムトラベルものは、メタレベルたる観客の存在が不可避である、ということを巽孝之が述べていたことがある。これは上述の美少女ゲーム論とも接合出来るかと思われる。さて、その観客を「記憶」に置き換えて考えてみたことがある。「記憶」は、並行ないくつもの「世界」に不可逆な時間的一貫性を与える。参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060430/1166186559

*13:笠井潔の息子らしい

*14:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060708/1152331390

*15:波状言論」でデビュー

*16:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061011/1160569839

*17:波状言論」でデビュー

*18:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20051228/1135770561