ヒューム『人性論』

やっと読めたよ、ヒューム。
去年の7月に中公クラシックスから出ていた。冒頭に一ノ瀬正樹による解説がある(なお、抄訳であちこち略されている。あと、この翻訳の初出がわからない)。


冒頭の解説にもあるけれど、主要なテーマは因果関係
これが非常にきっぱりと、因果関係とは実はこういうものだ、と言っていてヒュームかっこいいw
しかし、そこに辿りつくまでは個人的にはちょっと分かりにくかったというか
ヒュームの言っていることも、そして翻訳も、決して難解というわけではないのだけれど
この時代の(現代もそうかもしれない)哲学って、結局何学なのかよく分からなくなることがある。つまり、心理学的なことをやっている。形而上学から認識論へ、とでも言えばおさまりがいいのかもしれないが、「実験」とかが出てくる。現代哲学でよく出てくる思考実験かというと、そういうのともまたちょっと違う感じがする。
帯に「日常的経験世界の観察を通して」とあるけれど、まあおそらくそういうことなのだろう。
彼はまず最初に、知覚を「印象」と「観念」のふたつに分ける。
そして、基本的にこのふたつから離れない。人間に与えられる材料は知覚だけであって、何について考える際にもそこからどうやって生じたのかを考えるのである。
最初に出てくる、抽象観念とは何か、とかは正直、『普遍論争』を読んだ後*1に読むと何だか稚拙な論にも見えるのだけど、『普遍論争』に出てくる中世哲学はあくまでも論理学としてやっていたのに対して、こっちはそういうのとは別の(認識論というのか心理学(?)というのか)ものをやっていると考えれば、そうやって比較できるものではないのかもしれない。


さて、因果関係の話だが
まず、人間は知覚を想像によって色々と連合させているのだ、という。で、その時に使っている関係が、近接、類似、そして因果関係なのである。
で、因果関係というのは、どういうものかさらに考えてみると、AがBの原因であるとき、AとBは接近していて、さらにAはBに先行していて、加えて必然的に接合している関係であるという。
じゃあ、必然的に接合しているって何なんだというと、恒常的に相伴しているということにある。毎回毎回、AがあるとBが起きる、という習慣を我々が身につけているときに、それは因果関係とみなされる。
というか、ヒュームは必然性も因果関係も、人間の心の中にあるものだと考えている。AとBとを連合させる心の中の働きとして、必然性や因果関係が見出されるのであって、対象の方にそういう関係があるわけではない、と。
かなりはっきりした経験主義であるけれど、原理としては非常にシンプルで、なおかつ一貫している。
彼は、実在であるとか同一性であるとかいったことについても、同様に論じていく。
同一性について、テセウスの船みたいな話をしていて、共通目的でつながっていることを挙げている
人格の同一性については、色々な知覚が類似とか因果とかでつながっているということを言っている。


第二篇は、情念について
誇りと卑下、愛と憎しみ、という4つの情念について分析している。
快と不快でわけちゃっているのはあまりにもシンプルすぎてどうなのと思ったが、情念の対象と原因を区別するという分析方法はなるほどなあと思った。
で、つづいて、意志の話。
これがとても面白かった。ここを読んで一気に、ヒュームいいなと思った。
自由と必然の話なのだけれど、彼にとって必然というのは、恒常性とそれを見出す人間の心のうちにあるものなので、人間の行動に関しても、恒常性が見出されればそれは必然といってしまってよいのである。そして、実際人間の行動というのは、物理的現象と同じくらいに恒常性を見いだせるものである。なら、人間の行動と物理的現象を区別するいわれはない。
人間は自由であるという主張への反論として
(1)必然という語で「無理強い」というニュアンスを感じてしまう。そして、「無理強い」に反対する自由と必然を否定する自由の2種類の自由があるのだが、これが混同されてしまっている、と。
(2)もし、後者の自由があるとすると、それは無秩序ということになる。だが、人間の行動は決して無秩序ではない。動機があって行動がある、ということを推論することができる。ヒュームはこれをもって必然とか因果とか呼んでいる。ところで、これって「原因」ではなくて「理由」じゃないか、と言われそうだが、一ノ瀬正樹は解説の中で、「原因」と「理由」ってそんなにはっきり区別できんのか、と指摘している。
(3)宗教上の理由で、自由が主張される場合もあるが、もしこの必然を否定する自由があるとすると、責任を追及することもできなくなるはずで、宗教上も、必然と考えた方がよい。
意志の話はさらに続いていて、意志って理性ではない、という話がされている。理性というのは判断であって、行動を起こさせるようなものではない。むしろ、行動を起こさせるのは、快とか不快とかさらにそこから生じる様々な情念である。理性というのは、あくまでその情念をサポートするだけであって、ベースは情念だよ、と。
感情を理性よりも重視するのって最近では当然になっていたけれど、もともとそうでもなかった。しかし、ヒュームはちゃんと気づいていたんだなあ。そういえば、ディラン・エヴァンズ『感情』 - logical cypher scapeは冒頭でヒュームに触れていたようないなかったような
第三篇は道徳について。
共感がベースにあるよーみたいな話。


この本には、「原始契約について」という短い論文もついている。
これは、社会契約説にたいする反論で、歴史的に見て社会契約なんてあったことがないし、人民の同意で政府の正当性ってどれくらい担保できんのって話。実際には、暴力と先代からの習慣によるでしょ、と。
政府や君主に忠誠を誓うのは、そうしないと社会が維持できないからだし、そもそもずっと続いてきていてそれ以外の選択肢を知らないからであって、決してそこに同意があったわけじゃない。忠誠を誓っているのをみて、そこには実は暗黙的な同意があるんだとか言われても困る、という感じ。
ところで、メインは社会契約批判なんだけど、冒頭の方では、社会契約派と王権神授派の両方を挙げて、両方ともdisっている。
政府や君主が存在するのは神のご意思によるものだ、うん、全くその通りだよね。でも、それ言い出したらこの世の中のすべての存在が神のご意思によって存在しているのであって、君主だけが特別に神聖なわけないじゃん、みたいなこと言っていて、ヒュームさんかっこいいw


ヒュームは、無神論者の疑いをかけられて大学教授にはなれなかったらしい。
実際、彼の宗教観はどんなもんだったのか、気になった。
そういえば宗教についての本もあるな。

人性論 (中公クラシックス)

人性論 (中公クラシックス)