速水健朗『ケータイ小説的』

サブタイトルは「再ヤンキー化時代の少女たち」で、郊外に住む、ヤンキーの少女文化について論じられている。
これは、東京に住む、オタクで少年の文化との対比でもある。
ところで、ヤンキーとは一体何を指しているのか。
斎藤環は『文学の断層』の中で、日本のサブカルチャーを、オタク文化サブカル文化、ヤンキー文化に分類し、それぞれ、『電車男』、『いま、会いに行きます』、『DeepLove』を対応させて説明しているが、先の二つに比べて、ヤンキー文化はわかりにくいところがある。
ヤンキーというと、不良ないし暴走族、あるいはDQNといったものをイメージするだろうが、今現在、暴走族はほとんどいないわけだし、DQNというのも、「ヤンキー文化」なるものを説明するものとはなっていないだろう。
というわけで、本書に戻ろう。
タイトルにあるとおり、この本は「ケータイ小説」を中心に取り上げている。
著者は、浜崎あゆみの歌を知らないと、ケータイ小説を読むことは出来ない、と述べており、最初の章では、如何に多くのケータイ小説が、浜崎の歌から影響を受けているか、両者が比較されている。
ケータイ小説浜崎あゆみ的なものとは、一体何であるのか。
この問いを追いかけることによって、ヤンキー文化というものが浮かび上がってくる。
まずは、少女マンガから、『NANA』と『ホットロード』が挙げられる。
これらには、回想的モノローグによるポエムが共通している。また、『ホットロード』は、優等生だった少女が、暴走族の少年に近づいていく、というヤンキー少女マンガでもある。
また著者は、浜崎を、藤圭子山口百恵中森明菜安室奈美恵といった、笑わない歌姫の系譜へと連ねる。
彼女たちはみな、自身の不幸な経歴そのものを隠すことなく、自らのキャラクターとしている。
ところで、この系譜の中で、著者は安室奈美恵だけを少し異なったものとして見ている。
それは、ヤンキーとコギャルの違いでもある。
著者は、安室をコギャル側、浜崎をヤンキー側として捉えている。
コギャル(安室)とヤンキー(浜崎)とを区別する、というのは、今まであまり見たことがなかったし、僕もこれらをほとんど同じものとして捉えていたので、実はこの本の中で一番面白いなと思ったのは、この区別である。
ヤンキー=保守、コギャル=革新と整理されている。
もともとヤンキーというのは、レディースであり、男性中心の暴走族の世界にいたためにそういう面では保守的である。山口、中森ともに、男性上位的な価値観を持っていたと著者は指摘している。
一方、安室というのは、できちゃった結婚やシングルマザーとして働くなどといった、今までのアイドル歌手とは異なる展開を見せている。
このヤンキーからコギャルへ、という流れは別のところにも見られる。
著者は、ケータイ小説浜崎あゆみ的なものの源流として、ヤンキー少女雑誌『ティーンズロード』に注目する。この雑誌の投稿欄には、ケータイ小説と見まがうような、不幸な恋愛話が並んでいる。
この雑誌は、いわゆるレディースが中心の読者層だったわけだが、90年代後半からコギャルにおされて廃刊してしまう。
その頃に現れたのが、浜崎あゆみである、という。彼女は、高校時代は丈の長いスカートという、ヤンキー的な、決してコギャル的ではないファッションをしていたらしい。
浜崎あゆみの登場は、コギャル化した流れを再ヤンキー化するものだった、ともいえるのである。
ティーンズロード』の読者層と浜崎あゆみをつなぐものとして、相田みつおがいる、というのも、なかなか興味深い指摘である。


ヤンキー文化の特徴として、地元志向というのも挙げられている。
「東京へ行かない」感覚、ローカルなコミュニティの中での相互扶助、ないし就職(早くに仕事に就きたがる)。
頭文字D』やケータイ小説の中から、こうした郊外・地元志向が見いだされていく。
(本書ではまた、そうした郊外の背景にある、ショッピングモールやコンビニといった郊外型インフラ、いわば「ファスト風土」についても触れている)
ヤンキーというと、反社会的、反抗的といったイメージがついてまわるが、著者はそうした性質は、ヤンキーにとって本質的なものではないと論じる。
つまり、反社会的、反抗的といった性質は、むしろ70年代、80年代の若者文化の性質だったのであり、時代の変わった現在のヤンキー文化においては、そのような性質はあまり見いだすことができないのである。
それを、尾崎豊浜崎あゆみの違いによって説明している。
尾崎と浜崎が似ている、という指摘があるらしいが、尾崎は学校への反抗を歌うのに対して、浜崎はむしろ自分の内面を歌っている。実は尾崎においても、内面を歌うような部分があるらしい。
この内面対峙、ないしトラウマ語りというのは、浜崎あゆみだけでなく、90年代後半の文化に共通して見られる傾向であろう*1
過食症であったり、身体障害であったりする人のノンフィクションや、『だから、あなたも生きぬいて』、『プラトニック・セックス』のような自伝、あるいは『永遠の仔』のような小説である。
社会と自分との問題、というよりは、自分と自分の内面ないし過去の問題が、重要視されるようになる。
第4章では、ケータイ小説で描かれる恋愛が、ACであったりデートDVであったり、あるいは「つながり」への依存であったり、といったようなことと強く関連していることが述べられていく*2


ところで、この本でもう一つ面白いな、と思ったのは、児童文学評論家の赤木かん子の論を受けた部分である。
赤木によると、子どもの中には、作り話は読みたくないという層がかなりの数いるらしく、彼らは「ほんとにあった」というふうに銘打っていないと読まないらしい。
彼らは、情景描写などがダメで、出来事が羅列されているようなタイプでないと読めない*3
逆に言えば、「ほんとにあった」と書いてあれば、受け容れるらしく、「ほんとにあった怖い話」は問題ないらしい。
また、著者が調べたところによると、前述した『ホットロード』に寄せられた投稿も同様で、編集者側がこれらの投稿は作り話だと断言しているようなものばかりが集まっているわけだが、それが実話ものとして人気を持ったわけである。
もちろん、ケータイ小説も、いわばケータイサイトの投稿欄的なところから、「実話として」書かれていったものである。
空想的なものないし情緒的なものが受け容れられなくて、出来事が次々と起こっていく方がいい、ということは、テレビの実録24時!みたいなのが好きな人たちなのかなあ、と読んでいて思った。


この本は、ケータイ小説やヤンキー文化、郊外に関して、何となく多くの人が思っていたようなことをまとめている。
というわけで、意外な大発見みたいなことはない。
例えば、ケータイ小説浜崎あゆみが何か似ていて、そんでもって浜崎あゆみって笑わない歌姫じゃないか、みたいなのは、言われてみると確かにそうだなあという感じ。
しかし、そういうことを色々と集めてまとめているので、小さな気づきは色々出てくる気がする。
僕の場合、やはり、ヤンキーとコギャルを区別して、安室でコギャル化、浜崎で再ヤンキー化したという指摘が面白かった。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

*1:これらは、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』において、古い想像力として指摘したものでもある

*2:ここらへんは、繰り返し参照されている土井隆義の本とあわせて読むとよいのかもしれない

*3:ここで、彼らが読めるものとして挙げられるのが、またも相田みつをである。加えて、ズッコケも挙げられている