『叫』

ものの「考え方」というのには、色々な種類があると思う。
例えば、論理的な思考とか具体的な思考とか。そして、エッセイ的な思考とか小説的な思考とかもあると思う。思考という言葉を使わずに、論理という言葉を使ってもいいかもしれない。科学の論理や小説の論理がある、というように。
保坂和志は小説で思考している、などとよく言われている(気がする)。つまり、「私」とは何か、という問いがあったとして、それに哲学の論文という形で考えていくこともできれば、小説を書くことで考えていくこともできるのである。
そして、黒沢清の映画を見ると、映画的な思考というのもあるのではないかな、と思わされる。
いわゆる文学と呼ばれる作品が、小説的な思考や論理を色々と試してみているものだとするならば、
黒沢清の作品も、映画的な思考や論理を色々と試してみているものだと思う。
別にこれは『叫』という作品に限った話ではないが、今回見ていて何となくそんなことを考えた。
では、映画的な思考や論理とは一体何か、というと、それはカメラワークとモンタージュということになると思う。
僕は何故か、黒沢作品を見ていると、カメラワーク*1やモンタージュに、他の作品を見ているときよりも、意識がいく。それは、黒沢作品がまさにそういうことを意識的に組み立てているからなのか、それとも僕の中に、黒沢作品はそうやってみるものだというオブセッションがあるからなのかは分からないが。多分、両方だと思うけど。
ホラーということもあって、フレームの中に鏡が映り込んだ時は要注意だ、と思いながら見ていたわけだけど、まさにその通りで、カメラは固定のまま動かないけれど、鏡を使うことでうまく効果を作っている。
あとはモンタージュも、ホラー的な「そこで振り向いたらいるよな」的なものを駆使しつつも、「こうやって繋いじゃうのか」と思うような繋ぎ方をしている。
ただ、そうした演出を効果的にしているのは、何よりロケハンではないかなあとも思った。
上述した鏡がうまく使われているなあと思ったシーンは、警察の取調室が舞台なのだが、全然取調室っぽくない部屋が使われている。
主人公の暮らしている公団住宅の一室にしろ、埋め立て地の風景にしろ、不自然なほど雰囲気のあるところである。ある意味「リアル」ではない。映画の雰囲気や効果のために作られたような風景が多い。
主人公の恋人が主人公の部屋に訪れ、そして帰るというシーンが2回ほどある。2回とも、部屋のドアを開けて去っていく、当たり前だけど。省略してもいいようなところを、2回繰り返して撮っている。それが何か、物語的に意味があるのかと言われると分からないけれども、繰り返しというのは映画的な思考じゃないのかなあなどとふと思った*2


『叫』は、一見してよくわからない話だ*3
この作品は、『CURE』と対応するような気がする。
役所広司が主人公の刑事を演じており*4、手口が同一の、しかし犯人がそれぞれ異なる殺人事件が連続して起こる。
この部分を取り出してみると、とても『CURE』的だ。
昔の精神病院らしき建物が重要なポイントとなるところも似ている。
それから、車で移動するシーン。何故か、車の外の風景がぼかされている。『CURE』で、役所が妻とバスに乗って療養所へ行くシーンでは、その外はぼかされていた。
ちょっと関係ないが、この作品は車で移動するシーンの時のカメラの位置が、車の外にあってボンネットとフロントガラスごしに車内が映るようになっている。あんまり見ないカメラ位置だなあと思う。
佐久間という名前の人が出てくるのだけど、CUREにも佐久間って出てこなかったっけ。まあこれは偶然の一致のような気もする。
『CURE』では、萩原聖人がいわばあっちの世界を現していて、こっちの世界でのストレスに曝されていた役所があっちの世界に行ってCURE(癒)される。
さらにいえば、役所が主人公を演じた『CURE』『ドッペルゲンガー』『カリスマ』といった作品はどれも、あっちの世界とこっちの世界を役所が行き来する作品と言えるかもしれない*5
それが『回路』になると、なんかもう世界が全部あっちの世界になってしまうし、『LOFT』ではそのあっちとかこっちとかいう区別がなし崩しになってしまう感じの作品。
と、かなり大雑把ではあるが、黒沢作品を整理した上で見ると、『叫』はどういう作品なのか。
正直言えば、よく分からないのだが(^^;
役所が行き来する話というよりは、世界そのものが変質している話という点で、『回路』や『LOFT』と近い気がする。
『回路』が「なんか見えてきた、未来が」というポジティブな台詞で終わるのに対して、こちらはそういうポジティブな感じはあんまりない。
「未来」という言葉は、役所とその恋人役である小西真奈美との会話の中で出てくる。そこで「未来」は忘れ去られてしまったものとして語られる*6
忘れ去られてしまったものは、幽霊役の葉月里緒菜が象徴しているものである。
忘れ去られてしまったものは、世界全てを道連れにしてしまうことにする。「わたしは死んだ。だからみんな死ね」というわけである。
だが、役所だけが何故か「あなただけ許します」という形で許されてしまうわけだ。
ただし気になるのが、整理するとこうなるが、映画の中では「あなただけ許します」のシーンが先行していることだ。というか、世界全てが死んでしまったところで映画はぶつっと切れて終わってしまう。
なので、『CURE』あるいは『CURE』的なものに対応しているのだと思うのだけど、どういう応答なのかはよく分からない。
『CURE』では、最後に役所が妻を殺して、役所は帰ってくる。
それに対して『叫』では、そもそも役所は恋人の小西を既に殺していたことになっている。映画に出てきている小西は、実は幽霊だったということが最後に明らかになる。小西は、「気付かなければずっと一緒に入れたのに」という感じで、最後に叫んでいる。
でも、気付いたおかげで、葉月には許されたともいえる。
でも、気付いてしまったせいで、世界全部があっちの世界に変質してしまって、役所だけ残されてしまったともいえる。
『CURE』は役所が世界を行き来して変化する話だけれど、『叫』は世界の方が変化してしまう話だ。
ただ、変化した後どうすればいいかは分からない。


黒沢作品には、滑稽とも言えるような暴力が出てくる。
それはぽかっと殴るところっと死んじゃう、というような即物的な感じのものだ。
その即物的な感じが、この作品では幽霊の表現に出ている。
『LOFT』の幽霊もやはり、どこからどうみても安達祐実だったけれど、
『叫』の幽霊は、どこからどうみても葉月里緒菜なのである。
脚もちゃんとあるし、輪郭もくっきりしている、というか他の登場人物と全く同じような姿で登場する。はっきりと喋りもする。
そういえば、「学校の怪談」のトイレの花子さんもやっぱり、すごくはっきりした姿で出てきた気がする。
この葉月里緒菜が突然空を飛ぶ(笑)
何で空を飛んじゃうのかはやっぱりよく分からないけれど、これもまた、(黒沢)映画的な論理展開なのかなあと思う(笑)
『叫』とは、葉月里緒菜が空を飛ぶ映画なのだ。

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*1:動きよりもどういう構図にするか、ということ

*2:とすると、繰り返しを多用する最近の中原昌也は、やっぱり小説じゃなくて映画の人なのかもしれないと思ったり

*3:黒沢作品ではよくあることだが

*4:『カリスマ』でも役所が刑事で主人公なのだけど

*5:それに対して『アカルイミライ』は、浅野忠信はあっちの世界に行きっぱなしで、オダギリジョーはこっちの世界に留まる話といえるかもしれない

*6:忘れ去られてしまった未来としての、湾岸の風景を船上から眺めるシーンは、押井守っぽい気もした