黒沢清『カリスマ』『アカルイミライ』

『カリスマ』

黒沢清映画はどれも、フレームが見事だが、特にこの映画はよいと感じた。
1カットたりとも気を抜いていない、というか、どのシーンで一時停止を押してもちゃんと絵になる(ということは誰か他の人が言っていたような気もするけど)。
大体において、人間が近景に来ない。人間の前に必ず何かが置いてある。そして、その何かによって画面が分かれていて、その枠の中に人間が収まっている。
特に、人が2人写っている時の、画面上のバランスが気にっている。『カリスマ』に限らないのだけど、2人が会話していても、絶妙にズラす。視線がズレていたり、距離がズレていたり、お互い反対を向いてたり。
この作品はとても、舞台的な感じがした。
役者の演技が、そう思わせたのかもしれないが、画面の枠もその雰囲気を強めている。
近景と遠景にものが置いてあって、その間を役者が動き回っているから、あたかも大道具や舞台装置を使って演技をしているように見える。
物語は、役所広司トリックスター的なことをする話。
カリスマと呼ばれている木を巡って、色々な思惑を持った人たちがいるところに、役所が紛れ込んでくる。
役所があっち行ったりこっち行ったりする中で、どの人もどの人もおかしいことが分かってくる。
で、黒沢映画お決まりのしっちゃかめっちゃかが始まるわけだが、そのしっちゃかめっちゃかの後で、役所と他の人たちが入れ替わってしまう。
つまり、役所の方がおかしくなってしまう。
カリスマと呼ばれている木は、つまり特権性を有しているわけだけど、その特権性が一体何に担保されているのか、というと実際には何にも担保されていない。
だから役所は、しっちゃかめっちゃかでカリスマが失われた後、全然違う別の木を新たなカリスマに据える。というか、特権性の担保を何故か役所が担ってしまっている。
どうでもいい木に特権性を感じてなんやかやと争っていた人々も相当おかしいんだけど、突然特権性を自分で担保できると思い始めた役所の方がさらにおかしい。
どっちを選ぶのか、とかそういう話だったわけだけど、突然選ぶ、選ばないという立場を飛び越えてしまう。
で、なんでかよく分からないけど、役所の一人勝ちで終わってしまう。

アカルイミライ

最近の黒沢作品としては珍しく(?)役所広司は出ていません。
『カリスマ』は舞台的に感じたが、だとすればこちらはとても映画的。黒沢的カメラワーク(ワークというか、むしろカメラを固定しちゃうのが特徴だと思うけど)は勿論健在だけれど、『カリスマ』ほどフレーミングがかっちりしている感じがしない。そこらへんが、舞台というより映画と思わせる要因かもしれない。
しかし、大きな要因は役者。オダギリジョー浅野忠信だしね。
『カリスマ』にしろ、『CURE』にしろ、『ドッペルゲンガー』にしろ、黒沢作品には必ず非日常が強烈に挿入されてくる。宮台的にいえばそれは<世界>だし、このblogでは「しっちゃかめっちゃか」と表現してきた。
しかし『アカルイミライ』はちょっと違う。
非日常は確かに出てくるし、それは<世界>の徴候なのかもしれないけれど、決して「しっちゃかめっちゃか」ではない。
非日常-狂気が日常-社会を支えている、というのがかなり大雑把ながらの黒沢作品の大枠だと思う。で、非日常-狂気を噴出させてやる、という感じ。
しかし、『アカルイミライ』は、非日常-狂気を決して噴出させない。
クラゲとして、あるいは霊として、確かに非日常は描かれるのだが、それは伝染したりしない(もし役所広司がいたら、100%感染しちゃうんだけどね(^^;))。
浅野忠信-クラゲ-非日常を媒介として、オダギリジョー藤竜也ディスコミュニケーションを繰り返す物語。
オダギリジョーはすごい不安定な存在で、浅野忠信が生きている間は彼に支えられていて、彼の自殺後はクラゲに支えられている。非日常に対して強い憧れを持っている存在。でも、それは憧れまでで転移や感染はしない。クラゲがそばにいる間は全然世話をしないのに、クラゲがいなくなった途端、世話をし始める。どこか遠くにいないと、上手く憧れることができない、のかもしれない。
藤竜也は、浅野忠信の父親なのだが、まあこれが全然パッとしない。かっこいいシーンがない。かっこいいなあと思っても、次の瞬間にはなんか情けないことになってしまう。これがいい。確かに、藤竜也オダギリジョーを受け入れるんだけど、しかし藤竜也のおかげで不安定な体質のオダギリジョーが安定するようになる、って話では決してないからだ。
非日常と、どうやって折り合いをつけてやっていくか。
時々でてくる浅野忠信の霊が何言っているのか分からないけど、多分こっちへ来るな、と言っている。でも、だからといってそれでオダギリジョーがおさまるわけでもなくて。
オダギリジョー藤竜也の間で助け合っているわけでもなくて。
何しろ後半では、オダギリジョー藤竜也は入れ替わってしまう。藤竜也の方がクラゲに憧れてしまう。オダギリジョーはクラゲにはなれないことを思い知ってしまう(不良っぽい少年たちと窃盗を試みるが、その時の格好がまるでクラゲのようなのだが、しかし決して彼らはクラゲではないのだ)。
『カリスマ』『CURE』『ドッペルゲンガー』は、主人公(全部役所広司だな)が非日常に行って行きっぱなしで終わってしまうけれど、『アカルイミライ』は、非日常に行きたくて、でも行けなくて、だからといって日常の側で上手く生きていくことも出来なくて、でも何とか折り合いはつけることができそうだって主人公がもしかしたらちょっと思ったかもしれない、ってとこで終わる。だから、『アカルイミライ』なのかもしれない。
藤竜也オダギリジョーを抱きしめて、「赦す」って言っているシーンは、なんか『グッドウィルハンティング』みたいなんだけど、でも違う。このシーンはラストシーンじゃないから。ラストは逆にオダギリジョー藤竜也を抱きしめるシーンになってる。
違う世代が、別に分かり合ったり赦したりしなくても、何となく一緒に生きられるかもしれないんだけど、っていう程度。


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