星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』

混ざり合う感じ、溶け合ってしまう感じ。
現在と過去が、現実と想像が、自分と相手が、一人称と三人称が、自然と機械が、アメリカ大陸と日本が
もちろんそれは決して溶けて一緒になってしまうことはない。
だが、この小説の文章を読んでいると、それらがあたかも区別を失って溶け合ってしまったかのように思えることがある。
『ロンリー・ハーツ・キラー』の時はあまり感じなかったが、『最後の吐息』とこの作品を読むと、星野の文章はかなり独特であることがわかる。
色々なものがミックスされたものが不意に、少しずつ、流し込まれてくる。それが一体何なのか、最初は分からない。


伊豆の、まわりをススキ野原と赤土に囲まれている家*1に、別れた恋人、蜜夫*2を夢想しながら生きる糖子という女性が、息子の蜜生、その家の持ち主である丸越と暮らしている(丸越はそれを「疑似家族」と呼ぶ)。
そこに、ある事件に巻き込まれて、日系ペルー人のヒヨヒトとその恋人であるあなが逃げ込んでくる。
糖子は、過去の中に生きていて、現在の出来事も全て過去へと溶かし込む。
ヒヨヒトは、過去と現在を切り離して生きている。彼は10歳頃までペルーで暮らし、その後、日本へやってきた。彼の中で、ペルーにいたときの自分と日本で暮らしている自分というのは繋がらないままになっている。
ヒヨヒトは、自分について「語る」ことによって、自分がよそよそしくなっていく感覚を覚えていく。
糖子は、自分について「語る」ことによって、むしろヒヨヒトと繋がってしまおうとする。
だが、蜜生がそれを邪魔する。糖子は、蜜夫との間に蜜生が生まれたことで、蜜夫との二人だけの関係が崩れてしまったと思っている。糖子と蜜生は、互いに無干渉のまま過ごしている。


彼らの3日間の共同生活は、彼らを変えたのだろうか。
彼らは、共に踊り、共に語った。
そうした生活の中で、彼らは自分の中にある不透明なもの*3を見つけ出し、見つめ直した。
共同生活を通して変わったといえば変わったといえるだろう。
ヒヨヒトと蜜生は、自分を捕らえていたものから逃げ出すことができたといえる。
では、糖子はどうだろうか。
ヒヨヒトとの接触によって、止まっていた糖子の時間は確かに少し動いたのかもしれない。だが、ヒヨヒトが去った後、その時間は再び止まってしまうのではないだろうか。
彼らの共同生活は、単に彼らに成長や癒しをもたらしたわけではない。
もしかすると、もっと不穏な変化をもたらしたのかもしれない(家から去ってしまった蜜生は、果たしてこの後一体どのように生きていくのか)。


ところで、
小説と一言でいっても色々あるが、純文学と大衆文学という大きな区分方法がある。まあ今ではほとんど失効しているかもしれないが。
で、僕が最近読んでいるのはどっちかというと純文学系であって、その中でも阿部和重とか古川日出男とか佐藤友哉とかを読んでいるわけだけど
こういう系の作品というのは、小説とは何か、とか、言葉とは何か、とかいったことをテーマにしている。
そして、描かれている世界は実に狭い。要するに、構成要素はセカイ系と大して変わらない。
それに対して、星野智幸というのは、社会を描こうとしている点が特徴として挙げられるだろう。しかもそれは、例えばこの作品で言えば、日系ペルー人と日本人暴走族の間の抗争*4という、具体的で現実の社会問題と地続きのものだ。
しかし、星野作品は純文学である。つまり、小説とは何か、とか、言葉とは何か、とかいったことをテーマにしている。
社会を描きながらも、決して社会派というわけでなくて、文学の問題をきっちり描いている。
社会について描いている作品は文学について描いてなくて、文学について描いている作品は社会について描いていない、ということが、とても多いと思うのだけど、その両者を描いている。
というよりも、その両者は実際には繋がっている、同じものだということを示している。

目覚めよと人魚は歌う (新潮文庫)

目覚めよと人魚は歌う (新潮文庫)

*1:この家の周囲の風景描写は、まるでメキシコとかそういうところを思い起こさせる。実際、糖子はかつて暮らしていたテキサスの風景を重ね合わせている。だが、実際には伊豆なのである

*2:『最後の吐息』に出てきたのは、蜜雄

*3:ヒヨヒトにとっては、それはそれぞれの自分とそうした自分について「語る」言葉、糖子にとっては、両親と蜜生。じゃあ、蜜生にとっては何だろうか。この作品では、密生が最初から最後まで謎の存在だった気がする

*4:背景には、雇用問題や出稼ぎ外国人や二世の問題が見え隠れする