ゲーラボ

も読んだ。

斎藤環

斎藤環は、この前アメリカであった乱射事件を紹介。この犯人を「イタイ」と思いながら共感した人も多かったのではないか、と論ずる。
「社会的にこうあるべし」という命令と、その命令を守ることができないこととの軋轢
そういう軋轢を感じている人は多いのではないか、という話。
その軋轢が表現されたもっとも新しい例として、『ぼく、オタリーマン』を紹介する。
滝本竜彦なんかから始まる、こういう軋轢、イタイ話を描くタイプの作品というのは、確かに面白い。しかし、その軋轢なんかもう越えちゃったよ、という話も読みたいな、という締め。
これを読んで思い出したのがこの記事
「宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」を読んで、この「サバイヴ感」「決断主義」こそが、5年ほど時代遅れの感性だと感じてしまった(純粋なココロ 2.0)」
宇野常寛の文章はネットでちらちらレビューを見るくらいで、ちゃんとは読んだことがないのだけど、「90年代的感性なんてダサイ」ってことを言っているのだろと思っているのだが、しかしいまだ「90年代的感性」をどのように総括すればいいのか、ということを考えているこちらとしては、何か言い返したくもなったりする。
アメリカで乱射事件を起こしちゃった人というのは、「90年代的感性」と「決断主義」の両方を持っている人だったんじゃないか、と勝手に想定する。
それに対して「イタイ」と言えてしまうのは、やはりそれらを既に抜けてきた後だからなのではないかな、と思う。
斎藤環は、『ぼく、オタリーマン』を(どこ、いつからかはよくわからないけど)一括りに出来るムーブメント(?)の一端だと捉えていて、だからさらに新しいものを求めているのだろうけれど、この上の記事に従えば、『ぼく、オタリーマン』というのは「決断主義」を乗り越えた「セカイ系2.0(仮)」という、わりと新しいタイプの作品と言えるのではないだろうか。
よしたにのマンガは『理系の人々』を読んでいて、『ぼく、オタリーマン』はパラパラと立ち読みしただけなのだけど、どちらにしろなんというかとてもまったりしていて、軋轢との葛藤というほどの切迫感はない。

伊藤剛

伊藤剛は、西岸良平の『夕焼けの詩』を取り上げていた。
映画『Always三丁目の夕日』の原作である。
世間的にはこの作品、ノスタルジーを誘うものと評価されているが、そう単純ではない、と伊藤は論じる。
結論から言えば、西岸=彼岸から描かれている、というのだ。
この西岸良平というマンガ家は、世界というのをどうもずいぶん遠くから眺めているようなのだ。
西岸良平は、もうずいぶん前にタイトルも忘れてしまったが短編集を読んだくらいなのだが、絵柄に似合わず随分と不気味な話を描くものだなあ、と思っていた。
その時の印象と、『Always三丁目の夕日』の世間の評価が随分と違って、まあ色々な作品を描ける人なのだなくらいに思っていたのだが、そんなことはなかったのだな。