「世界はなぜ、このように存在しているのか──不確定性の形而上学」『RATIO03』

ネットで目次見たときは、特に惹かれるものがなてく、RATIO03はスルーでいいかと思っていたのだが、店頭で実際に手に取ってみたら、ディビッド・ルイスとチャールズ・サンダー・パースの類似と相違についての論文が載ってたりするのだからこれは読まざるをえない。
他のが全然読む気にならないから、買うのもなんだなあと思ったので、立ち読み。
論文一本に対して2000円というのは……やっぱ高いと思うのだけど、図書館に入ってない雑誌だからコピーとかできない、だから立ち読み。

乗立雄輝 世界はなぜ、このように存在しているのか──不確定性の形而上学

ルイスの様相実在論とパースの宇宙論とを比較することで、
世界の複数性、恣意性、不確定性について論じている。
複数の世界が「この世界」と同じような形で実在する、と主張する点でルイスとパースは一致する。
ライプニッツ以来、何故なにもがないのではなく、あるのか、という問いが哲学的な問題としてあった。
それに対して、ライプニッツ自身は、あらゆる可能世界の中から最善のものが神によって選ばれたのがこの現実世界だ、と説く(そしてそれ以外の可能世界は実在しない)。
しかしその考えに対しては、「この世界」は果たして最善なのか、あるいは最善だとしてもどのようして選ばれたのか、などの疑念が生まれる。
世界の複数性を説く立場からはそのような疑念は生まれない。
というよりも、何故世界は今まさにこのようにあるこの世界としてあるのか、という哲学的な問いそのものが失効する。
というのも、ありとあらゆる可能世界が現に実在しているからだ。「この世界」はそうした諸可能世界の一つに過ぎない。
この立場は、「この世界」を特権的なものとはみなさない。「この世界」は恣意的なものなのである。
「この世界」が恣意的であるということを、ルイスは「定数」に見出す。
物理学者などが解き明かす世界の仕組みというのは、「法則」と「定数」によって表される。
「定数」は、まさにその定められた数値でなければこの世界は全く別のありようになってしまっただろうが、一方で何故まさにその数値でなければならなかったのか、ということはわからない。ただそうである、としか言えない。これを、筆者は「なまの事実brute fact」と呼ぶ。
ルイスは、定数のさらなる定数ともいうべき「無次元定数」というものが、このbrute factとしている。「無次元定数」は、単位を持たず、比として表される。
パースもやはり、何故そうなっているかはわからないがそう定まることによって本質を決めているようなものがあり、それは恣意的な第二性であるといい、またそれを「このもの性haecceitas」と呼んだ。
複数の世界が実在し、「この世界」はそうした諸世界から恣意的に選ばれた世界の一つに過ぎない、という考え方は、個人的には非常に好ましく思っているのだが、哲学の世界ではマイノリティらしい。
このような考え方の代表的論者は、ルイスとパースしかいないようだ。
さて、このように考えるだけでも非常に面白いのだが、ここからさらに論は展開し、ルイスとパースの相違点へと話が移っていく。
世界の不確定性である。
ルイスは、世界が複数存在し、この世界は恣意的なものだと考えているが、そうした世界の一つ一つは確定しているもの、完全であると考えている。
これは当然といえば当然で、可能世界が実在するという様相実在論を彼が主張するのは、そうしなければ可能世界論を採用するメリットを得ることが出来ないからで、そうであれば諸可能世界は完全でないとなかなか都合が悪いだろう。
もし仮に、不確定性、あいまいさというものがあると思われるのなら、ぶっちゃけて言えばそれは無知のせいだ。実際には確定しているのだが、それを知らないから、あいまいであるように思えてしまうのである。
だが、パースはそうは考えない。
パースは、学者としては不遇の人生を歩んでいるが、大学にいられなくなってからは測量技師として働いていたという。そしてその測量の仕事を通して、世界は不確定である、という考えを持つに到ったという。
それは誤差に関する考えによるものだ。
わたしたちは通常、対象には真の値があるものと考えている。だから、計るたびに数値がずれるのは「誤差」であって、何とかすればその誤差はなくなって真の値が明らかになる、と。こうした考え方を、イアン・ハッキングは帳簿的な考え*1と呼んで批判した。つまり、帳簿を見れば正確な値が載っている、という考えは、この世界に対してはあてはまらない、というのだ。
これは、論文の注で述べられていることだが、一般人は素朴な実在論、科学者は不可知論、そして職人や工学者になると観念論もしくは社会構成主義的な考え方をするのではないか、という。もちろんこれは直ちに当てはまるわけではないが、「もの」と直接接する機会の多い人の方が、「もの」の真の値が存在するという考えに懐疑的なのではないか、ということだ。
この仮定は、常識的直観的な考えの真逆でなかなか面白い。
とにかく、実際に測量技師をやっていたパースや、あるいは工学の世界で測定をやっている人たちにとっては、誤差というものは決してなくならないものらしい。
そして、パースは大胆な結論に達する。
「もの」の真の値とは不確定なものとして存在する。
また、一般にパースはカントとは対立するものと思われがちだが、実はカント主義者らしい。ただし、それはかなり歪んだカント解釈のもとにでのことだが。パースは、認識可能性と存在との区別をなくしてしまう。認識できる=存在する、としてしまうのだ。カントは、物自体という不可知なものを置いていたわけだが、パースはそこを乗り越えてしまうのである。
さて、不確定性こそが真の値である、というのはどういうことか。
筆者は、実無限と可能無限の違いからそれを解釈する。つまり、パースの考え方は可能無限なのである。
実無限は、ある線分の中に無限個の点が実在していると考えるが、可能無限は、線分というのは無限の切り分け方が出来る可能性をもっていると考える。
だから、切り出される点は、いつも異なってしまう、というのが不確定性の正体(?)である。
この世界というのは「汲み尽くせない」のである。
そしてそこから、切り出されるたびに、生成されていく。
この世界は、既に確定した世界なのではなく、現在進行形で生成されていく不確定な世界なのである。
最後に、これもまた注で述べられていたことだが、パースというのは新カント派の影響を受けていたそうだ。ジェームズとベルクソンの間にも親交があり、プラグマティズムとヨーロッパ哲学、新カント学派やフランス哲学との繋がりというのはあまり注目されてこなかったが色々あるみたい。
パースという哲学者も、記号論とかプラグマティズムとかでは色々研究が進んでいるものの、こうした宇宙論に関してはまだあまり手がつけられていないらしい。

戸田山和久vs.伊勢田哲治 実在論論争

これも読んだ。
相変わらず盛り上がっている。科学哲学はやっぱ面白い。
戸田山が自然主義実在論、伊勢田が反実在論を担当している。
伊勢田は、実在に対するコミットメントはいらない認識論的リスクを背負っており、そんな認識論的リスクを背負わずとも、科学的な説明はできると主張。
戸田山は、実在論にコミットしない説明には必ずしも納得できない。説明には、「浅い説明」と「深い説明」があって、反実在論では「浅い説明」しかできない、と主張。
後半では、アブダクション帰納の違い、あるいはアブダクションってのはありやなしやみたいな議論に突入。

別冊「本」RATIO 03

別冊「本」RATIO 03

*1:言い回しを忘れた。商人的な考え、とかなんとか、そんな言い方だった気がする