『現代小説のレッスン』石川忠司

主に、村上龍保坂和志村上春樹阿部和重舞城王太郎いしいしんじ水村美苗が取り上げられ、山田詠美高橋源一郎金原ひとみ角田光代生田紗代吉田修一藤沢周平佐川光晴森絵都玄月などにも言及している、まさに現代小説と呼ばれるであろう作家たちを紹介している。
「近代小説・純文学」を「エンターテイメント化」したものとしての「現代小説」の紹介、ということになる。
ここでいう「エンターテイメント化」とは、「近代小説・純文学」がもっている「かったるさ」を消去することである。
基本的には「文体」に注目した批評がなされていく。
そういうわけで、作家たちがどのような技巧を使っているのか、ということはよく分かるのだが、それが果たして「現代小説」というものにとって重要なのかどうか、ということはよく分からない。
というのも、例えば「ゲーム的リアリズム」というのは、妥当かどうかはさておき、事実だとすれば非常に大きな変化だということが分かる。それに対して、この「エンターテイメント化」というのは、それほど大きな変化のようには思えない。簡単にいってしまえば、「文章が読みやすくなりました」ということを言っているだけに思えるからだ。
どの作品をどうして重要視しているのかも、いまいち分かりにくい。
時々読みにくい文章がある。口語っぽい雰囲気を出したかったのかもしれないが、ねじれていてどうにも読みにくいところがあった。
それから、ちょっと議論の前提条件を強引に設定している箇所があったり、引用がテキトーなところもあったりした。昔、こんなことをどこかで読んだのだが、というような感じになっている。批評文であるならそこはそれなりにきちんとしてほしい。


保坂和志論と阿部和重論は面白かった。
保坂和志に関しては、そこにある「共同性」が立ち現れている、とする。自分だったら「公共性」という言葉を使うところだけど、それはまあいい。
そこには何か共同性の根拠となるような「観念」なり「思想」なりがあるわけではなく、そこにはただ「日常生活」があるのみである。そしてそれこそが「共同性」だ。例えば相手のことについて考える、しかし考えても何も分からないから考えるのをやめる。だがそのプロセスにこそ「共同性」があるのである。
お互いに「生活」「作業」をしている、ということ自体によって生まれてくる「共同性」
なんとなく、オートポイエーシスとかテレポイエーシスとかそんな感じなのかな、と思った。
個々の要素がそれぞれ独立に動き回っていることによって、産出される何か、共同性。
阿部和重論では、阿部が日本語のもつ「ペラさ」を積極的に担うことで、その「ペラさ」ゆえに際限なく拡大していく妄想をうまく描いている、としている。


村上春樹論では、村上春樹の小説の主人公である「僕」のメランコリーの原因が注目される。
つまり、そんな原因は最初からない、ということだ。
「僕」は何の理由もなく罪悪感、メランコリーを抱いている。この罪悪感には本当に何の理由もなくただあるのだが、しかし「僕」はそれに耐えられずに「理由」をでっち上げている、というのだ。
ちょっと話が逸れるが、その際に石川は「比較的平和な世の中を生きる日本人にとって、真に悩むに足る悩みとは、ぶっちゃけた話、自分の容貌くらいだったのではないか。」などと述べていることは面白い。石川は、時々、やや極端だが、結構的を射ているような認識を持っていて、面白い。
さて村上春樹だが、そんな世の日本だから、「僕」の持っている罪悪感というのに理由はなく「僕」は理由をでっち上げる。そうしてでっち上げられた理由が、恋人の死であったり羊であったり綿谷ノボルであったりした、というのだ。
それに対し、『海辺のカフカ』は違う、という。
理由をでっちあげていたころの「僕」=村上春樹は、でっち上げゆえに際限なく暴走してしまいコントロールが利かなくなってしまっていた。そのために、綿谷ノボルという絶対悪まで作ってしまった。しかし、『海辺のカフカ』ではうまくコントロールされていてよくできている、と石川は評価している。
ただ、むしろ理由のない罪悪感、ということを抽出しえたことの方が評価されてしかるべきことなのではないか、と思う。
「理由のない」というのは、現代を語る上で重要なことだと思うのだ。
そしてそれは、石川が春樹の次に紹介する、佐川光晴藤野千夜スタニスワフ・レムの認識によって裏付けられる。つまり、現代の世界に広がっている統計学的世界観という認識だ。
佐川の作品であれば食肉処理工場の職員、藤野の作品であれば同性愛者、レムの作品であればある薬の複合的な副作用による被害者、というのは、多くの人間がいれば必然的にある一定数を占める存在である。そのような存在は、確かに母集団の個体数が少なければ珍しい存在であり、その存在について悩むことは重要な問題かもしれない。しかし、母集団が大きくなればなるほど珍しい存在ではなくなる。いて当たり前である。
つまり、食肉処理工場の職員であること、同性愛者であること、というのは内的に重要な問題ではなくなるのだ。
私たちは、統計的に、確率的に存在している、という認識をしなければならない世界にいるのだ。
そしてそこから、阿部和重舞城王太郎の暴走した文章を読み解くことが出来る、と思うのだが、石川はそのようなことはしていない。
そう言う点であと一歩届かず、という点がある。


ところで、私たちは確かに統計的世界観を持たざるを得ないような世界にいる。そこでは、因果関係を正確に認識することは難しい。だからこそ「理由がない」と思わざるを得なくなる。
そしてそれゆえに暴走して物語のコントロールが利かなくなる、というのが石川の主張であり、そのような暴走を防ぐためにはせいぜい「藩」程度の世界を作ることが作家に求められる、としている。
「藩」程度の大きさならば、個人でもそこにおける因果関係が把握でき、物語がコントロールできるからだ。藤沢周平や『シンセミア』がそのような文脈で評価されている。


個々の議論では、面白い、注目すべき点があったが、全体としてはあまり面白くなかった。なんとなくまとまりが悪い。
村上龍論、舞城王太郎論、いしいしんじ論は、なんだか読んでいて首を傾げてしまった。
村上龍は1作しか読んだことがないし、いしいしんじに到っては全く知らない。だから、龍の作品やいしいしんじの作品への指摘としては正しいのかもしれないが、議論として面白いものでなかった。

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

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