ミュシャ展

新美術館でやってるミュシャ展行ってきた。
会場の外まで列が伸びてるの初めてだった。隣の草間彌生展も同じかそれ以上に列が伸びていた。
それはさておき、《スラヴ叙事詩》は単にでかいというだけでなく、情報量が多く、というかどういうモードで見ればいいのかということを混乱させてくる作品で、会場出たときには3時間くらい経っていた。


大抵の美術展って、目玉作品って並び順の真ん中あたりに配置されていることが多いかと思うのだけど、ミュシャ展は、一番最初からどんと置いてあって、まずそれで一撃食らってしまった感じがある。

スラヴ叙事詩

今回の目玉であるスラヴ叙事詩について、いくつか印象に残った作品など。
まあどれもとにかく巨大だということが一つの特徴
これだけ巨大な作品は、個人的にはこれまで見たことがない。グルスキーのいちばんでかい奴とかが近いけれど、スラヴ叙事詩の方はそれよりもでかい作品がざらにある。ニューマンの《アンナの光》も近いけど、やっぱりそれよりでかいと思う。
スラヴ叙事詩のあと、ミュシャの他の作品の展示もあるのだけど、普通なら大きめと感じるようなサイズの作品が、えらく小さく見える
スラヴ叙事詩は、3つの部屋に分かれて展示されており、一番最初の部屋にある6作品中1912年に制作された3作品がもっとも印象に残るし、一番よかった作品だと思う。制作年代的にはスラヴ叙事詩の中で一番早いのだが、解説によると、もっとも準備されて作られた作品で評価も高いらしい。
ちなみに、3番目の部屋は写真撮影可となっており、実際多くの人が撮影していた(またtwitterなどでアップされているのを見かける)が、スマホのカメラでうまく撮れる気が全然しなかったので撮らなかった。
今回、全然予習を怠って行ってしまったのだが、やはりスラブ民族の歴史について描かれている作品なので、スラヴ民族の歴史について何かしら予習していった方がよかったかもしれない。
絵を見るということと、描かれている内容を位置づけるという少なくとも二つの作業が必要で、見ていて頭がぐしゃぐしゃした。
以下、作品名には全てサブタイトルがついているのだが、面倒なのでいくつか省略している。

《原故郷のスラヴ民族》1912

1枚目
こちらは描かれてる時代としてはほぼ神話時代。
1〜3枚目について共通しているのは、形式的には画面の上下に黒い帯がフレームのように入っていること。画面の中に大きく分けて2つの情景が描かれており、1つは普通の情景なのだが、それに重ねるように、想像上の出来事とでも言うべきものが描かれている。この絵の場合、異民族の侵入とそれに怯えるスラブ民族の祖という情景と、スラブの神があたかも空中に浮かんでいるかのようなイメージとである。そして、後者のイメージについては、上下の黒いフレームの上にかかるように描かれており、フレーム外の存在とも位置づけられそう。
この3枚は、普通の情景の上に、さらに別の情景が重なり合わせて描いているために、特に2枚目と3枚目は画面に隙間なく何かが配置されている状態で、個人的には、構図がつかみにくいという点でも見方に混乱をきたす作品だった。
それから、画面外の鑑賞者の方を見つめている(要するにカメラ目線の)登場人物が必ず描かれている。真ん中あたりから絵を見ると、まっすぐ目があうので、ドキリとさせられる。
この絵は、星空の星が細かくてすごい。

《ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭(神々が闘いにあるとき、救済は諸芸術の中にある)》1912

バルト海の島らしいのだけど、(スラブに詳しくないので)何故バルト海が出てきたのかがわからなかった(7世紀頃からスラブ民族が定住していた島らしい)……
サブタイトルにある通り、戦いに対して芸術を対置している。
基本的に祭のシーンだが、これに重なる空想上の情景として、トールとオオカミたちが襲いかかるイメージと、これに対して楽人らが演奏しているイメージが置かれている。
祭の風景が、何というかエスニックなドキュメンタリー映像の一瞬を切り取ったかのような雰囲気がある。肌の色が濃く描かれているからだろうか。前近代的な群衆という様子だからだろうか。

《スラブ式典礼の導入(汝の母国語で主をたたえよ)》1912

サブタイトルがすごい
スラブ語でキリスト教典礼を行ってもよい、という教皇からの知らせがもたらされた時のことが描かれている。
手前の青年が描き方的に、ここでいうところの空想上の出来事側に属すると思うのだけど、その奥にいる子どもが明らかに彼のことを見ていたりする。
また、右側にロシア皇帝ら4名が描かれているのだが、平面的に描かれている。ミュシャは、衣服の皺や筋肉などが、こう言ってよければ古典的? というか非常にしっかり書き込む方なのだが、この4名はそうではない。画中画として描かれているような感じになっている。


ところで、これの隣にあった絵は、ブルガリア皇帝シメオン一世によるスラブ文学興隆が描かれているのだけど、いずれも9世紀頃の出来事で、「9世紀のヨーロッパ史についての知識が全然ないんだけど、9世紀にもうスラブ文学とか言ってたのか?! カロリング・ルネサンスもまだでは?!」みたいになって、軽い混乱状態に陥っていた。

《ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々》1918

何だろう、北方ロマン主義的? いや、あんまりフリードリヒの絵とかちゃんと見たことないので滅多なことは言えないけれどw
荒廃とした海辺に1人佇むヤン・アーモス・コメンスキー師(佇む、というかこのまま亡くなったらしく、周囲の人は指導者の死を嘆いている、という絵)
これを含めて、2つめの部屋に配置されていた絵の中には、地平線・水平線が描かれているものが多く、それによって画面の構図の全体像が掴みやすいように感じた。
空の色が濃い紫がかっていて好みだった。あと遠くに灯る漁火。

《クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ(「言葉の魔力」―娼館を修道院に改装する)》1916

宗教改革期を描く「言葉の魔力」三部作(?)のうちの1枚
サブタイトルにあるとおり、娼館を修道院に建て直すという絵なのだけど、それを指導していると思われる修道士は、画面上方で後ろを向いており光も当たっていない。むしろ画面下部で画面外へと視線を向ける娼婦2人の方に、強く光が当たっていて、実のところ、描いている内容がうまく分からなかった

《クジーシュキでの集会(「言葉の魔力」――ウトラキスト派)》1916

これは2本の木が垂直に描かれ、それぞれ赤と白の軍旗がたなびいている。
この2本の垂直線が印象的。
ところで、時々、キリスト教のシンボルとして太陽の看板(?)が描かれているのだけど、キリスト教と太陽というのが自分の中であまり結びついていなくて「へぇ」だった。

《二コラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛》1914

これまたすごく沢山人が描かれていて、情報量多いけれど、一番手前にたなびく黒い煙が画面を強く引き締めている(?)
この黒い煙は、このあと起きる爆発の予兆として描かれているらしい。

《イヴァンチツェの兄弟団学校》1914

左上に、雲の中に尖塔が浮かび、鳥の群れが飛び立っている。
これって、近代的な「任意の瞬間」なのでは? と思った。思っただけだけど。歴史画というのは、「特権的瞬間」を描くものなのではないかと思うし、実際、スラヴ叙事詩の中にはおそらくそうであろう作品も多いけれど、一方で、「任意の瞬間」を描いているように思えるところもある。
あと、特にこの絵がということではないけど、ミュシャの作品は、人物は古典的に描かれている一方で、風景には印象派的なものも取り入れられているのではというところがあり、なかなか様式が混淆しているのでは、という気がする

《聖アトス山》1926

最初の3枚以来なかった、「想像上の出来事」が重ね合わされているふうな絵。
天使たちがスラブの教会の模型をもって浮かんでいる

《スラヴ民族の賛歌(スラヴ民族は人類のために)》1926

この絵はタイトルといい、絵の雰囲気といい、新興宗教のスピリチュアルな雰囲気が漂っており……。
星条旗ユニオンジャックが描き込まれているのは何故

それ以外

スラブ叙事詩のあと、ミュシャのそれ以外の作品も展示されているが、歩き疲れてしまったこと混雑していたことから、あまりちゃんと見ていない(スラブ叙事詩のある部屋は広いのと絵自体が巨大なため、人が多くても絵は見れるが、こちらはそうではないので混雑していると絵が見づらい)。

《クオ・ヴァディス》1904

画面の四方を装飾的な模様が取り囲んでる。普通であれば(?)額縁が担うであろう役割も絵がなしている。
それから、画面真ん中を煙がたなびいているのだが、輪郭線が明確に描かれているために、衣服のひだのようになっている。

万博

パリ万博のチェコ・スロバキア展示などを手がけていて、それの元になった絵が、なんだかマンガの原稿っぽい絵柄だった。

プラハ市民会館

おそらく、柱か何かに貼り付けるための絵なのではないかと思うのだけど、様々なスラブ史上の人物が描かれている絵が何枚もあるのだが、もうTCGのイラストにしか見えないw
隻眼のヤン・ジシュカ、絶対攻撃力高いぞ、とか

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』(戸澤義夫・松永伸司訳)

待望の邦訳
原著についてはネルソン・グッドマン『Languages of Art』 - logical cypher scapeというか、超文フリにて新刊『筑波批評2013春』! - logical cypher scapeでレジュメをまとめたので、こちらの記事では内容まとめません。
ただまあ、やはり英語では読み切れていない部分などはあり、改めて日本語で読むことで再整理できたかなとは。特に4章後半とか5章とかは。

芸術の言語

芸術の言語

序文
序論

第一章 現実の再制作
1 指示
2 模倣
3 遠近法
4 彫刻
5 フィクション
6 トシテ再現
7 創意
8 写実性
9 記述と描写

第二章 絵の響き
1 対象領域の違い
2 方向のちがい
3 例示
4 サンプルとラベル
5 事実と比喩
6 図式
7 転移
8 隠喩の諸方式
9 表現

第三章 芸術と真正性
1 完璧な贋作
2 答え
3 贋作不可能なもの
4 理由
5 課題

第四章 記譜法の理論
1 記譜法の主機能
2 統語論的要件
3 符号の合成
4 準拠
5 意味論的要件
6 記譜法
7 時計と計数器
8 アナログとデジタル
9 帰納的な翻訳
10 図表、地図、モデル

第五章 譜、スケッチ、書
1 譜
2 音楽
3 スケッチ
4 絵画
5 書
6 投射可能性、同義性、分析性
7 文字
8 ダンス
9 建築

第六章 芸術と理解
1 絵と文
2 調べることと見せること
3 行為と態度
4 感情の機能
5 美的なものの徴候
6 価値の問題
7 芸術と理解

用語解説
概要
訳者あとがき
人名索引
事項索引

表現と例示

第二章の表現と例示のあたりは、やはり面白いところだなあと思う。
グッドマンは、「何か(絵画とか)が何か(感情とか)を表現する」というのは、「何かが何かを隠喩的に例示(その性質を所有し表示すること)すること」と捉えることで、「表現する」とは何かをより明確にしようとしている。
隠喩的ってなんやねんと思うけど、隠喩とは何ぞやということに、記号図式の転移transferということで説明を与えている
隠喩とは、あるラベル(語)を新しい対象に適用すること。ラベルの外延、諸ラベルの領野を移行させる。
*1
隠喩も、真偽の基準がある(正しい適用と正しくない適用がある)
訳注)適用するapply toをグッドマンは行為としては考えていない
グッドマンは、芸術作品には、より再現的(指示的)なもの、より例示的なもの、より表現的なもの、あるいはその3つのどれもが際立っているものなど色々あるよねと述べている(『芸術の言語』はあくまで概念の整理なので、どのような芸術が優れているかという評価には触れない)
グッドマンのこういう整理はそれなりに使えると思っていて、自分は2013年に出した『筑波批評』で、いくつかのアイマスMAD動画について、どのようにして例示的なものになっているか、そしていかに再現的なものと例示的なものとが混ざり合った作品であるかを論じたことがある。
ちなみに、ウォルトンは、"Metaphor and Prop Oriented Make-Believe"でこの新しい対象への適用について、ごっこ遊びで説明するということをしている。小道具志向のごっこ遊び。含意されたゲーム。


ウォルトンとグッドマンというと、高田さんが以下のようなことを述べていた。

メイクビリーブとかはじめに言い出したのは、Make-Believe and picturesだからね。そもそも最初期から、グッドマンの記号システム論のライバルプロジェクトとして構想されてるように思う。
https://twitter.com/at_akada_phi/status/862988040603435008

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

アナログとデジタルの話

あるシステムがデジタルであるにはたんに非連続であるのではなく、統語論的かつ意味論的に全体的に差別化されていないければならない。(p.184)

アナログなのは全体的に稠密であるシステムだけであり、デジタルなのは全体的に差別化されているシステムだけである。いずれの種類にも属さないシステムは数多くある。(p.185)

ドット絵(だから必ずしもデジタルであるというわけではなく)見方によっては稠密と松永さんがよく言っていた記憶
このあたりの整理、やはり面白い

モデル

モデルという言葉は、色々な意味に使われすぎている、と。
いくつか、どのようなことにモデルという言葉が使われているか例を挙げているけれど、例示として使われているものなど
しかし、グッドマンは、多義的ではない「モデル」という言葉の使い方を提案する。サンプルでも記述でもないケース。船の模型など。

モデルは、サンプルとはちがって指示的であり、記述とはちがって非言語的である。この種のモデルは、実質的には図表――だいてい二次元より大きい次元を持ち、部分を動かすことができるような図表――である。あるいは別の言い方をすれば、図表は平面的かつ静的なモデルである。(p.194-195)

図表は、絵画と比べて充満ではない稠密な図式(p.266)
SEP「科学におけるモデル」ほか - logical cypher scape

芸術と理解

以前、科学における美とは何か - logical cypher scapeこんな記事を書いたので、興味深く読んだ。というか、この記事を書いたときにグッドマンを思い出すべきだったか。
グッドマンは、科学と芸術の区別を批判する。両者に、質的な差はなくて、程度の差みたいな違いなんだというような話。
この本では、美的な評価・価値についてあまり触れていないけれども、グッドマンは、美的に優れているものを、記号として卓越性のあるものなかで、特に美的なものについてなのだと述べている。
ここでいう「美的なもの」というのは、評価・価値をあらわしているわけではない。
記号一般の中で、稠密性や充満・表現的などの特徴があると、美的なものになる。科学も芸術も全部記号という点では同じで、そういう特徴があるものが、特に芸術と呼ばれている、と。ここで挙げられているのは、あくまでも区別するための特徴であって、繰り返すけれども、優劣・価値ではない。
優劣・価値・評価については、記号としての卓越性によって言われるとあるので、その点では、美的なものもそうでないものも同じ基準で、優れているかどうか諮られるという感じのようだ。

一般的な卓越性を美的対象が示す場合に、それが美的な卓越性になると考えた方がよい。つまり、美的価値とは、諸属性の特別な組み合わせにおって美的なものとしての身分を得た記号的な働きにおける卓越性にほかならない。このように、美的な卓越性は認知的な卓越性のもとに包摂される。(p.296)

こういう立場に立つと、そもそも科学における美とは何か、という問題設定自体が何かズレたものになってしまうのかもしれない。
ただ、この立場だと、自然美など記号ではないものの美はどうなるの、という疑問も生じるが。


いわく言いがたさのような美的特徴を、稠密性といった記号の特徴へと分析しているのなども面白いところだと思う。

唯名論

訳者あとがきには、唯名論実在論かというよりはむしろ、その二者択一を放棄する「脱−実在論」的な立場なのだと書かれている。
客観性をどこかで担保しようとする穏健な唯名論的なところなのではないかな、という気はする。わからんけど。

SEP「科学におけるモデル」ほか

Models in Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
部分的に眺めたので、その時に書いたメモを放っておく

SEP「科学におけるモデル」

意味論
  • 世界の一部(ターゲットシステム)についてのモデル
    • 現象のモデル

モデルってそもそもどういう種類の表象なのか→非言語的表象
どういう表象のスタイルか→意味論的観点の2つの立場(1)ターゲットと同型isomorphic(2)similarity
以下、いくつかモデルを分類する(ただし、互いに排他的な分類ではない)
scale models
ターゲットシステムを縮小もしくは拡大したコピー。パースがいうイコンの特殊な例
idealized models
摩擦なしの飛行機、点質量、無限の速度、孤立系、全知のエージェント、完全均衡した市場など
アリストテレス的理想化:問題に関わってない性質は取り除く。
ガリレオ的理想化:故意に歪にする。複雑すぎる状況を単純化する。摩擦なしとか全知とか。 ideal limits
analogical models 
ガスのビリヤードボールモデルとか心のコンピュータモデルとか核の液滴モデルとか。二つの事物の間での共有された性質が類似性によってアナロジーが成り立つ。
phenomenological models 
伝統的な定義は観察可能な性質を描き、隠れたメカニズムを仮定しないモデルのこと。別の定義として理論から導出されないが、理論と結びついた原理・法則を盛り込んでいるモデル。

    • データのモデル

生データを正したり整えたりしたもの。カーブフィッティングなど

  • 理論についてのモデル
エピステモロジー

省略

モデルと理論

モデルは科学にとって付加的なもの

  • 理論を意味論的に見る立場

モデルは科学の理論化にとって中心的なもの

  • 理論と独立

実際にモデルは理論から自動的に作られるものではない、モデル構築は一種のアート。また、機能的にも理論から独立している、という考えもある。

自然法則とモデル

自然法則は世界についてあてはまる普遍のようなものという考え方があるが、むしろ、世界ではなくモデルについてあてはまるもの
自然法則は、世界のではなくモデルの存在や過程を支配している。
法則の実在論者からの回答が見当たらない。

モデルと科学的説明

モデルはツールという考えと
モデルを作ることこそが説明であるという考え

何故急に「科学におけるモデル」のSEP記事を眺めていたりしたのか

「地球惑星科学の哲学」ってどんな学問? / 青木滋之 / 哲学・科学思想史 | SYNODOS -シノドス-
このような記事があったのだが、内容的には宇宙倫理学っぽいことが書かれており、もう少し専門的な地球惑星科学の哲学としてはどのようなものがあるのだろうか、と。
気候シミュレーションの哲学とかあるから、モデルとシミュレーションみたいな話hありそうかと思った。
実際、地球惑星科学の哲学で検索するとヒットする以下のブログでも、モデルの話はされている。
地球惑星科学の科学哲学を構築する!
法則とモデルの関係というものも気になったり。
地球惑星科学におけるモデルに何があるのか分からないけれど、ミランコビッチ・サイクルやウィルソン・サイクルはそれにあたるのだろうか。うーん、ちょっと違うか。
ただ、物理学における自然法則による説明にあたるのか、そうでないのか、というのは要するに、生物学や歴史科学における説明とは科学的説明なのかというような問題なのかもしれない。そうすると、モデルの話なのかどうかよく分からなくなってくるけど。
シミュレーションとかは、scale modelsあたりなのだろうか。

グッドマンにおけるモデル

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』(戸澤義夫・松永伸司訳) - logical cypher scapeでは、モデルについても少し触れられている。
端的に言ってしまえば、モデルとは図表の一種。
立体的な図表というか。
ただ、それ以外に、日常的に使われている「モデル」という言葉は多義的で、例示のサンプルとして使われているものなども「モデル」と呼ばれていることを指摘している


あと、モデルとは全然関係ない文脈だけど、コンピュータがデータからどのような曲線を描くかみたいな話が書かれていて、ちょっと、データのモデルの話と通じそうなところがある。あれはコンピュータがどうのという話だけども(削除と補完)

心の哲学についての思いつき

心の哲学には、いわゆるハードプロブレムないしクオリア問題という奴があるが、個人的にはあれに存在論的ギャップはなくて、認識論的ギャップか説明のギャップがあるのだと思っている。
特に、説明のギャップからアプローチできるのではないか、というような感じを持っている。
クオリア(というより、意識の現象的性質というよう言い方の方が、個人的には好ましく思っている)は、現象的であるがゆえに非命題的なところがあって、それが科学的説明とうまく噛み合わないのではないかと思った。
さて、SEPのモデルの項目を見ていたところ、モデルとは非言語的表象であること、科学的説明とはモデルを作ること(だとする立場があること)を知った。
ということは、クオリアのモデルを作ることが、そのままハードプロブレムの解消なのではと思った。いや、それが難しいのだと言われればその通りかもしれないが。

WS「クワイン以後のメタ存在論」@第76回日本哲学会

とりあえず、行ってきたよというメモのみ
日本哲学会は土日に行われていたが、一部WSが金曜の夜に開催していてそれに参加。土日の方は行ってない。
会場が、一橋のマーキュリータワーという建物だったんだけど、タワーというからには近代的な高層ビルなのか、しかし一橋のキャンパスには似合わないなと思って行ったら、7階建で、縦長というより横長な印象で、見た目も他の建物とあまり変わらない、タワー感のない建物だった。ただし、建物の中は吹き抜けが上から下まで通っていて、タワー感があるといえばある。


予稿


とりあえず、こういう感じの世界があるのかーというのをおぼろげながら知ったというレベルで、正直、内容については分からないところも多かったので、倉田発表以外については内容のメモなどは省略。
一応、行く前に倉田剛『現代存在論講義1』を読んでいったのだけど、わりと歯が立たなかった

倉田発表

メタ存在論の争点
(1)量化と存在
虚構主義・マイノング主義
(2)存在の問及び論争のとらえ方
実在論者(マジメな存在論者)
デフレ主義者(懐疑主義者)
(3)存在論の課題
「何が存在するのか」ではなく「何が何を基礎づけるのか」こそが課題→Grounding理論

小山発表

小山発表資料
発表資料が公開されているので、それへのリンクでメモに代えます。
比較的分かりやすかったのだけど、D-ProjectとE-Projecetの違いの話がさっぱりわからなかった。
ただ、ポイントとしては、ファインとサイダーは、お互いに自分のやっていることがどういうものかという認識と相手がやっていることがどういうことかという認識が、互いにそもそも噛み合っていない可能性があるらしい、と。
で、何でそんなに違ってしまっているのか、ということで、師弟関係を調べてみるということやっているらしい。
次のスライドにある系図みたいなのは、Wikipediaで指導教官を調べて作った図らしい。
小山さん曰く、まだ全然見通しはたっていないとのことだけど、とりあえず、Schiffer、Sider、Fineの指導教官を辿っていくとそれぞれ違う国にいきつく、ということらしい。
で、分析哲学と科学哲学の歴史みたいなことを、今後、他の学会で発表していく予定という宣伝で終わったのだけど、科学哲学と分析哲学シンポジウムは是非実現してもらいたい。

秋葉発表

:秋葉発表資料
現代形而上学の世界で、アリストテレス的な考え方が復活しているみたいな話は聞いたことがあって(『アリストテレス的現代形而上学』というそのものズバリな論文集が刊行されている)、とりあえず、その一環として、Grounding理論というものがあるのかな、ということが分かった。
発表内容自体は分かりやすかったけれど、Grounding理論自体のモチベーションというか、何が美味しいのかというか、そういうあたりがあんまり掴めなかったかも

藤川発表

自然言語形而上学としてのマイノング主義
すみません、これは全然分からなかった
部分部分は分かったけれども。