Marco Tamborini "Technoscientific approach to deep time"

古生物学(歴史科学)の科学哲学論文
古生物学において、いかに被説明項たる現象がテクノロジーによって生産され、処理され、提示されているか。
テクノロジーと不可分であることを示す。
Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)" - logical cypher scape2の参考文献に挙がってたので、手に取った。


Technoscientific approaches to deep time - ScienceDirect

1.Historical sciences and technology

古生物学(歴史科学)の科学哲学の最近の研究動向
Turnerの悲観主義とClelandの楽観主義の間の論争がまず紹介されている
最近、主に注目されているのは、過剰-過少決定の問題
しかし、テクノロジーはあまり注目されていない
それでも、さらに近年になって、傾向は変わりつつある。A.WyleやC.Wyle、A.Currieの研究

2.Technoscience

テクノサイエンスとは何か
科学とテクノロジーが一体してるような分野
化学やナノテクノロジー

3.Paper technology

18、19世紀の古生物学において用いられたペーパー・テクノロジー
スケッチや表、グラフなど
キュビエの骨のスケッチ
ブロンのグラフ(特徴を数量化し時系列上にグラフ化、進化のパターンを視覚化)

4.Twenty-first-century virtual paleontology

20世紀の初めから、X線が使われるようになり、
1960年代から、コンピュータが用いられる
さらに、21世紀から、いわゆるバーチャル古生物学
より完全なデータを抽出するツールとしてのバーチャル古生物学
単にデータを出してくるのではなく、可能なシナリオの生成ができるようになる。
ラウプの腹足類の殻の研究や、Gatesyのティラノサウルスの後脚の研究(実際のものだけでなく、取りうる形をパラメータいじって調べる)


5.Towards a technoscientific history and philosophy of historical sciences

技術的デバイスは、被説明項を提示する
キュビエは、スケッチから現れたものを説明しようとした
過去に起きた出来事そのものは知ることができないが、過去の力は、十分な現実として現れる
コンピュータで生成されたイメージは、古生物学者がアクセス可能な現実の一部であり、化石と存在論的な差異はない。どちらも、同じ現実に対する側面である


科学とテクノサイエンスの違いは、方法論的なものではなく存在論的なもの
探求の対象が単に発見されるのではなく、創り出される
理論的な表象と技術的な発明は絡み合っている


19・20世紀のペーパーテクノロジーと、20・21世紀のバーチャル古生物学は、強い連続性があるけれど、根本的に変化している。
X線MRI、3Dスキャナーやコンピュータは、表やグラフなどのペーパーテクノロジーにおげる二次元空間ではなく、三次元空間に拠っている
ラウプやGatesyによって視覚化された現象は、ペーパーテクノロジーでは視覚化できなかった


テクノサイエンスとして古生物学や歴史科学を捉えるアプローチは、歴史科学がどのように過去に対して認知的なアクセスをするのかについての理解を助けてくれる
キュビエやブロンやラウプらは歴史的な現象が現れるロバストなシステムを生み出しコントロールするための、テクニカルなスキルを開発してきたのであり、技術と理論のつながりを分析することで、自然史的知識の生産についての理解を広げられる。

Dominic M. Lopes "Drawing Lessons"

画像の認知的価値と美的価値の関係について
ロペスの画像・絵画の価値に関する論集の第4章にあたる論文
同じ本の第2章は以前読んだ
D.Lopes "The 'Air' of Pictures" - logical cypher scape2

個人的には、画像や絵画が、どのような知識がどのように伝えうるのか、という興味から読み始めた。
この論文の前半部は、まさにそのような観点から読むことができるが、後半部からは、認知的価値というのが、知識を伝えることにあるのではなく、知的な徳を涵養することにあるのではないかという観点へと移っていく。
そういう意味では、もともと持っていた自分の関心とはズレがあったが、こんなところにこんな風に「徳」が顔を出してくるのかーという点では面白かった


pictureは、絵画も写真も両方指す語として用いられる。ここでは、一括して画像と訳す。

Cognitivism

画像には、認知的よさと美的よさの両方をもつものもあれば、認知的デメリットと美的デメリットの両方を持つものもあるが、その一致は常に偶然であると考えるのが自律主義
そうした一致には偶然でないものもあると考えるのが、認知主義
この論文は、後者を主張しようとするもの

Knowing Pictures

絵画が知識に貢献するのなら認知的よさがあるのではないか

  • Knowing in, through, and about

画像について知ること
画像を通して知ること
画像の中で知ること、に分類
なお、例としてレンブラントの「ベルシャザールの饗宴」を使って説明されている
「この絵の作者はレンブラントだ」とかは、画像について知ること
ここで問題になるのは、画像の中で知ること
画像に描かれている内容を知ること

  • knowledge and warrant

知識は正当化された(warrant)真なる信念

  • statement blue or green

知識は命題だが、画像は命題ではないのではないか
画像は命題ではないが、画像は命題を主張することはできるのではないか。
知覚的信念の内容を「知覚的報告」と呼ぶことにする。知覚的報告は、知覚されているシーンの中に出てくるモノについての命題
同様に、描かれたシーンの「画像的報告」というのは、描かれたシーンの中のモノについての命題
画像は、画像的報告であるような命題を主張するのではないか。
が、これは広すぎるし、狭すぎる。
まず、1つの画像と結びつく画像的報告は無限にある。画像は、ほとんどの画像的報告が偽であったとしても、真なるステートメントを作ることがある
また、逆に、画像的報告にないような命題を主張しているようなこともある。


画像がpを主張してるというのは、画像がpを主張してるという仮説が、画像がその画像内容をもつことについてのもっともよい説明になっている時、その時に限る
これは、もし画像がグライス的なコミュニケーションの規範に適合するようになっているなら、合理的な仮定。


なお、この節からはラング「出稼ぎ労働者の母」を例に挙げて説明している

  • the limits of warrant

ある画像がある命題を主張しているとして、それは正当化warrantされるのか
まず、知覚的信念についてのwarrant schemaを示し、それと対比させる。
ノーマルな状況でノーマルな状態の観察者がみた知覚的報告は真である蓋然性が高いよね、という奴
画像の中で知ることを正当化するための2つの候補は、1つは画像の内容と画像的報告、もう1つは制作についての事実
前者をwarrant schemaに当てはまると、「画像的報告は真である蓋然性が高い」というのが明らかに偽
後者は、例えば写真的プロセスで作られたなら、真である可能性が高いとか、どこどこに掲載されてるなら、真である可能性が高いとか


なるほど、画像内容から知識を得ることはでかかるかもしれない
しかし、それは認知主義が正しいことにはならない
自律主義も、画像から知識を得られることによって画像が認知的よさを持つことは認めるけど、それが美的なよさを含意してることは認めない


認知主義は、作品のメッセージが美的価値と繋がってることはあるのではないか、と論じるかもしれないが、批評が重視するような要素は、そのメッセージの説得力であって、そのメッセージが真であるかや正当化されているかではない(美的に評価される時に、認知的価値と関わる要素は見られていない)

  • beyond truth and warrant

Virtuous Vision

認知的評価は、信念の特質(insightfulとかopen-mindedとかnarrowとかconfusedとか)もターゲットにする
認知的な目的は、知的な徳intellectual virtureを通して達成される
知的な徳を持つことは認知的なよさ
画像は、知的な徳を涵養することに貢献することで認知的な価値を持つのではないか

  • intellectual virture

知的な徳とは何かについての説明
外在主義と内在主義で、徳についての説明が違うことなど

  • fine observation

画像を鑑賞する時に、知識を獲得したりしようとしているわけでは必ずしもなくて、知的な徳のエクササイズ
実際に、画像は、知的な徳を涵養してるのか。
画像が見る者に対して要求するものが、知的な徳を強化するなら、そう言えるのではないか。
画像が見る者に対して求めるのは、よき観察者であること
よき観察者として求めること
(1)deliacacy of discrimination
(2)accuracy in seeing
(3)adaptability of seeing

Aesthetic Ascent

最後の節は、当然この論文の結論部で、画像が知的な徳を涵養することと、その画像の美的な価値がどのように関わっているか論じている箇所となっているが、省略する

  • cognitic -- aesthetic
  • Cognitivist criticism
  • fine seeing-in

”All Yesterdays: Unique and Speculative Views of Dinosaurs and Other Prehistoric Animals”

筆者は、 Darren Naish、John Conway、 C.M. Kosemen
以前読んだDerek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)" - logical cypher scape2の参考文献に出てきていた本だったので、手に取った。



Paleoart(復元画)についての本で、筆者のうち2名はアーティスト・イラストレイターである。
サブタイトルに、ユニーク&スペキュレイティブ・ビューとあるように、少し変わった見方を紹介している。
恐竜や古生物についてデータがあるのは化石が全てであり、基本的には骨である。
骨の長さなどは分かるが、皮膚がどのようになっているかなどは分からない。
作者は、そこにスペキュレイティブの余地があって、データとスペキュレイティブの両面から復元画が描かれるというようなことを述べている。
もちろんこれは何でもあり、という話ではなくて、データに基づいて、また現生の動物を参考にしながら仮説がつくられていくことになる。
本書の面白いところは、All YesterdaysとAll Todaysの二部構成になっているところで、前半では、恐竜や恐竜と同じ時代の古生物について個々の種について紹介されていくのに対して、後半では、現生の動物について、恐竜と同じ方法で(未来の古生物学者からの視点で)仮説とイラストが作られている。
実際の動物を知ってる身からすると、かなり奇妙な仮説や見た目が登場するのだが、恐竜でもこれと同様の推測がされていることがあるのだということと併せて述べられていて、古生物学の難しさと面白さが伝わってくる。


カルノタウルスの小さな手がディスプレイに使われていたのではないかとか
小型翼竜を捕食するでかいムカデとか
泥遊びするカマラサウルスとか
(表紙にも使われている)木登りするプロトケラトプスとか


逆に現生動物だと、ネコとかカバとかサイとかクモザルとかの、なかなか不気味でインパクトのある「復元画」が続き、未来の古生物学者による説明が付されていたりする
首が水平に伸びて動かないウサギとか、毒腺のあるヒヒとか、吸血ハチドリとか、実際の動物を知ってると何だそれは、という復元なのだが、これらは恐竜に対して実際にそのような仮説が言われたことがあって、それを適用してみたもの
あと、鼻も耳もない象とか、やけにほっそりした姿のクジラとかも

天冥の標9・10

というわけで読み終わりました


最後はシリーズの集大成なわけだけども、各巻ごとに異なる顔を見せてきた本シリーズは最終巻でもやはりそうで、これまでになくスペオペ
無数の地球外知的生命体種族が現れ、意味不明なスケールの宇宙艦隊戦をやり始める
ポッと出の奴らの話じゃなくて、メニーメニーシープ側の人たちの話読みたいんですけど、とも思うのだが、太陽系人類以外の種族の話も面白いのでズルい


救世群と千茅が月面に初めて行ったエピソードがグッとくる
で、青葉のエピソードで閉められるわけだが
いつか終わりがくるよという青葉の夫のセリフに対して、読者はまさにその終わりを見届けたので、そうだよ、そうなんだよと思う一方で、800年後だけどか……ともなるが、しかし、その800年かかったとしても、というのを描けるのが SFだよねーとも思う
あと、ノルルスカインのこと考えると、800年なんて一瞬だしな


アクリラがダダーになるとは思わんかった


ブラックチェンバーの重力が増したのって、ドロテアの人工重力と説明されてるけど、徐々に増えていったのと、アイネイアやユレインが計算して原因を推測していたあたりは、セレスが加速したからだと思ってたんだけど、どうなんだろう
(まあセレスの加速もドロテアによるものではあるが)


《天冥の標》合本版

《天冥の標》合本版

天冥の標(7・8)

巻ごとに異なることを色々やってるこのシリーズ
7巻は、十五少年漂流記、ただし子どもの数は5万人、みたいなっ 奴だった
で、少しずつ、これが一巻のメニーメニーシープにつながっていくんだろうなというのは分かってくるんだけど、実際に繋がった時には、うお、こうなるのか感


8巻は、前半で1巻の裏側というかイサリ視点で1巻の話が語り直される
イサリぃ
後半は、いよいよ1巻のあのラスト以降の展開へ

天冥の標(5・6)

一巻のあとがきで、やれることを全部やる的なことが書かれていたが、5巻でようやく何となくその意味が分かってきた
5巻は、小惑星の農家の話で、これまた1〜4巻とは少し雰囲気が異なる。
こうやって、1つの物語の中でしかし、様々なネタ・アイデアを展開しているのだな、と。
5巻は、全体の流れとしては、3巻の宇宙海賊やドロテア・ワットの話の続きなのだが、3巻のような派手な戦闘はなく、小惑星で農業をすることがどういうことかが描かれていく。
3、4巻がわりと特殊なコミュニティ、特殊なシチュエーションの話だったのに対し、5巻は打って変わって、普通の人々の日常、ただし場所は小惑星という感じで面白かった。話も、農夫の父親と都会に出ていきたい娘の関係を軸に進むし。
また、5巻は、これまで断片的にしかでてこなかったダダーのノルルスカインとミスチフについての長い物語も同時並行で進む。
実は、宇宙規模で、ある1つの種族による侵略が進んでおり、地球人類を襲った冥王斑もその侵略行為の一端であったことが明らかにされる。



でもって、6巻
6巻とはいうものの、さらにvol.1〜3に分かれた3巻本となっている。
巻のタイトルは「宿怨」
このタイトルが示す通り、救世群の宿怨が噴出し、太陽系世界を未曾有の戦争と厄災へと突き落としていく。


で、ここまででおそらく、1巻に出てきた主な集団などが出揃ったのではないかと思う。
6巻から年表と用語集がついて、ちゃんと復習しとけよ感も出てきたし
まさか、メイスンことカルミアンがこんなだとは。


『ナショナルジオグラフィック2020年10月号』

恐竜特集を読んだ


ピノサウルスから始まり、最近のトピックを次々と紹介している
CTスキャンで、恐竜が種類ごとに異なる脳の冷却システムを持つことが分かった研究とか
粒子加速器を使ってX線で卵の内部見てる研究とか