宮内悠介『盤上の夜』

読み終わった次の日に、直木賞候補になってたよ!!*1
直木賞発表前に直木賞候補作を読んでいたなんで、自分史上初


発売直後から話題になっていたものの、扱われている題材が、囲碁や将棋、麻雀といったゲームだということで、ちょっとスルーしていた。

しかし、読んでみたら一気にはまってしまった。

とてもSF的というか、見知らぬ風景を垣間見せられるような作品。

ゲームを極めることによって、我々と同じものを見ても別の風景が見えてしまう人々の話。
しかし、ただ超人たちの話というわけではなく、ゲームと人類についての話でもある。

一種のポストヒューマンだったりシンギュラリティだったりの話だったのかもしれない。

ゲームとは現実を抽象化したものである、などと言ってみたところで、そんなものはゲーム以外にも当てはまるのだから、何の説明にもなっていないが、確かにゲームというのは人類にとって、現実の何らかの部分を反映させたものであろう。

だからこそ、ゲームを通して現実を把握しようとするという試みが可能になり、ゲームによって現実に触れ、現実を変え、現実を覆い尽くすような認知や野望が現れる。


やはりこれは、ゲームと人類という壮大なSFである。
ゲームを巡る小説としてもすこぶる面白いのは当然として、ゲームを通じることで、人間の持っている抽象や観念によって現実を把握するという能力が、究極的に突き詰められると一体どういうことになるのか。そもそも、抽象や観念とは人間にとって一体どのようなものなのか、ということに迫る作品。


扱われているゲームについて知っていた方が当然面白いだろうと思うが、歴史的エピソードとかが色々入っていたりして、分からなくても相応に面白い。しかし、麻雀は分かっておいた方がよいと思う。例えば、将棋を扱った「千年の虚空」が実際に将棋の対局シーンはほとんどないのに対して、麻雀を扱った「清められた卓」は、あるタイトル戦の一部始終を追った話なので、麻雀知らずに読んでもその迫力に引き込まれはしたけれど、何がすごいのかまではなかなか掴めなかくて残念だった。


ところで、ネットで書影見たときは文庫だと思い込んでいたが、実際は文庫じゃなかった。
あと、一冊でこれだけのボリュームのある話を書いているのもすごい。それぞれの短編が濃密。あとで、読み返してみて、たったこれだけのページ数でこれだけ話入ってたの、とか思った。

全部で6編の短編からなる短編集
基本的には、ジャーナリストの「わたし」という語り手によって書かれているというスタイルとなっている。
「盤上の夜」−囲碁、四肢を失った少女が碁盤を感覚するようになる。
「人間の王」−チェッカー、42年間無敗でいながらコンピュータに破れた、チェッカーのチャンピオン、ティンズリーの物語。ここに出てくるティンズリーとシェーファーは実在した人物。
「清められた卓」−麻雀、新興宗教の教祖である女性、彼女を追う精神科医サヴァンの少年、プロ雀士の4人による歴史から葬られたタイトル戦。
「象を飛ばした王子」−チャトランガブッダの息子、ラーフラが、父の捨てた国を治めながらも一方で、将棋やチェスのもととなった遊戯チャトランガを密かに作り上げていく
「千年の虚空」−将棋、政治家の兄と棋士の弟、そして2人を翻弄し続けた女性。兄弟は全く異なるアプローチから世界を変えてしまおうと試みていた。
「原爆の局」−囲碁、「盤上の夜」の続編、原爆が落ちた日に行われていた本因坊戦アメリカはアラモゴートで行われたある対局。全ての短編を包含するビジョンが浮かび上がる。


以下、各作品あらすじ&感想(ネタバレあり)

「盤上の夜」

灰原由宇は、中国で手足を失い、生きるために囲碁を身につけた。棋士の相田に出会い、日本に帰国後、初の女性本因坊となるなど活躍したが、わずか数年で引退した。相田は、手足のない彼女のために代打ちを行い、生活を共にしていた。もちろん、そのようなやり方が最初から認められたわけではなく、当初は理事会から大いに反対された。しかし、新見棋聖がその才能に惚れ込み、異例の昇段試験が行われる。その中には、若手の井上隆太との対局もあった。
由宇はある時、相田のもとより姿をくらました。
彼女は、手足を失った代わりに、碁盤に感覚を有していたのだと相田は主張している。また、囲碁の成績がふるわなくなると、外国語の勉強を始めたという。彼女は、その彼女の感覚を整理するために、様々な外国語の感覚語を習得しようとしたのである。しかし、それだけでは不十分であり、ついには自らの感覚をあらわす言語を新たに作ろうとしはじめる。そしてその結果、発狂した。
相田は、自分は由宇との関係にこだわるあまり、観念にとらわれているのかもしれないと言いながらもこう叫ぶ。「いったい人から観念を取ったら、どれだけが後に残るというのですか!」
囲碁について、氷壁を登っていると喩えた由宇は、まさに前人未踏の高峰を碁盤による感覚というものを通して目指していたのである。
感覚拡張と私的言語。感覚拡張というテーマでいえば、最近読んだ、上田早夕里の「ナイト・ブルーの記録」を想起させたが、あれよりもなお過酷な世界である。「ナイト・ブルーの記録」でも書かれていたことだが、拡張された感覚は人と共有することができない。そのような感覚を言語化することは、まさに私的言語の試みと言えるだろうが、共有できないような言語はもはや言語ではなく、そのような「言語らしき何か」を使う者はもはや我々には狂人にしか見えないのかもしれない。
しかし、先の相田の言葉、あるいは由宇の「この世界を抽象で塗り替えたいんです」という言葉に、どこか惹かれるものがあるならば、それはただの狂気ではなく、進むべきルートだったのである。
由宇が広島の病院にいることが判明し、相田と再会するところで終わる。

「人間の王」

チェス盤を使ったチェッカーというゲームにおいて、ティンズリーは40年間無敗であったが、シェーファーの開発したプログラム、シヌークに敗れる。しかし、それも、92年の対戦においては、ティンズリーの4勝2敗、94年の対戦では、6分け、その後ティンズリーが体調を崩したために、シヌークがタイトルを獲得したというもので、必ずしも完全な敗北を喫したわけではなかった。
この作品は、インタビュー形式で進行していく。先にネタバレしてしまうと、インタビューイは、無数のログから死者を復活させる技術を用いて現れた「ティンズリー」である。
チェッカーは、さらに2007年、シーファーによって完全解が出ている。
ティンズリーは人間相手には無敗であった。それ故に、機械と戦うことを禁じられたあとも、自らのタイトルを返上してまで、シヌークと戦うことを選んだ。また、彼はシヌークとの戦いを、人と機械との戦いとは考えておらず、プログラマーとの戦いだとも考えた。さらには、いずれ完全解が出ることも予想していた。その上で、インタビュアーは、ティンズリーは一体何と戦っていたのかと問う。
ゲームがなくなってしまった(と思われる)状況でなおゲームを続けるとしたら、それはもしかして神との戦いなのか。

「清められた卓」

麻雀連盟の歴史から抹消された、幻の対局、白鳳位戦第九回。
とある宗教法人の代表である若い女性、真田優澄。
統合失調症であった彼女の治療をしていたが、逆転移を起こして彼女と婚約するまでに至った精神科医、赤田大介。
アスペルガー症候群であり、統計と確率についてサヴァン的な能力を有する9歳の少年、当山牧。
もともとツキや流れを重視する棋士だったが、ある時、工事現場の事故によって正反対の雀風になると共に前向性健忘を煩ったプロ雀士、新沢駆。
この対局は、優澄の「魔法」ともいうべき手によって、それぞれが自らのペースを崩され、「正気ではない」様相を呈していく。ここらへん、麻雀がわからないため、どこがどう正気ではない手なのかということはよく分からなかったが、それぞれが混乱しながらも、対策を講じ戦っていくという、手に汗握る展開には、一気にひきこまれていった。
優澄のイカサマを疑う新沢は、二戦目からはあらゆる観戦者を退場させ、4人だけの対局へと持ち込む。普通ならば、打たれないような手が打たれる。
ところで、この話にはオチがあって、優澄は実際にはただの麻雀素人で、あるとてつもない聴覚によって牌を把握することができていたというのである。そして、「シャーマン」と呼ばれる彼女は、治療行為を行っていたというのである。当山はサヴァンではなくなり、新沢は前向性健忘を克服した。そして赤田は、優澄の宗教法人のもとへと。

象を飛ばした王子

ブッダの息子、ラーフラは、父の捨てた国カピラバストゥを少年の頃から治めていた。周囲の者は、彼に父親と似たようなものを感じていたが、父が見ていたものが光であるならば、彼の見ているものは闇なのではないかとも感じていた。
彼は、人知れず新たなゲームを作っていた。あたかも病が世界中に広まっていくように、世界中へと広まっていくようなゲームを作ろうと腐心していた。「新しい宇宙観で、世界を塗り替えるのだ!」
彼は、非常に親しかった隣国の王子にこのゲームを教えたことがあったが、その時、彼は「象は空を飛ばない」と言われていた(象の駒が二マス斜めに進むことを指して)。彼のゲームは誰にも理解されなかった。「象は空を飛びません」
カピラバストゥは、コーサラとマガダという2つの大国に挟まれ、風前の灯火であった。ラーフラは、そんな中、生き延びる策をはかり、戦いも行う。抽象的な遊戯と現実的な戦争とを行き来する。
そして、ブッダが帰国する。ラーフラは、父とそのゲームを行った。父は、初めて彼を理解した者だった。父もまた、現実をこえる抽象的な何かを見ることができる者だった。しかし、ラーフラブッダは決定的に違った。
結果、ラーフラブッダに帰依することになる。

千年の虚空

孤児であった葦原兄弟は、資産家の織部の娘、織部綾と出会い、織部家に引き取られる。綾が十二歳、葦原兄弟の兄一郎が十一歳、弟恭二がまだ9歳だった頃から、彼らは乱交を行い、織部家は彼らを隔離する。以来、彼らは学校にも通わず、セックスとドラッグに興ずる生活を送ることになる。
しかし、綾が二十歳を超えた頃、彼女も落ち着き始め、働き始める。初めての給料で両親との食事をしようとするも、両親から拒絶される。その際、綾は両親と葦原兄弟の夢を叶えるという賭けをおこなす。しかし、この賭けが全ての始まりであった。
葦原兄弟はともに将棋をしていたのだが、次第に弟の恭二の方が才能を現し始め、一方の一郎は政治家の道を進み始める。一郎は「ゲームを殺すゲームを作る」といい、恭二は「将棋を通じて神を再発明したい」と語った。
恭二は、幻覚を見るようになっていたが、その幻覚こそが彼の強さでもあった。
一方、一郎は、量子歴史学という分野を立ち上げ、強力に支援した。それは、全ての文献をフラットに扱い、文章ごとにネットワークを作り、量子計算によって1つの歴史を見つけ出し、歴史解釈の論争に終止符を打つという試みであった。しかし、それは一郎の真意はそこにはなかった。量子歴史学は、1つの歴史ではなく、あらゆる歴史が正しいという結論を導き出した。一郎の「ゲームを殺すゲーム」とは、そのような状況のことであった。
一方、その研究は副産物として、将棋の完全解を発見させた。恭二は、コンピュータとの対局へと挑むも、体調が思わしくなく、敗北を喫する。
そして、恭二を献身的に世話していた棋士、佐々は、葦原兄弟と綾の共依存関係を絶つべく、彼らの過去を公表する。
一郎の量子歴史学は、終焉を迎え、また彼は、綾と両親との賭について織部の父親から聞かされ、綾に裏切られたと感じる。そして、綾は自殺する。
恭二が亡くなる直前、2人は最後の対局を行っている。その時、一郎は恭二が見た風景をみたと言っている。

「原爆の局」

「わたし」は、本をまとめるにあたり、相田と打ち合わせする必要があるため、相田と由宇を追ってアメリカへ向かうことになるのだが、その際、由宇との再選を望む井上隆太が半ば無理矢理同行することになった。
渡航前の相田が資料室で照合を頼んだ棋譜、それは広島に原爆が落ちた日に、まさにその広島で打たれた碁だった。
原爆が落ちた日に広島で打たれた対局と、ニューメキシコ州アラモゴードでの由宇と井上の対局。
ゲームの深海へと潜っていくような対局。その深海で「われわれは見た」。
抽象と具象が交わる。
原爆が落ちたあとも、囲碁を打ち続けたというエピソードの迫力もさることながら、ここまで全ての短編を繋ぐ深海のイメージにも息を飲む。


盤上の夜 (創元日本SF叢書)

盤上の夜 (創元日本SF叢書)

*1:が、結局ブログに書き起こすまで数日経ってしまった