『アナイアレイション−全滅領域−』『GODZILLA決戦機動増殖都市』

サブスクで見た映画の記録
ゴジラは1ヶ月くらい前に見たはずだけど、メモるの忘れてた
というか、メモることがない
いや、普通に家で見る分には面白かったような気がする


『アナイアレイション』は、SFホラーな作品だけど、映画『アナイアレイション』は、「異世界」を恐怖に満ちた世界観で描き出した:『WIRED』US版レヴュー|WIRED.jpに、「ニュー・ウィアード(New Weird)」とあって、なるほどーこういうのがニュー・ウィアードなのかーと思った
うあ、不気味〜って感じの作品

ジェレミー・ベイレンソン『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』

スタンフォード大学VR研究している筆者が、現在、VRがどのようなことに利用されているのか、またどのような分野での開発が進められているのか、といったことを紹介している本
とかく様々な事例を広く紹介しているので、なるほどそんなとこに使おうしているんだとかが分かる。
自分がVRを実際に経験したことが少ないこともあって、VRのお勉強に、と思って読んだが、それにちょうどよい感じであった。


原題は “Experience on Demand: What Virtual Reality Is, How It Works, and What It Can Do”
邦題より原題(特にサブタイトル)の方が、よほどどのような本であるかを的確に表している。
うーん、まあ、日本語のタイトルが、(おそらく)売りやすいと判断されたものとなり、内容と離れてしまっているということは、珍しいことではないので、あーだこーだ言うのもなんなのだが、この日本語タイトルは内容と全然あっていない。
まあ、営業かなんかのために「脳」というキーワードを入れたかったのだろうが、脳の話はほとんどしていない(脳の話が出てくるところとしては、VRさせながら脳活動を測定するのは、技術的にほとんど無理、よってVR中の脳活動データはほとんどとれていないって話くらい)。
筆者は、専攻的には心理学者なので、サブタイトルの「仮想現実の心理学」は当たらずも遠からじの面はあるが、既に述べた通り、事例紹介の側面が大きい本なので、心理学というのもまたちょっと違う感じである。
原題サブタイトルの「VRとは何か、どのように働くのか、何ができるのか」は、内容をわりとそのまま言い表している。
ただ、原題の「オンデマンドな経験」は、さすがに日本語タイトルとしては全然売れなさそうな感じがするので、別のタイトルになるのは仕方ない感じがする。
一方で、例えば「VRは社会をどう変えるか?」であれば、それなりに興味をひくタイトルのように思えるし、この本の内容としても的確なものだったように思えるのだが……
(筆者自身、「社会を変える」ことに関心があることが本書の随所からうかがえる。スタンフォード大で働いているとそういう関心の持ち方をするようになるらしい)


メインタイトルだけなら、そう珍しいことでもないのだが、章タイトルのいくつかも、章の内容に対してあまり的確ではないのでは、というのを見かけた。こちらは、原著の目次を確認していないので、どれくらいなのか意訳なのかはわからんけど


個人的に、VRについてちょっと勉強しておくかと思ったのは、描写の哲学的な関心の延長で、以下の2点が気になっていた。
(1)VRは二面性のある経験なのか
(2)「VR」ってそもそもどういうものに分類される概念?
先に、(2)の方からいうと
VR=仮想現実って、既存の何と比較されたりするポジションにあるのか、というか。
まず、仮想現実というと、『ニューロマンサー』とか『マトリックス』で描かれるようなサイバースペース、というようなイメージがある。
そうすると、現実世界とか物理的な土地とかと対になるものとして、VRという概念があるのかな、という感じがする。
しかし、例えば、近年のオキュラスとかPSVRとかかからVRを捉えると、HMDやそれに類するデバイスによって提供されるコンテンツというような意味合いにもとれる。コンテンツを提供する技術的な概念なのかな、と。そうするとVRっていうのは、ハイビジョンとか3Dとかと対比される概念なのかな、というようにも見える。
そこらへんが個人的によくわからんという感じだったんだけど、本書においては、わりとよく、映像やビデオとVRとが比較されているのを見かけた。
メディアのあり方の一種として、VRが位置づけられているように読み取れた。
文字、画像、映像、VR、みたいな感じか。
ハイビジョンや3Dは映像技術の一種だけど、VRは映像技術というよりは、映像ではない新しいメディアという位置づけと考えた方がよさそう。
また、映像は、TVモニターだったりプロジェクターとスクリーンだったりと様々なデバイスによって再生可能であるが、VRも、基本的にはHMDによる再生が一般的ではあると思うが、何のデバイスを使っているかは本質的ではないのかな、と思った。
上述した「サイバースペース」は、本書に出てくる言葉では「メタヴァース」に相当するかなあと思うのだが、これは、VRというメディアによって作られるコンテンツの一種であって、VRそのものではないかな、というふうに理解した。
また、サイバースペース=メタヴァースは、VRと相性がいいが、必ずしもVRを用いなくてもよい、という点はあるかと思う。
例えば「セカンドライフ」などは、一種のメタヴァースだろうが、あれはVRを用いていない。


ところで、本書では、明示されていないが、広義のVRと狭義のVRの使い分けがあるように思われた。
「没入型VR」という言葉が出てくるのだが、これはHMDを用いるようなVRを指す。この「没入型VR」という言葉は、没入型ではないVRを対としている。
没入型VRと没入型ではないVRを含んだ意味でのVR(広義のVR)と、没入型VRのみを指しているVR(狭義のVR)があるように思えた。
ただ、この使い分けは、明示的に示されているわけではないので、あまりはっきりしないし、没入型ではないVRがいまいちよく分からない(モニタで見て、マウスで操作するようなタイプを想定しているように思える)。
ただ、映像・ビデオと対になるものとしてのVRは、没入型VRのみを指しているように思える。


さて、VRを映像・ビデオと比較して、それらとVRが全く違うものであることを本書は繰り返し強調しているわけだが
本書の言葉を使ってのべるならそれは、VRが提供するものは、「メディア経験」ではなく本物の「経験」だ、ということになる。
VRは、メディアの一種として位置づける概念なのだろう、というのが(2)に対する個人的な結論なのだが、本書によれば、VRというメディアによって提供されるのはもはや、メディアを介した経験ではない、ということなのである。
これはおおむね(1)に対する回答になっていると考えてよいだろう。
すなわち、VRには経験の二面性がない。
描写の哲学では、トロンプ・ルイユには経験の二面性がない、と考えられることが多いが、VRはその延長線上にあるものと考えられるのかもしれない。


細かい点だが、読んでいて気になった単語として、「アフォーダンス」がある。「VRを特別な技術にしている各特 徴これを「アフォーダンス」という」(p.38)、としてこの語は導入されており、その後に出てくる文脈を見ても、ほぼ「特徴」と言い換え可能な形で使われていた。
こんな「アフォーダンス」の用法があるのか、と気になった。
Weblio英和辞典引くと「グラフィックス関連では、あるオブジェクトの機能の視覚的目印となるものを指すことがある。」と出てくるから、それに近い用例なのだろうか。


VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学

序章 なぜフェイスブックVRに賭けたのか?
第1章 一流はバーチャル空間で練習する
第2章 その没入感は脳を変える
第3章 人類は初めて新たな身体を手に入れる
第4章 消費活動の中心は仮想世界へ
第5章 二〇〇〇人のPTSD患者を救ったVRソフト
第6章 医療の現場が注目する“痛みからの解放”
第7章 アバターは人間関係をいかに変えるか?
第8章 映画とゲームを融合した新世代のエンタテイメント
第9章 バーチャル教室で子供は学ぶ
第10章 優れたVRコンテンツの三条件

序章 なぜフェイスブックVRに賭けたのか?

第1章 一流はバーチャル空間で練習する

アメフトとVR
プロのアメフト選手が練習にVRを利用しているという話
アメフトというのは、練習試合をしたりなんだりという以上に、戦略を覚えこむという作業が多いらしく、そのために、ひたすら相手チームのビデオを見るとかそういう練習に時間をかけるらしい
で、ビデオに代わってVRを導入するようになって、結果が出た、という話
ビデオと違って、現実であるように感じる、身体が反応するなどから、訓練・研修に使える、と。


VRの技術3つ
(1)トラッキング
(2)レンダリング
(3)ディスプレイ
とにかく、何はなくともトラッキングが大事、とのこと

第2章 その没入感は脳を変える

VRのリスクや人体に与えるネガティブな影響
この章では、冒頭にVRを用いたミルグラム実験について述べられている。
また、この章は、日本語タイトルともなっている「VRが脳をどう変えるか」という問いを扱っているが、先述したとおり、現状、VRを使っている最中の脳の測定がほとんどできないという話がされている
fMRIなどは、身体を固定していないと測定できないが、VRはむしろ身体を動かすというのもこみで成り立っているものだから。


VRのリスクとして、筆者は以下の4つをあげる
(1)暴力の行動モデリング
(2)現実逃避
(3)過度の利用
(4)注意力の低下


暴力についての影響は、かなり危惧されるものの一つだろう
(3)過度の利用について、筆者の研究室では、20分ルールを定めている、と
シミュレーター酔いや眼精疲労が起きるから
また、長時間VRをやって、現実感覚を失ってしまったという実験例もあるらしい


暴力が〜とか現実感覚が〜とかは、VRのもたらす問題として、インパクトのある話であり、また話として予想しやすいものだが、
筆者的にVRが普及した際に一番問題になりそうなこととして、壁にぶつかったり転んだりしての事故、というのを挙げていたりもした。

第3章 人類は初めて新たな身体を手に入れる

共感とVR
うってかわって、VRがもたらすよい影響の話
まず、シリアの難民キャンプを題材にしたVRドキュメンタリー作品が紹介される
VRは、例えば難民の生活を実体験させることで、共感を広げるのに役に立つのではないだろうか、と
ゴムの手実験の延長線上に、VRで「身体移転」するというものがあり、例えば、高齢者の身体がどのようなものか経験してみるなどができる
これを体験させ、高齢者への差別意識が、体験前と体験後で変化したという実験があるらしい。
VRを使うと差別を減らすことができる?!
これがそううまくもいかないらしく、他に、高齢者ではなく黒人verでやった実験では、差別意識を減らせる結果は出なかったとか
色覚異常VR体験では共感が増えたが、盲目のVR体験では共感が増えなかったとか
この手の実験はまだそれほど多くなくて、あまり一般的に言えることが少ないみたい
また、共感を増やしているという結果は出ているが、その量としては微々たるものかもしれない、とか
そんなわけで、一概にうまくいくという話ではないのだけど、この章の最後で、ちょっと面白い話として、うつ病患者への治療の話が出てくる。自分への配慮を増やすのにVRを使うというもの。

第4章 消費活動の中心は仮想世界へ

環境問題とVR
この章、タイトルがちょっとあっていないと思う。タイトルに関わるような話ももちろんしているのだが。
宇宙飛行士が宇宙から地球を見ると、環境問題などへの意識が芽生えるという「オーバービュー効果」から話が始まり、VRを環境教育に使えるのではないか、というのがこの章の主な

トイレットペーパーやシャワーを使うと、どれくらい資源が消費されるのかということを体感させるVRとか
イスキア島という島の海の高精度VRを作り、海洋の酸性化について学ぶことのできるVRを作った話とか
そこから、エコツーリズムというのは、将来VRしていった方が環境への負担を減らせていいのではないか、という話となり
最終的に、「セカンドライフ」みたいなバーチャル世界での消費がなされるようになれば、大量生産大量消費による資源の浪費を止められるのではないのか、という話で終わっている。

第5章 二〇〇〇人のPTSD患者を救ったVRソフト

PTSDVR
911テロに遭遇しPTSDに悩まされる患者が、VRによって治療できた話など
PTSDの治療は、トラウマを負った状況を思い出すことで、原因を認知し直すこと
これにVRは威力を発揮する

第6章 医療の現場が注目する“痛みからの解放”

ペインクリニック/エンハンスメントとVR
5章に引き続き、医療とVR
痛みを緩和させるためのVR
鎮痛剤は、依存症などのリスクを伴うし、場合によっては効かない
「気をそらせる」という方法で痛みを和らげるというのを試しているのがあって、それにVRが効果的ではないのか、という話。実際に少しずつ治療の現場でも用いられているらしい。


これでちょっと思い出したのだけど、子どもの頃に通っていた歯医者。治療中にアニメを見せたり、ゲームをやらせたりしてくれる病院だった。歯医者の、あのライトがついているアームに液晶モニタもついていて、治療用の寝椅子に寝たままビデオが見れる、という。


この章では他に、幻肢痛の治療に用いるVRや、リハビリで使うVR(自己肯定感をもたらす)などが紹介されている。これらは、先述した「身体移転」を用いたものだが、この章では、さらに特殊な例も紹介されている
移転させるアバターを色々と変えてみるというものだが、例えば、手足を逆転させるとか、ロブスターのアバターを操作させるとか
そうした実験の中に、第三の腕を生やして操作させるというものがあって、これによって作業の効率化を図ろうという。この第三の腕実験にお金を出したのが、日本のNECだったという、ちょっと面白い話

第7章 アバターは人間関係をいかに変えるか?

ソーシャルVR
VRキラーアプリは、ソーシャルなものだ、と
まだ、これはなかなか実現できていなくて難しいけれど、需要もあるだろうし、重要だろうと。
人間は、人と会話している時に無意識な動きをしていて、これが同期すると、会話がはずんだりする。ソーシャルVRのためには、そういう動きの再現が重要だろう、とか
セカンドライフ」の開発者は今、「ハイ・フェディリティ」というVR前提の仮想スペースを作っているところで、こちらでは「手」を重視して、VR用のグローブも作っているとか
心理学では「ミダス・タッチ効果」と呼ばれている現象があって、身体接触があると親密度が高まるというのがある。ウェイトレスに触られると注文が増えるとか。政治家に握手されると投票につながるとか。
ジョイスティックを用いたヴァーチャル握手でも、「ミダス・タッチ効果」が見られた。
将来的に、政治家のヴァーチャル演説会で、何千人もの観衆に同時に握手できるようになるかも、とか。
ビデオチャットよりもアバターを用いた映像通信がこれから重要だろう、とも
アップルが買収した「フェイスシフト」というアバター技術があって、筆者がこれを非常にほめている。本人と話しているような存在感のあるアバターであり、また、アバターの場合、トラッキング・データだけ送受信すればいいので、ビデオチャットと比べて、トラフィックを圧迫しないし、レイテンシーを圧倒的に減らせる。また、ビデオチャットのカメラ目線問題も解決できる、と。

第8章 映画とゲームを融合した新世代のエンタテイメント

物語とVR
この章は、前半で、ジャーナリズムやドキュメンタリーについて、後半で、映画やゲームなどフィクションについて触れている
いずれも、問題としては、VRでは「ストーリー展開」を見せるのが難しい、という点がある。
VRはまだまだ黎明期であり、映画のような文法が確立しておらず、今後、そうしたものを確立するコンテンツが出てくることになるのだろう、と

第9章 バーチャル教室で子供は学ぶ

教育とVR
セサミストリート』の話から始まる
この番組というのは、まだテレビで子供向け番組が少なかったころに、低所得者層向けへの教育を目的に作られた、というのを恥ずかしながら全然知らなかった
筆者も幼い頃からの『セサミストリート』ファンで、特に社会見学のコーナーが好きだった、と。
VRなら社会見学のコンテンツ作れそう、と
さて、教育用VRというのは、何というかいかにも効果のありそうなもののように思える
ところが、実際にはなかなか学習効果が得られていないらしい。
これ、第8章と同じ問題点があって、「ストーリー」を見せることがVRは不得意、というのがある。
具体的には、VR体験中にナレーションを聞かせるのが難しい、と。だから、制作者側が意図した方向に、VRユーザーを連れていくのが難しい、と。
VRは、能動的に何かをやらせるようにする、ということにはとても向いている。
動機付けには使えて、VRをやらせたあとに、学習させるとよく覚えた、などがある。
だから、そのあたり、うまくミックスして使うといいんじゃないか、と


その他に、ソーシャルVRともつながる話で、教師のアバターを通して授業を受けさせると、多人数講義でありながら、1対1授業のようにすることができる、とか


VRは、身体の動きをトラッキングするので、無意識的な動きを収集できる
このデータを用いると、成績が予想できるようになる、とかも

第10章 優れたVRコンテンツの三条件

VR制作の指針
これも、章のタイトルがちょっと違っていて、優れたコンテンツの条件というよりも、VRコンテンツを作るうえで、指針にするべきこと、守るべきことが書かれている。
(1)「それはVRである必要性があるのか」と自問しよう
(2)ユーザーを酔わせてはならない
(3)安全を最優先する

宇野朴人『ねじまき精霊戦記 天鏡のアルデラミン』14(終)

テレビアニメ化もされた*1、ファンタジー戦記ライトノベルシリーズが完結
めちゃくちゃ面白く、ヤバい作品だったと思う。


舞台となるカトヴァーナ帝国は、いまだ繁栄を維持しつつも、貴族による腐敗政治と隣国キオカ共和国の伸長により、衰退を辿っている。
主人公のイクタ・ソロークは、言うなれば、女たらし属性のついたヤン・ウェンリーであり、その天才的な戦略眼により、本人が望むと望まないとに関わらず、若くして軍功を上げ出世していく。
この作品の面白さの1つは、もちろんこの主人公イクタの活躍と、それとは裏腹の飄々とした性格にある。
「全ての英雄は過労で死ぬ」をモットーとするイクタは、いかに怠けるか・楽をできるか、を指針として行動するわけだが、それが後々には、帝国の軍制改革へとつながっていく。
彼のライバルは、共和国のジャン・アルキネスクである。不眠体質の彼は、イクタとは真逆、あらゆることを1人でやり遂げようとするタイプの指揮官であり、そしてそれを実際に成し遂げることができるキレ者である。


ライバル同士の争いが繰り広げられるわけだが、この作品の戦記物としての主眼は必ずしもそこだけにあるわけではない。
むしろ、技術の発達が引き起こす戦場・戦争の変化を描いていく。
物語が始まった当初にもたらされたのは、ライフル銃の登場であった。
さらに、爆砲と呼ばれる新型砲の登場が、昔ながらの城を無効化した結果、最終巻では、第一次世界大戦さながらの塹壕戦の風景が広がることとなった。
いくらなんでも、ほんの数年で、ライフルの登場から塹壕戦までというのは早すぎでは、と思うだろうが、それが何故可能になったのか、というのはこの世界の成り立ちと関わっている。


ところで、『軍靴のバルツァー』というマンガも、ほぼ同時期の軍事技術の発展と戦場の変化を、架空のヨーロッパ風の世界を舞台にして描いている。


戦争の変化だけではない。
この作品は、シリーズの後半においては、いかに帝政・貴族政治を脱して民主化へいたるのか、というプロセスが描かれていくことになるが、カトヴァーナ帝国の場合、下からの民主化ではなく、啓蒙専制君主による上からの民主化プロセスを進むことになる。しかし、上からの民主化とはなんぞや、というところである。
そのための最後の決定打をどうするのかが、最終巻で描かれていくこととなる。


しかし、この作品はそうした戦略・政治といった規模の出来事を描きながらも、それを動かす登場人物たちをめぐる物語や行動の動機は、友情・愛・家族・トラウマなどあくまでも個人的な問題に端を発したものとなっている。

ちょっと過激に最終巻の内容について煽った紹介をする

上述してきた通り、アルデラミンという作品は、ファンタジー戦記物であるわけだが、近世から近代へという流れを描こうとする作品でもある。
ところで、この作品はシリーズの初期(とはいえ、テレビアニメの最終回にあたるエピソードなのだが)において、主人公の1人でもある、帝国の皇女シャミーユは、以下のような構想を抱いている。

第三皇女シャミーユは、皇族と貴族による腐敗政治の蔓延に対して、敗戦による世直しを考えるようになり、イクタであれば、決定的ではあるが国土を荒廃させるほどではない負け戦が可能になると白羽の矢を立てるのである。
宇野朴人『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』1〜11 - logical cypher scape


これに対する、読んだ当時の自分の感想は以下の通り

シャミーユが、敗戦によって国を立て直すという倒錯的な信念を抱くようになったのには、作中で理由というか事情があるのだが、それはそれとして、敗戦後に国が栄えた例として、やはりどうしても思い浮かぶのは日本で、あんまりファンタジーを戯画や寓話として読むのもよくないけど、日本の寓意があったりするのかなあと思ったりもする。モチーフの発想元というか。
宇野朴人『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』1〜11 - logical cypher scape


だが、これは実は大当たりで、シャミーユの考える敗戦構想にはかなり直接的な日本の寓意を読み取れるのである。
というのも、この最終巻で起きた出来事を要約すると「玉音放送で全国民に敗戦を宣言した者が、その責を国民裁判の手によって裁かれ、死刑に処される」というものだからである。
最終巻は、まず帝国と共和国の最後の決戦が描かれる。
帝国本土に攻め込む共和国軍に対して、綱渡りのような防衛戦が繰り広げられるが、最終的に帝国は、辛くも共和国の侵攻を食い止めることに成功する。
しかし、シャミーユの望みは、カトヴァーナという国を建て直すために、国土を荒廃させずに帝政を廃止し旧弊を捨て去ることなのである。
いや、単なる帝政の廃止ではなく、カトヴァンマニニク家そのものの絶ち、民衆が皇帝や貴族に依存しない政治を行うことを望んでいる。
そこで彼女が考えたのはこうだ。
共和国の侵攻を食い止めることで、侵略による国土の荒廃を防ぎつつ、しかし、その決定的瞬間に敗戦を宣言することによって国民を裏切る。戦争の終結時における指導者の裏切りに怒る国民たち自らの手によって、皇帝を処断することで、君主制から民主共和制への転換点となす、というものだ。
これは明らかに、戦後日本の民主化にとって必要だったのは、天皇制の廃止と民衆革命だったのでは、という歴史のifを描く的な構想が見て取れないだろうか。

物語前半

精霊通信と爆砲によって、大きく変化した戦場だが、この作品は、近現代の戦争と近世までの戦争との(物語的な意味で)いいとこどりした戦場を描く
近現代の戦争というのは、大規模化してしまい、一人の英雄によって大きな状況を動かしたりすることが難しい戦争である
一方、物語としては、集団の動きを描くよりも個人の活躍を描く方が、面白い
この作品は、精霊たちによる技術解放によって、一気に新技術が出てきてしまったという事情があって、こうした技術に対応した戦術・戦略を編み出せるのが、一部の天才、つまり主人公であるイクタとジャンしかいなかった、という事情と
精霊通信によって、一人の指揮官が非常に細かいところまでを末端にまで指示できることが可能になった、という設定によって、
近現代的な大規模化した戦争を進行させつつ、その大きな状況を個人がコントロールすることが可能な状況を作り出して、技術による戦場の変化というマクロな歴史的な状況と、個人の活躍というミクロ的な物語の両方を描くことを成立させている。

物語後半

イクタは何故死を選んだのか
この作品は、結構、登場人物の感情とか関係とかを説明しがちなところがあるのだけど、イクタの死を巡っては、珍しくちょっと凝った語りのさせ方をしている。
イクタは、ハロに対して、シャミーユが自分を許し生きていくためには、自分という存在が邪魔になることを理由として述べている。
これはまあ、確かに理屈としては一つ通っている。
しかし、一方で、彼は最後の最後で、シャミーユに対してカウンセリング的なことを行い、さらに愛を告白することで、彼女にかけられていた呪いを、おそらくある程度以上、解いてしまっている。
シャミーユが生かすために、イクタの死が決定的に必要であったのかどうか、疑いを差し挟む余地があるように思える。
さて、イクタはハロに対して、人が自殺する理由として、死にたいという思い、死ななければならない理由、生き続けたいという理由の欠如という3点を挙げている。
これはシャミーユの状況について述べたものだが、ある程度、イクタについても当てはまるのではないだろうか。
そもそも、イクタは自分が置かれた状況を、自分が望んだことでもあるのだ、と述べている。
ただ、ここでイクタが自分の望んだものとして明確に述べるのは、帝国の崩壊である。
一方、彼のおかれている状況は、そもそも彼自身の死である。彼は、自身の死も望んでいるのだが、その明確な理由を述べてはいない。
シャミーユを生かすことが、イクタにとって死ななければならない理由になっているだろうが、それ以外に、彼には生き続けたいという理由の欠如がある。しかし、それをイクタは自分から語らない。
ひいては、他の登場人物も、地の文も含めて、一切、触れられていない。
しかし、読者からすれば、その理由は明白である。
いや、おそらく、登場人物たちの多くも、内心では気付いているのだが、決して口に出すことができないでいる。
つまり、ヤトリの不在である。
結局のところ、イクタと対等な関係を結べたのは、ヤトリただ1人なのであり、イクタは確かにシャミーユを愛したのは間違いないのだが、ヤトリへの愛とはやはり全く別のものだったのもまた確かである。


この作品は、登場人物の死を、必ずしも美しくは描かない。というか、おおよそ、どの死についても、死んでよかったというようには描かない。死とは望まれないものであり、また苦しいものであるということを描き続けてきたように思っている。
対して、イクタの死は、苦痛と無縁に描かれ、死ぬ者自身が死を全く冷静に受け入れ、この死は意味あるものだと民衆に認識させ、死を惜しむ人々に対して無理矢理にでもその死を納得させるように描かれている。
この作品では数多の死が描かれてきたが、イクタの死は、それまでの死の描き方と相反するように思える。
だからこそ、何故イクタは死ななければならなかったのか、と問いかけたくなるし、
マシュやトルウェイが、たった一言、「ヤトリが望むと思うのか」と聞いてくれれば、多少は彼を動揺させることができたのではないだろうか、と思ってしまう。


アルデラミンは、技術的発展が、戦場を近代化させるという変化を描いた作品であり
また、同時に、近代化の流れは、技術面だけでなく、君主制から民主制への移行を余儀なくするものであるとして、それを如何にソフトランディングさせるのか、という問題を描こうとした作品であった。
しかし、そのような問題を解決すべく活躍した者を突き動かしていたモチベーションの根源は、未来の戦争へのヴィジョンでも、民主的な国家への希望でもなく、たった一人の女性との間にあった愛情とパートナーシップだった、というとても個人的な物語でもある。
この2つの側面が、非常にうまい具合に噛み合いつつも、最終的に、その愛の大きさ・重さを何よりも突き付けてくるような物語だった。
イクタにとってのヤトリの存在が、これほどまでに大きいということを、このような形で突き付けてくるとは、と。
この巻でイクタ、そして他の誰もヤトリについてほぼ何も語らないわけだが(わずかな言及はある)、誰からの説得にも応じず、死を何の動揺もなく受け入れる確固たるイクタの意志と計画によって、イクタにとってのヤトリの大きさを思い知らされる。
アルデラミンは、徹頭徹尾、イクタとヤトリの物語だったのだ、と。


ラストは、おそらく遠い未来の話だが、一方で、細部はぼかされ、夢の中のような非現実的な感覚をまとったシーンとなっており、イクタとヤトリの再会はまるで来世を描いているかのようである。
徹頭徹尾2人の物語であったからこそ、いつでもない場所に座る、印象的な2人のシーンで終わるのだろう。

*1:自分はそれきっかけで知った

クリストファー・プリースト『双生児』(古沢嘉通訳)

第二次世界大戦のイギリスを舞台に、数奇な運命をたどった一卵性双生児の物語を描く歴史改変物
原書は2002年、日本語訳は2007年に刊行。その後「ベストSF2007」の海外部門で1位。で、同じ年の国内編1位が『虐殺器官』だったということで、「あー、あの頃に出てたのかー」と
確かあの頃『このSFが読みたい』を読んで、この作品の存在は知っていたはずなんだけど、ようやっと読んだのだった。
クリストファー・プリースト『夢幻諸島から』 - logical cypher scape
クリストファー・プリースト『魔法』 - logical cypher scape
クリストファー・プリースト『限りなき夏』 - logical cypher scape
クリストファー・プリースト『隣接界』 - logical cypher scape
こんな感じで、プリーストはここ5年くらいでちょびちょびと読んでる


『双生児』の原題は、The Separation で色々な意味をかけている
5部構成となっているのだが、上下分冊になった文庫版では、第1部から第4部までが上巻に、第5部が下巻に収録されている。
ジャック・ソウヤーとジョー・ソウヤー(2人ともイニシャルは、J.L.ソウヤー)の双子が主人公だが、第2部と第4部がジャック、第5部がジョーの話となっている。第1部と第3部は1999年を舞台にしたパートで、分量としてはかなり短めになっているので、おおむね、上巻がジャックの話、下巻がジョーの話となっている。


2度、3度と繰り返し読むことによって、面白さがあらわれてくるタイプの作品だとは思うのだが、自分はとりあえず1度通読したのみ
あとは、大森望の文庫版解説を参考に、何か所かチェックして「なるほど」となった次第
プリーストの作品らしく、一つの解釈に定まらないタイプの物語ではあるが、それはそれとして、個々のエピソードはきっちり明確だし、どんな話だったかというのは割合わかりやすくもある。

双生児 上 (ハヤカワ文庫FT)

双生児 上 (ハヤカワ文庫FT)

双生児 下 (ハヤカワ文庫FT)

双生児 下 (ハヤカワ文庫FT)

第1部は、1999年、スチュワート・グラットンという歴史書作家のサイン会に、アンジェラ・チッパートンという女性が訪れるところから始まる。
グラットンが探していた、ソウヤーという第二次大戦中の英空軍パイロットについての情報がもたらされる。彼女は、ソウヤーの娘であり、彼女はソウヤーの回顧録を持ち込んできたのである。
続く第2部は、ジャック・ソウヤーの回顧録
第3部は再びグラットンのパートに戻り、第4部は、かつてソウヤーの部下だったレヴィ退役大佐からの手紙
第5部は、ジョー・ソウヤーの自筆日記、ノートを中心としつつ、様々な著作や手紙などが雑多に引用されている。


さて、第1部、グラットンのパートを読んでいると、その世界が我々の歴史とは異なる歴史を歩んだ世界であることが何となくうかがえる
アメリカの様子が明らかにおかしく、第二次大戦は、少なくとも英独の間の戦争は1941年に終わっているという世界だ
グラットンの興味は、1941年5月10日に人々は何をしていたのか、というところにある。
ところで、第2部では、我々がよく知る歴史と同様に、1945年に第二次大戦が終わったと思われる世界となっている。


ジャック・ソウヤーとジョー・ソウヤーの双子は、大学時代、ボート選手であり、英国代表としてベルリン・オリンピックに出場し、銅メダルを獲得。その際、ナチスのヘスと相まみえている。
一方、ベルリンでは、ソウヤー家の友人の家に滞在していたのだが、彼らはユダヤ人であり、ドイツからの脱出を計画していた。ジョーは、彼らの娘をイギリスへと連れていく計画に協力する。
ジャックとジョーの双子は、この頃から少しずつ考え方があわなくなっていく。
(ジャックは、その娘ビルギットに恋していたが、その計画のことは直前まで知らされていなかった)
2人はボートをやめ、ジャックは軍人となりパイロットの道を進むようになる。
一方のジョーは、ビルギットと結婚。戦争が始まると、自身の平和主義の信条に基づき、良心的兵役拒否者として登録を行い、赤十字社の一員として働くようになる。


さて、ここでネタバレをしてしまうと
この作品は、1941年にジョーがロンドン空襲により死んだ世界線と、ジャックが撃墜されて死んだ世界線とに分かれている。
第2部はおおむね前者、第4部と第5部はおおむね後者に属する。
第1部と第3部は特殊。
ジョーが死んでジャックが生き残った世界線では、イギリスはドイツとの戦争を1941年以降まで継続する。
一方、ジョーが生き残りジャックが死んだ世界線では、イギリスとドイツとが1941年に和平を結ぶ。
最後の最後のオチとしては、後者の世界線は、ジョーが死ぬ間際に見た夢だった、という収束の仕方をしている


ヘスは、戦中にソウヤーと再度会うことになる
ヘスはイギリスとの和平交渉を探っており、イギリスにメーサーシュミットに乗って渡ってくるのだが、撃墜され、捕縛される。
ジャックは、いわばその面通しとして、ヘスと面会する。が、こいつ替え玉なのでは、ということに気付いて、その旨報告書を書く
ところで、この面通しの依頼を、彼はチャーチルから直々になされるのだが、その後、チャーチルの替え玉とも会う。
このあたりの、ヘスやチャーチルの替え玉が何だったのか、あんまりよくわかってないんだけど
そもそも、ソウヤーが双子であるために、チャーチルやヘスが若干だまされてしまった的なところがあったりして、それと対応した何か仕掛けなのかなー、とも思うのだが、いずれにせよ、プリーストの好きな奴である。


ところで、一方の、ジョー世界線では、ジョー赤十字の仕事を通じて、英独和平交渉に関わる仕事に就くことになる。
その会談の場で、ジョーはヘスと再会することとなる。


この二つの世界線では、ビルギットはいずれもジョーと結婚しているのだが、生まれてくる子供の父親が異なる
ジャックを父親として生まれてくるのが、アンジェラで
ジョーを父親として生まれてくるのが、スチュワート
第1部は、実は2つの世界線が何故かよくわからないが、交わってしまった世界となっている


ジャックがドイツへ空爆へ向かう途中、謎のメーサーシュミットに会うのだけど、このあたりも色々と解釈が複数あるように作られている
イギリス側による疑似メーサーシュミットだったのか、ヘスの乗っていた機体だったのか、とか

『Newton2018年10月号』

SCIENCE SENSOR

惑星形成中のガス円盤を観測、という記事があった

「死」とは何か?

ざっと読んだ
ロックイン症候群の話とか、ヒーラ細胞の話とか、死の直前にはちょっと回復期があるとか

AIドクターが命を救う

コラムで、科学論文の多くは再現性がなくて、AIを学習させるのに適してない的なことが書いてあった

もし月がなかったら地球はどうなる?

もし〇〇だったら、というのを色々紹介して、ハビタブル条件について説明しているような記事だった

空間は幻なのか?

ホログラフィー原理の話
以前、『日経サイエンス 2017年1月号 特集:時空と量子もつれ』 - logical cypher scapeホログラフィー原理について読んだことがあるが、その内容を噛みくだいて説明している感じだった
ブラックホールが食べた情報は、体積ではなく表面積に
重力なしで記述できるかも(重力も幻の力?)
AdS/CFT対応がすごい

科学史に輝く「名著」たち

写真が多くてよい
これはやはり、世界を変えた書物展を見に行きたい所存

「2018年のフランケンシュタイン バイオアートにみる芸術と科学と社会のいま」

表参道にあるギャラリーEYE OF GYREで行われているバイオアート展
キュレーターは金沢21世紀美術館の人
まあ、これも展示順にざっと感想等

第1章「蘇生」

  • ティナ・ゴヤンク《Pure Human》

アレキサンダー・マックイーンの皮膚を幹細胞技術で再生してレザージャケットにしたという作品で、ホクロや入れ墨の位置も再現、特許申請書もあわせて展示、という代物なのだけど、まああまりよくわからなかった

ユニコーン

  • ディムット・ストレーブ《Sugababe》

ゴッホの耳を復元したとかいう作品なんだけど、ビデオと写真しかなくて、これもあまりよくわからなかった
DNAで耳って復元できるものなんか??

第2章「人心世」

展示会のタイトルがフランケンシュタインなんだけど、フランケンシュタインの最初と最後は北極っていうところから始まって、人新世の話につなげていくリード文は、まあ面白い
フランケンシュタイン』にもみられる自然に対するロマン主義の凋落と重ね合わせる、と
この章の作品が一番面白かった

  • ロバート・スミッソン《Glue Pour》
  • マーク・ダイオン
  • 本田沙映

鉱物の標本のようなものが並んでいて、横に説明が書いてるんだけど、組成が、マツモトキヨシのビニール袋とかストローとか髪飾りとか書いてあって、環境として「海岸を散歩する母娘」とか「大音量のエレクトロニックミュージック」とか書いてある
コンセプトとして面白い感じはした

  • AKI INOMATA

他の作品は、何というか説明文を見ないと何やっているのかよくわからないし、DNAとか幹細胞とかいってるやつは、どこまでガチでどこまでフェイクなのかさっぱりわからないところがあるんだけど、こちらは本物の生き物を使っている作品で、見てすぐ分かることもあって、インパクトも強く、一番ぞわっとした
福島県相馬市のアサリの貝殻の成長線を魚拓のように紙に写し取っている《LINES――貝の成長線を聴く》
《girl,girl,girl》は、ミノムシにファッションブランドの洋服からほどいた糸を与えて巣を作らせている作品で、映像の出品
で、一番、うわあってなったのが《やどかりに「やど」をわたしてみる》で、ヤドカリに、透明の人工殻を与えて住まわせている奴。その殻の上には、東京やニューヨークのミニチュアがのっかっている
まあ、ヤドカリはそもそも人工物でも背負うけど、透明な模造品を背負っているヤドカリがそのまま見世物になっている作品なので、うわあってなる

第3章「生政治」

マルサス人口論』は、メアリー・シェリーの父親の言説への反証として書かれていて、『フランケンシュタイン』はさらにそれに対する批判としても書かれているらしい

街角に落ちている髪の毛、吸い殻、ガムなどからDNAを採取して、顔を復元するという作品
採取した場所の写真、採取したもの、復元した顔の立体プリントが展示されている
これもまた、なんていうか、マジでそんなことできるの? 感がある

DNA配列らしき文字列を延々プリントし続けているインスタレーション


ところで、全然関係ないどうでもいい話なんだけど、行くとき、原宿ラフォーレのある交差点あたりから行ったんだけど、キズナアイのでかい看板があった
原宿とキズナアイかー

「恐竜ミュージアム in ちば」

千葉県立中央博物館で行われている特別展
大恐竜展などと比較すると非常に小規模ではあるが、展示に工夫がされていて面白く見ることができた
爪だけとか、歯だけとか、頭骨だけとかを並べて比較できるように展示している
また、森本はつえによるマンガがあわせて展示されていて、わかりやすい解説になっている。このマンガ、時折twitterで見かけていたけど、初めてちゃんと読んで面白かったので購入した。


全身骨格としては、マイアサウラ、カマラサウルス、ティラノサウルス


歯だと、トカゲとワニ・恐竜とでは顎からの生え方が違う、というの知らなかった。トカゲは、側生歯、ワニ・恐竜は槽生歯
それから、パキケファロ、アンキロ、ステゴの歯の小ささよ!


前足
テリジノがでかいのは改めて言うまでもなく、アロとティラノの前足を比較してみれたのは面白かった。



白山のタイプ標本がいっぱいきてた




アルゼンチノサウルスの胴椎でかい


エオラプトルの全身骨格とブラキオサウルスの肩甲骨を並べるという、面白い比較もあったり


オルニトスケリダの説明もあったり


千葉は白亜紀の地層があって、恐竜はまだ産出してないけど、アンモナイトはいっぱい出てるみたい


帰りに千葉モノレールにのった
懸垂型モノレールに乗るのたぶん初めて
乗り心地がやっぱ違う