『コードギアス反逆のルルーシュ』

この時期にコードギアスの感想を書くと、今やっているさいちゅうのR2の感想かと思われそうだが、R2はまだ見ていない*1
最初にこんなこと書くのも何だか逃げみたいだが、僕はアニメには詳しくない。詳しくないので、アニメとしてどうのこうのということは、書きようがない。ここでは、わりとベタに作品で描かれている内容に対して書くつもり。
それから、ネタバレしまくりなので、その点もご注意を。


ブリタニア帝国に支配された日本で、主人公のルルーシュは学生生活を送りつつも、その裏で黒の騎士団を率いて、反ブリタニア闘争を行っている。
ルルーシュの親友であるスザクは、日本人ではあるものの、帝国軍人として黒の騎士団と度々相対する。
ルルーシュとスザクは、無二の友人であるのにもかかわらず、お互いに戦わなければならないという関係にある。


さてこの話の設定を見れば、まず一目瞭然なのが、これが第二次大戦後の日本のやり直し、本土決戦によって独立を勝ち得る、架空戦記的な日本を描こうとしているということ。
日本のやり直しということでいえば、かわぐちかいじの『太陽の黙示録』とかもそうだよなと思う。
というわけで、ルルーシュ率いる武装ゲリラが、いかに革命を成功させようとするのか、ということを注視しながら見た。
しかし、そのように考えると、ルルーシュというのは非常に心許ない。革命とか政治とかに疎い感じがする。頭の回転のよさとギアスだけでは、なかなかなんともならんだろうと思うが、それだけではない。
彼が、ブリタニア人ながら、反ブリタニア闘争と日本の独立を目指すのは理由がある。彼はもともと、ブリタニア皇位継承権をもつれっきとした皇子なのだが、母親が何者かに殺され、妹ナナリーと共に日本に隠れ住んでいるのである。
ルルーシュの行動原理は、基本的に全て「ナナリーのため」である。
そして最終話では、その「ナナリーのため」に、最後の戦いの指揮権を全て放棄して戦線離脱してしまう。このために、黒の騎士団は敗北を喫して第一期は終わる。
それじゃあ革命はならないだろ、と思うわけで、やはりそこはナナリーへの想いをぐっとこらえて、最後まで闘い抜いて欲しかったところである。
その直前、ブリタニア帝国の皇女ユーフェミアが、行政特区日本の設立を宣言し、それのオープニングセレモニーが行われる。そこで、ルルーシュのギアスが暴走し、ユーフェミアは集まった日本人を虐殺する。
ルルーシュは、この日本人虐殺を利用して、日本独立革命への世論を喚起させる。この虐殺というのが、革命への契機たりうるのは明らかであり、この虐殺の死者を錦の御旗として最後の戦いは戦われるわけである。
ところが、ルルーシュに関して言えば、「ナナリーのため」ということは全く変わらないのであって、虐殺の死者の為に行われている戦いよりも、ナナリーを助け出すことが優先されるわけである。
僕は、これもまた一種のセカイ系ないしオタクカルチャーの系譜をはっきりと辿っている作品であると思えた。
超越的なもの*2、ここでいうならば「死者」や「ナショナリズム」に自らの動機付けをするのではなく、あくまでも個人的な人間関係によってドライブされる主人公ないし物語、という意味で。
僕の個人的な好みでいうと、そういう物語はむしろ好きであったりするのだが、しかし色々と考えてしまうところでもある。
この話は、あとでもう一度する。


DVDセットで見たわけだが、各巻についているライナーノーツをみると、この世界の歴史が書いてある。
それによれば、限りなくこの現実世界と似た歴史を辿っていることがわかる。
また、ライナーノーツでは、古代と16,17世紀ころの歴史が特に細かく書かれている。
それによれば、ナポレオンがイギリスを攻撃しために、イギリス王室がアメリカ大陸へ移動。そして、ブリタニア帝国が建国されたことになっている。
この手の偽史だと、普通は20世紀の大戦を書き換えることが多いと思うのだが*3、むしろ16,17世紀をフィーチャーして偽史を組み立てているのは面白いなと思った。
ブリタニア帝国は、市民革命を経ていないのである。
果たしていかにして近代化と帝国化を遂げたのか、ということは興味深いところであるが、ライナーノーツにはそこは載っていない。何やら、20世紀にあたる時代の歴史は、重大なネタバレにあたるらしい。
上述したが、コードギアスは、戦後日本のやり直しとして設定がなされている。だが、それだけではなく、そもそも市民革命そのもののやり直しとしても設定されていることが分かる。
何しろルルーシュが建国を宣言するときの国号は、「合衆国日本」なのである。
日本のやり直しであり、なおかつ市民革命のやり直しとして、「合衆国日本」を建国しようとする、というのは実際面白い設定だと思う。
しかし、それらは単なるシミュレーションに過ぎず、言ってみれば単なるアニメに過ぎない。
ブリタニア帝国の意匠は、あまりにもロココ趣味に彩られすぎていることが、非常に気になっていた。
個人的に、モダンデザインが好きだからといってしまえばそれまでだし、またロココ調であるのも、オタク向けアニメであることを考えれば納得がいく話である。
未来的なテクノロジーがある一方で、建築や衣服のデザインは古い時代のまま、というのは、アニメではよくあることである。
とはいえ、戦後日本のやり直しであり、ゲリラ戦による独立革命という設定(つまり、19,20世紀前半的な近代)との齟齬は、なかなか拭えない気もする。
あるいは、メディアの状況にも、違和感を覚える。黒の騎士団は、テロリスト集団である。もしコードギアスが、むしろ対テロ戦争的な状況を踏まえようとしている作品であるならば、それに関しては非常に不満がある。つまり、インターネット的なメディアの発達が全く見られないからだ。あるいは、テロ、セキュリティな観点。
もちろん、上述している通り、この作品が市民革命(つまり、17,18世紀的な近代)のシミュレーションを描こうとしているのであれば、そのような点はそれほど重要な問題ではない。現代における対テロ戦争の問題意識を、作中に取り込む必要性はないし、むしろ取り込もうとすれば逆に混乱するだろう。


しかし、ここで再びルルーシュに目を向けてみれば、話はまた少し変わってくるのではないか。
彼は市民革命の理念に身を投じようとする革命家ではない。
「ナナリーのため」という一点によって自らをドライブさせ、最後には戦いを放棄してしまう。
大澤真幸東浩紀的な時代区分に則れば、
個々人の行動原理として、理念的なもの・超越的なものがなりえた時代は、理念的なもの・超越的なものの虚構化、あるいはそれらに対する疑いを経て、終わりゆく。そして個々人の行動原理としては、時間的にも空間的にも非常にミニマムなものに対してしか見いだされなくなっていく。これが、ポストモダン化であり、動物の時代、あるいはセカイ系の時代だろう。
モダン(市民革命)のやり直しという設定でありながらも、主人公の行動原理はポストモダン的なのである。
ところで、この作品世界には原子爆弾がないことになっているが、最終話においてニーナという天才少女が原子爆弾らしきものを発明している。
この爆弾が、果たして爆発したのか否かは、僕が見た限りではまだ不明である。
だがもし爆発していたのであれば、つまりこの作品世界における東京で核爆発で起こったのであれば、この作品は、単なる市民革命のシミュレーションから、この現実世界と地続きの政治問題を扱うことのできる作品へと変貌しえたのではないだろうか。
もちろん、そのことがこのアニメ作品にとってよいことなのかどうかは別として。


個々人をドライブさせるような行動原理は何か。
まず、近代における市民革命的理念がある。
次いで、ナショナリズムがある。これは、市民革命的理念を受け継ぐものでもあるが、一方で、それを自らのものとして受容できない後発近代化諸国では、文化的シンボルと共に立ち上がる。例えば、天皇などだ。いわゆる、超越的なものといってもいいかもしれない。
理念的なものに殉ずるのが左翼、超越的なものに殉ずるのが右翼、というのは些か単純な図式化かもしれないが。
コードギアスにも、天皇らしきコードをまとった少女が出てくるのだが、これが全く超越性を発揮していない。ルルーシュが、ナナリーではなくこの少女を奉じるようになったら、分かりやすくなって面白い感じはする。
とはいえ、こうした理念や超越というのは、失効してしまって久しい。
その時に残っている感覚として、故郷喪失感があるだろう。
故郷喪失感にしたところで、19世紀から20世紀初頭の感覚であって、まだ古いという感じもするのだが。
この故郷喪失感を埋め合わすために、さらなる全体への志向があり、これは、マルクス主義ファシズムによる計画経済国家に繋がっているだろうし、あるいはシステム論もそうしたものの一種といえるかもしれない。そしてそれは例えば、攻殻機動隊の素子に体現されるだろう。彼女は、電子ネットと一体化してしまう。
理念でも超越でも自らをドライブさせることができなくなって、システムとの一体化を図るというわけである。
だがそれもなかなか難しいとなれば、「まったり生きる」「動物として生きる」あるいは「短期的な自己啓発を繰り返す」そしてあるいは「セカイ系」ということになるのだろう。
そしてその先はどうなるか、というところで、『ソルジェニーツィン試論』『存在論的、郵便的』から『動物化するポストモダン』までの、東浩紀が参照されるのではないだろうか*4。あるいは、佐藤友哉舞城王太郎も、(成功したか失敗したかは別として)それらを探ろうとした作家なのではないだろうか。
この故郷喪失感という言葉は、仲俣暁生を元ネタにしているので、彼があげるポスト・ムラカミの文学を、このリストに加えてもよい*5


これで一周したことになるのか?
今回の文章は大体全体像を思い浮かべてから書き始めたのだが、よもやこんなオチになってしまうとは、自分でも思っていなかった。このオチはちょっとひどいな。
というわけで、話をコードギアスへと戻すと
東京で原爆が爆発すれば、理念的なものはとりあえず吹っ飛ぶ。原爆による死者が超越的なものになりうる可能性もあるが、むしろ故郷喪失的な現代へと繋がるのではないだろうか。
単発的なテロなどは起こるとしても、それらが一つのストリームとはならない。
「ナナリーのために」というルルーシュの感情は、そもそも故郷喪失と繋がっているはずで、それが「合衆国日本」といった理念によって隠されることはなくなる。
もちろん、理念と感情のズレをずっと描くという方向もあるが、その方向で進むのであれば、やはり最後の決戦は、ナナリーのもとには向かわずに最後まで陣頭指揮を行わなければならなかったはず。
むしろ、故郷喪失者が一体どうやって何某かの共同体を作ることができるのか*6、ということの方が、現代的な問題と繋げやすい。
一つには、超古代文明的なスピリチュアルな話にして、全体性と一体化する、攻殻機動隊的な方向と、もう一つには、いわゆる「小さな成熟」という方向がある。
個人的には、そのどちらでもないような方向があれば面白いのになあと思う。これはもう、『コードギアス』以外の作品であっても。


その他、思いつき。
ナナリー、スメラギ、CCは、超越性へのインターフェースとしての少女!
故郷喪失感をそのまま行動原理にしようとすると、否定神学やら否定信仰やらが出てくるのかもしれない。今日は、『コードギアス』を見終わって帰ってから、『動物化する世界の中で』を再読していた。

*1:正確には、第2話までは見た

*2:大きな物語」と呼んでもいいかもしれないが

*3:典型的なのはナチスドイツが勝っていた戦後

*4:つまり、「確率的」「郵便的」「複数の超越性」「超平面的」といった諸概念である

*5:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070321/1174496159

*6:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071206/1196920217http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20071206/1196930333