「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」

何千ページにもおよぶ日記や自伝などの書き物。15000ページを超える、おそらく世界最長の小説。多くが3メートル以上もある数百枚の絵。
(パンフレットより)

とにかく圧倒される。
何にか、何にだろうか。ヘンリー・ダーガーという人が費やした膨大なエネルギーに。いや、あるいはそれだけの仕事・作品(Work)が、誰からも知られずに行われていたということに、か。
何枚かの絵を見たことはあり、彼の独自性みたいなものはある程度知っていたが、それにしても一気にこれだけの量を見せられると、ほとんど言葉を失ってしまう。
何が彼にこれだけの創作を可能にさせたのだろうか。
例えば、多少なりとも小説か何かを書いたことがある人であれば*1、たった一つの作品を何十年にもわたってこれだけ子細に作り続けるということが、どれだけ異様なことであるか、想像できるのではないだろうか。


彼の一生を追いかけるドキュメンタリーと、彼の作品である「非現実の王国で」のアニメーションが交互に、あるいは一体となって進んでいく。
彼の生涯はそれほど明らかになっているわけではない。何しろ、ダーガーと発音するのか、ダージャーと発音するのかも、人によって意見が異なっている。
彼は孤独で、ほとんと人との関わりを持とうとしなかったのだ。
だが、精神障害者であったわけではなさそうだ。彼の日記や自伝が何度も引用されるが、彼の記述は、それなりに自分を客観視できている。
しかし、確かに非常に特殊な一生を送った人間であることも確かだろう。
非現実の王国で」の中には、ヘンリー・ダーガー大尉なる人物が出てくる。
ダーガー自身が神への信仰を疑うとき、それは「非現実の王国で」の物語展開にも影響を与えている。ただし、そのことはダーガー自身も自覚しているようで、そのことも物語の中に書かれているようである*2
ある意味でメタフィクショナルともいえる展開は、だがメタフィクションというよりも、そもそもダーガーと「非現実の王国で」という作品が不可分であるということを示しているのだろう。
彼を知る人物によると、彼はほとんど人と話さないような人だったらしい。
あるいは、職場で何か言われても言い返すことができず、部屋に帰ってから一人で反論するような*3
だが、何度となく引用される自伝や日記にあらわれるダーガーは、むしろ饒舌だ。
彼は、非現実の王国での、犠牲者数や戦費などを事細かに記録した。
あるいは、天候と気温を記録して、如何に天気予報が外れるかということも記録した。
文章だけではない。
新聞記事や広告などから、気に入ったイラストを切り取っては、それを模写したり貼り付けたりしながら、無数の絵を描いた。
誰かに見せるためでもなく、誰かに読ませるためでもなく、ただひたすらに描き、書いた。
彼の人生は、その文字や絵の中にこそあったのではないか、そう思わせるほどに。
人はそんなにまで書き続けることができるのか。
この映画の中で、彼の実人生と「非現実の王国で」が絡まり合い始めてから、一気にその中へと引き込まれていくだろう。
ヘンリー・ダーガーのそのとてつもなさに圧倒されるばかりになるだろう。
ここでは、彼のエネルギーやモチベーションについて、主に書いてきたが、そのクリエイティビティにも圧倒されると思う。こういうイメージはなかなかあるものではない、と思う。


彼の少年期のエピソードなんかを見るに、いわゆるちょっと空気が読めない子だったのではないか、と思われる。
この時のいじめっ子が、「非現実の王国で」の敵方の将軍の名前になっていたりするw
そのためもあってか、精神障害児の施設に送られる。
そこでの体験が、子供奴隷という設定に繋がっているのかな、と思われる。
第一次大戦時に徴収されるが、戦地に赴いたわけではないみたい。
1972年、ダーガーは救貧院に入り、部屋の管理人が彼の部屋の整理に行ったところで、発見される。
非現実の王国で」は、その少し前に完成していた模様。ただし、ハッピーエンドとバッドエンドの2種類がある。
1973年、81歳で亡くなる。


クレジット見たら、ダコタ・ファニングが声の出演しててちょっとびっくり。


久しぶりに、単館系の映画館に行ったような。
予告編がどれも面白そうで気になるんだけど、ほとんどに何らかの指定がついててちょっと笑えた。


追記(080404)
書き忘れていたこと。
ヘンリー・ダーガーの作品が発見され、広く知られるようになったのは、偶然とラッキー*4によるところが大きい。
となると、見つからなかったヘンリー・ダーガーみたいな人はいるかもしれない。
ヘンリー・ダーガーには、確かに独自性というものがある。あのような作品を描けたのは彼しかいないだろう、という。
しかし一方で、もしかしたら、見つかっていないだけで彼みたいな人は実はいるのかもしれないと想像させるような、普遍性(?)もある。
「人はそんなにまで書き続けることができるのか」と僕は上で書いたけれど、ヘンリー・ダーガーの例は、その問いに対して肯定的に答える。
創造行為というものが、現実逃避だとしても、そんなに根本的なものになりうるのか、ということに圧倒されたのかもしれない。
しかもそれは、ある特殊な人間にとってのみではなく、多くのあらゆる人間にとってそうなのかもしれない、という点で。

*1:そういう体験がなくてもいいが

*2:ある日、彼が大切にしていた少女の写真がなくなってしまう。どれだけ神に祈り続け、誓いを立てても、写真は一向に見つからない。彼は神を疑い、作中のダーガー大尉は裏切って敵方につく。「何故写真一枚の行方が戦況に影響を及ぼすのか」

*3:彼は様々な声色を使って独り言をしていたらしい。そのことを知らない人には、本当に複数人で喋っているように聞こえたとか

*4:我々にとってのラッキー。ダーガー自身にとってはむしろ不運かもしれないが