スティーブ・エリクソン『黒い時計の旅』

すげー面白いぞ、これ。
実を言えば、エリクソンという名前を知ったのもわりと最近のことで、これが初めて読んだエリクソンなのだけど。
ジャンルとしては、パラレルワールドものメタフィクションで、設定だけいうと何というか陳腐に聞こえてしまうかもしれない。つまり、ナチスドイツが敗れなかった架空の20世紀が舞台になっていて、ヒトラー専属となったポルノ小説家が主人公になっていて、彼の書く小説の世界がどうもナチスドイツの敗れている実際の20世紀の方なのではないだろうか的な感じになっている。
しかし、実際読めば分かるが、そのような単純な構成にはなっていない。
基本的には、そのポルノ小説家の男が焦点人物となって進行していくのだが、それ以外にも3人くらい主要な焦点人物がいて、後半はあちこちに連れて行かれる。読んでいて、ここは今、どっちの世界なんだーと思うが、もう既にどっちの世界とかは特定できない。
それから、古川日出男の元ネタなのかなあと思った。
20世紀の架空の歴史を描くというだけでなく、その文体が。
古川は、この文体をさらに突き詰めている感じだけれど、何というかその原型みたいな感じがした。
パラレルワールドものと上には書いたけれど、実際にはそういう架空の歴史の面白さが主眼になっているわけではなくて、20世紀とそれが生みだした暴力というものが主眼になっているような気がした。
暴力的なシーンが多いわけではない*1。主人公の「おれ」の暴力の可能性みたいなものがずっとあって、それが彼の復讐心と繋がっていって、しかしそれがいかに不発に終わるのか。
その「おれ」の復讐とそれがどのように不発に終わるのか、というところと、この作品全体の構造というのが*2が絡み合っていって、どっちがどっちか分からなくなっていくところが圧巻。
いやしかし、前半の「おれ」のアメリカ時代からヨーロッパ時代の最初の方も、この時点ではパラレルワールドだったりメタフィクションだったりする雰囲気はほとんどないのだけど、すこぶる面白かったりする。というか、ここらへんの文体が、ちょっと古川っぽいのかなあと思ったりした。
何というか、色々な面白さが混ざっているんだ、きっと。
もしナチスが負けていなかったら、という設定は、ジャンルとしてはSFに属するだろうけど、文章や物語としては全然SFではなくて、むしろハードボイルドというかそういう雰囲気が漂っていたりして。
というか、後半のヒトラーの扱い方とかもすごいいいんだよねー。作中では、ヒトラーって呼ばれ方しないけど。
まとまりのない感想になってしまった。

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

*1:もちろん、ないわけではない

*2:つまりパラレルでメタフィクション

『映画理論講義』

タイトル通り。
映画理論の教科書。良くも悪くも教科書だと思うのだけど、とりあえず映画の教科書を読んでみたいと思っていたので、よかった。
映画の教科書といっても、映画理論の教科書なので、実践的な話ではないけれど。
扱われているのは70年代くらいまで、特にクリスチャン・メッツとジャン・ミトリへの言及が多い。というか、書いた人たちがメッツの次の世代の人たちみたいなポジションらしい。
テーマ別に5章まである。
第一章 視聴覚的表象としての映画
遠近法とかフレームとかショットとかそういう基本的な話。
あと、映画における音というのは、主題として論じられてきたことが少ないので、今後の課題かもみたいな話。
第二章 モンタージュ
アンドレ・バザンとかエイゼンシュテインとか
第三章 映画と物語
この章が一番長かったし、一番面白かった。物語やフィクション、リアリズムと映画について。
ジュネット物語論をベースに展開されるので、映画理論と共に物語論の勉強にもなったw
第四章 映画と言語活動
こちらは記号学、テクスト論と映画。これもまた、記号学とかテクスト論の勉強にもなったw
こういうふうに使うものなのか、という感じで。
作家論とテクスト分析の違いとか。
映画に固有なものというのは、案外と少なくて、映画研究するためには映画だけではない要素がどう絡んでいるかも見なきゃダメだよね、とか、映画の批評書くときって引用が難しいよね、とか
第五章 映画と観客
映画を見ているときの心理学みたいな話。
あと後半は、同一化の話。ここでは、精神分析の話もまとめてある。

映画理論講義―映像の理解と探究のために

映画理論講義―映像の理解と探究のために

今月の文芸誌

群像とすばるのwebサイトに載っている、今月号の目次が見やすくなった。
webに載ってる目次見ながら、このエントリを書いているので、ちょっとありがたいw
今月は当たり前だけど、すばる以外津村記久子の記事があるのだけど、読んでないので読まなかった。
宇野常寛の津村論だけざーっと眺めて、ああそういうこと書いている人なのかーということを確認したくらい。

『群像3月号』

〈対談〉音楽を考えるときに小説のできること 保坂和志×佐々木 敦

これは面白かった。
最近読んだ文芸誌の対談で(ってそんなに読んでないけど)一番面白かったかも。
佐々木敦が、HEADZで一体何をやってきたのかということを前半で話していた。今、出版業界で起こっているような問題というのは、既に音楽業界が通ってきた道で、音楽業界やHEADZのことを聞いたら、今後の出版業界に生かせるかもね、という感じ。
本もCDもそうだけど、作品であると同時に商品でもある。
で、売れない売れないと騒ぎになって、「どうしたら売れるか」と考えるようになった。つまり、商品の面だけが注目されるようになった。音楽はもう完全に「商品」化してしまったけれど、売れないけど続けるみたいな選択肢もあるんじゃないのか、と。
HEADZで数百枚単位でCDをプレスして売っているから、そういう選択肢もありだということを佐々木敦は実地でやっているということなんだと思う。
「もちろんお金は大事だけど」と前置きしつつ、最近は100枚とかでもプレスできるようになったから、従来なら絶対CDにならなかったものもCDにできるようになった、と。
それから、保坂は80年代くらいまで音楽を聴いていたけど、それ以降は聞いていなくて、最近になって佐々木敦の本を読んで音響派を知って面白かった、と。音楽って何でもありな世界になっているんですねーと。
で、佐々木が音響派の説明をする。音楽というのは構築するものだったけど、コンストラクチャではなくてテクスチャ、つまり音色とかに注目するようになったのが音響派だと。マイクを放置して録音するだけ、とか。で、岡田利規とか磯崎憲一郎とかって小説の音響派なんじゃないの、と。
それから、保坂が自分の小説の話やカフカの話をする。どうしてもあるシーンから先に進まなくて、何度も何度も書き直している。そうすると、同じシーンの少しずつ違うのが沢山できる。作品としては全然進んでいないのだけど、それが面白いとか。カフカの『城』は矛盾しているところがあるんだけど、それは一体何でなのか。そういうふうにしか書けなかったのではないか。
佐々木が、完成品だけを作品にするのではなくて、そういう書き直した原稿を沢山集めてそのまま出してもいいですよね、と、全集なんて見たら、断片とか書簡とか入っているわけだから。
何でそんなふうに書いてあるのかを考えるのが大事なんじゃないですか、という結論。

〈世界史〉の哲学〔2〕大澤真幸

キリストが十字架にかけられるシーンを、構造分析して、何故キリストは殺されなければならなかったのかを解く(前編)

純粋理性批判』を噛み砕く〔12〕中島義道

読んだ

文學界3月号』

なんとなく、考える第八回 娯楽性について(二) 東浩紀

批評とか思想とかって、まじめとふまじめの間に境界線を引く行為なんじゃないか。
でも、まじめとかふまじめの境界線って今すごく分かりにくくなっている。
いわゆる「まじめな」人だけが、「まじめな」態度で批評とか思想とか読んでても、それは結局そういう人たちの私的な趣味で終わるだけで、批評とか思想とかの役割を果たしてないんじゃないか。
そうすると、「ふまじめな」人たちを「ふまじめな」まま惹きつけておく魅力が、批評や思想には必要なのではないか。それが娯楽性だ、と。
前回は、diggで芸術・文学・思想が「ライフスタイル」の中に括られていることを問題視したけど、そもそも芸術・文学・思想が「エンターテイメント」の中に入っていない時点で、それは芸術・文学・思想としてやばいだろ、と。
押井守の『立喰師列伝』ってもしかしたら、そういう「ふまじめ」と「まじめ」と繋ぎ合わせたり撹乱させたりする、批評的な作品かもしれないね。自分(東)は、「まじまな」『パト2』の方が好きなんだけど、と。

『すばる3月号』

「その後」の戦争小説論(3) −リービ英雄山田詠美、「9・11」と砂漠 陣野俊史

ざっと眺めただけ。
リービ英雄山田詠美を「マイナー文学(ドゥルーズ)」として読む。

「チャロー! インディア:インド美術の新時代」 保坂健二朗

でかくてきれいな美術館だったので、インドの美術館みたいだった。
《MEMORY》がよかった。
しかし、何故インドだったのか。複雑な社会問題を抱えた国の現代美術というのなら、例えばベルギーでもよかったのではないか。


今、web上で目次を見たら、浅野いにおのインタビューとかやってたみたい。


群像 2009年 03月号 [雑誌]

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文学界 2009年 03月号 [雑誌]

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すばる 2009年 03月号 [雑誌]

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