ヘンリー・ダーガー展

なんで、原宿のファッションビルの最上階でやってんの、とか思いつつ
そんななので、客層の半分くらいがサブカル女子っぽい感じ
ヘンリー・ダーガーというのは、一人誰にも知られずこっそりと作品を書きためており、老人ホームに移った際にアパートの管理人に対して、全部捨ててくれと頼んでいる。
要するに、厨二的・オタク的妄想の産物であって、人に見られたくないものだったのだろうとは想像に難くなく、僕の友人はダーガーの話をするたびに、「もう許してやれよ」とレスしてくるわけだが、それを踏まえると、サブカルオシャレ男女が真剣な眼差しでダーガー作品に見入っている様というのは、羞恥プレイか何かのように思えてくる。
ましてや、彼の部屋の写真を眺め回す様にいたっては、「やめたげてよぉ!」と言わざるを得ない。彼の部屋には、あちこちから拾ってきたであろう少女の写真やイラストが飾ってあるわけで、どう見てもオタ部屋で(ry


しかし、かくいう僕だって、オシャレサブカル男子ではないけれど、まじまじと見入っている点で、ダーガーを「許さない」側の人間であり、実際ダーガー作品はそれだけの魅力に溢れている。
この展覧会では、冒頭にダーガーの生涯について解説した文章が配置され、その後はひたすら彼の『非現実の王国で』の絵が並べられていく。
その冒頭の解説に書いてあったために注目したというのもあるが、実物を見ると、雲がとても印象的であった。
ダーガーは、気候に強い興味があったらしい*1。雲とか岩とかが、確かにリアル。
しかしこのリアルというのも括弧付きであって、というのも、基本的にダーガーはコラージュかトレースで絵を描いていて、ここで描かれている雲もおそらく元々は別の写真かイラストをもとにしている。時々、ディズニーアニメか何かを元にしたであろう、キャラクターの顔の形をした雲などもでてきたりするのである。
さて、基本的にコラージュやトレースなので、同じ顔の少女がずらりと並んだり、画面が平坦な感じがあったりするのだが、それにも関わらず謎の躍動感がでているところがすごい。あと、色彩の豊かさとか。
戦闘シーンにおいて、ヴィヴィアン・ガールズの関節がありえない向きに曲がっていたり。
それから、首つり、首絞め、磔がやたら多い。そうなると、みんな舌出してる同じ表情になるんだけど、あれはダーガー的アヘ顔なんだろうかとか思ってしまったり。舌出してる表情はさすがにトレースやコラージュではないはずで、それをあんなにたくさん描きまくってるというのがなんか。
ダーガーの絵が持ってる迫力は、やはりオタク的なものなんだよな。南北戦争オタクだったらしく、『非現実の王国で』では、軍服とか国旗とかそういうものを細かく設定している。そしてそういう舞台設定なのにもかかわらず、空にロケットのような飛行機が飛んでいたりする(これはコラージュ。かっこよかったんだろうなあ)。
彼がコラージュやトレースによらず描いてる部分では、やたらドット柄が目立つなあという感じもした。国旗とか、あと架空のドラゴンみたいな謎生物とか。


追記
そういえば

あの展示は確かに迷う RT @t_irie: ヘンリー・ダーガー展の最終日に駆け込んだ。たくさんの歯車のあいだを巡るような設計でどこまで見たかわからなくなったけど、ダーガーが同じ紙の表と裏に絵を描いているからああいう展示にならざるをえないのかと途中で気づいた。
http://twitter.com/sakstyle/statuses/69739487353249792

*1:非現実の王国で』を書き終わったあと、自伝を書き始めたらしいが、その大半は架空の竜巻についての記述らしい

『冷たい熱帯魚』

初めての園子温
「人生は痛いんだ−!」
実際にあったバラバラ殺人事件をモデルにしており、R-18指定もついているので、結構スプラッタなシーンも多いけれど、何よりも怖いのは気付いたら訳分からんところまで連れて行かれてるハイテンションさじゃないかという映画。
冒頭、神楽坂恵演じる妙子が、スーパーで冷凍食品を買いあさりその日の夕飯を作っていくシークエンスが、パーカッション主体のBGMと時折挿入される手書きの文字とで、テンポよく進んでいってかっこいいのだが、どこかコミカルな感じもして、それでいて既にどこか不穏な空気を漂わせている。
作中、何度か挿入されるこのパーカッションが、とにかくやばいと思う。
でんでん演じる村田のテンションとあわさって、どこ連れてかれるんだという感じになる。
スプラッタな暴力シーンとか躊躇なく行われる遺体解体とかもおっそろしいのであるが、村田がかなり強烈なキャラで、社本を洗脳・自己啓発していくという過程が本当におっそろしいところかもしれない。


以下、ネタバレ満載のあらすじ
吹越満演じる社本は熱帯魚店を経営しており、娘と若い後妻がいるが、娘と後妻との仲は険悪、後妻との蜜月も既に過ぎ去っている。ある日、娘がスーパーで万引きして店員に呼び出されるが、それを見ていたでんでん演じる村田という男が何故か社本を助けてくれる。彼もまた熱帯魚店を経営しているといい*1、あれよあれよという間に娘を村田のもとで住み込みで働かせることになる。
この村田という男は、ザ・ワンマン社長という感じで異常にテンションが高く、人の脇にすっと入ってきてしまう、一見人当たりのよいおっさんのようにも見えるが、その人当たりのよさも含めて、天然で洗脳術を身につけているような男なのである。優しい言葉をかけたかと思ったら、突然豹変して暴力をふるい、そしてまた何事もなかったかのように話しかけてくる。優しいときも暴力的な時も、常に大声でテンポよく畳みかけてくる。完全に相手の思考力を奪ってくる話し方。
一方の社本というのは、気弱な感じでプラネタリウムが好きなロマンチストで、まあとても村田に逆らえるようなタイプではない。
そして、村田は社本の目の前で一人毒殺。そのまま社本の車を使って遺体を山奥の小屋へと運び、妻とともに瞬く間に解体してしまう。社本は終始怯えっぱなしなのだが、村田に脅されすかされついてきてしまう。それにしても、村田夫妻の手際のよさが半端ない。
その後、社本はなんとか娘を村田のもとから連れだそうとするが、もともと娘からは嫌われてしまっており、また娘は村田のことを気に入っているため、うまくいかない。
殺した男の舎弟が村田のもとにくるというので、社本もアリバイ工作のためにセリフを覚えさせられるのだが、ここらへんも自己啓発セミナーっぽい感じ
渡辺哲演じる弁護士*2と村田は、表向きはうまくやっているように見えるが、実際にはお互い思うところがあるらしい。
弁護士と村田の妻の不倫現場らしきところを目撃して混乱する社本。そこに刑事が近づいてくる。さすがに村田とのことを言うことはできないが、こっそりと刑事から名刺を渡される。
再び、村田に振り回されるように連れ出される社本。向かった先の弁護士の家では、村田の妻が弁護士とその運転手を殺している最中であった。再び遺体運び、手慣れた解体。弁護士のペニスをもてあそぶ村田夫妻。村田は社本に対して、解体の仕方を教えてやるという。
細切れになった肉を川へ捨てにいくと、今回はお前がやれと命令される。
そして、村田から妻や娘との関係についてずばずばと指摘され、さらに社本の妻とやったことをほのめかされる*3。で、殴り合いになるのだが、ここも村田が社本に向かって「俺のことを殴れー」とか言ってて、完全に自己啓発セミナー
さらに村田妻と無理矢理セックスさせられる。のだが、ここで社本がついに覚醒。村田夫妻に反撃し、村田を瀕死の状態へ追いやり、再び山奥の死体解体小屋へ向かう。村田妻に村田へのとどめをささせる。
村田妻が一番頭おかしい人で、今度は一気に社本に傾倒するようになる。
社本は、娘を連れ帰り妻に夕飯を作らせ、二人に家庭内暴力をふるいまくり、妻から結婚生活への後悔の言葉を引き出させる。
刑事に電話を入れ、再び死体解体小屋へ行くと、村田を解体しているまっさいちゅうの村田妻を殺す。
そこに刑事が登場。刑事の車には社本の妻子が同乗。血に染まったワイシャツをまとった社本に駆け寄る社本妻だったが、あっさり刺殺される。最後に残った娘の方に向い、「人生は痛いんだー!」という謎の説教をかますと、首切って自殺。
死んだ社本を眺める娘。「やっと死んだ、このクソオヤジー!」大喜びで父親の遺体を蹴りまくる娘。
完!


ところで、これは実在の殺人事件をもとにしているらしいのだが、ググってみたところ、静岡ではなく埼玉、熱帯魚店ではなくて犬屋で起きた事件らしい。
94年頃に起きていて、当時メディアでも結構騒がれたらしいが、その後オウムが起こるので急速に忘れ去られた事件のようだ。
殺し方(毒殺)や、バラバラにする手法、あるいはバラバラにすることを「ボディを透明にする」と表現していることなどは確かに実際におきた事件そのままのようだが、むろん本作はフィクションであり、結末や人間関係、実際におきた殺人の件数なども含めて、事実とはかなり異なる。
また、映画では妻はかなりいかれた人物として描かれているが、妻の冤罪を主張しているグループもいるみたい。


あと全編にわたって、社本妻(神楽坂恵)がおっぱい要員

冷たい熱帯魚 [Blu-ray]

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*1:なんでこんな田舎に熱帯魚店がいくつもあるのよと思ったがw

*2:と名乗っているが正体は不明。ただのやくざ屋さんにも見えるし、本当に弁護士だとしてもそういうの専門でしょう

*3:かなり最初の方で社本の妻は村田にやられている。このときは、村田は社本の妻と単にやり目で接近したのかなあと思ったのだが、こうなってくると徹底的に社本をコントロールするためだったのかなあとも思えてくる。実際のところは何も考えてなさそうで、それはそれで怖い

『SFマガジン2011年6月号』

パオロ・バチガルピ特集

以前読んだ「第六ポンプ」*1が面白かったので思わず。

「ギャンブラー」

ソーシャルネットワーキングがさらに盛んになっている近未来。ニュース配信サイトはこぞってアクセス数を競い合っている。ラオスでのクーデターを逃れてアメリカにやってきた主人公は、そんな中あまりアクセス数を稼げないような、政府の不始末や環境問題に関する記事を書いている。
同僚のマーティが、とあるラッパーのスキャンダルをすっぱ抜いて、彼の会社のアクセス数は一躍トップに躍り出る。その一方主人公は、上司からもっとアクセス数の稼げる記事(すなわち芸能スキャンダル)をとってこないとクビにすると宣告される(彼のビザの関係で、クビは強制帰国とイコールである)。
そんな中、マーティはとあるインタビュー企画を譲ってくれる。それはラオス出身で、世界的に人気のあるクラープへのインタビューだった。
クラープは主人公から見ると、ラオス人というよりはアメリカ人になりきっていた。だが一方で、ラオスに関するソーシャルネットに参加している一人であることも分かる。彼女は、主人公の置かれている立場を知っており、彼と自分との「デート」をパパラッチさせることで、彼のページのアクセス数を伸ばさせる。
しかし、彼女もまた、彼の書く環境問題には興味を示さない。
彼は、彼女との「スキャンダル記事」ではなく、前から用意していた環境問題の記事に、自分の進退を賭けるのだった。
タイトルのギャンブラーというのは、主人公の父のことを指している。彼の父親はインテリであり、民衆革命に「賭け」たのだが、結果として秘密警察に捕まっていた。
そして最後の主人公の行動もまた、父親と同じような「賭け」であるのだが、こちらはもしかして勝つのではないかというほのかな希望とともに終わっている。

「砂と灰の人々」

未来の鉱山のようなところで警備員として働いている三人の男女が、生きた犬を発見するところから始まる。
この時代の人類は、肉体をいくら傷つけてもすぐに回復し、あるいは腕や脚を取り外すことも可能で、また食事も砂などを食べることによって足りてしまう。おそらく環境破壊がとてつもなく進行していて、普通の動植物はほとんど滅んでいて、人類は自らの肉体の方を改造しまくることで適応したというところ。
なので生きている犬というのは非常に珍しい存在で、最初は一体何なのかもよくわからない状態。
だが、なんとなく3人で飼うようになり、ついにはある程度かわいがるまでになるのだが、最終的には結局飼うのにかかる労力やお金がネックとなって、食べてしまうという話。

インタビューと解説。

『ねじまき少女』が楽しみ。タイを舞台にしたディストピアSFらしい。
環境問題系のネタを多く書いていて、基本的には悲劇的
解説から抜き出すと「バチガルピは甘美な終末を描かない。華々しいシンギュラリティも描かない。バチガルピの作品で描かれるのは緩慢に醜く崩壊しつつある世界のありようと、その世界で生き延びるために境界線を踏み越えるかどうかギリギリの選択を迫られる、普通の人々の姿なのである。」
この読みにくい名前はイタリア系らしいが、名前以外にイタリアには特に繋がりがなく、生粋のアメリカ人のよう。ただ大学で中国語を専攻してアジアに長期間滞在していたらしい。

SF評論賞・優秀賞「玲音の予感」と選考会

最終選考には、『高い城の男』論、『タイムマシン』論、『serial experiments lain』論、『ソラリス』論が残った模様。アニメと映画を論ずるものが最終選考に残ったのは、意外なことに初めてらしい。論文と評論の違いは何か*2、SF評論とは何か*3といったことが議論にあがっていた。


lainはちょっと前に見た気がしていたのだが、それでも1年半くらい経っていて*4、結構内容を忘れていた。
R.D.レインの「超空間」という考えを参照しながら、情報ネットワークと意識のあり方の関係を論じている。lainの独特の演出などの細部に言及しながら論じていくのはいい感じだけど、情報ネットワークの話とかはやっぱりあまり新しさとかを感じるところは少ない。
しかし、この論のメインはそこではなく、玲音が肉体を手に入れたことをキリストの受肉になぞらえ、それが「隣人愛」を見いだしたのだと論じている点である。
マクルーハン的には、情報ネットワークによって手に入るはずだった「隣人愛」的なものは、しかし実際には情報ネットワークの特性が故に手に入らない、ということをlainはしっかり描きつつも、情報ネットワークが生んだ存在である玲音が肉体を手に入れることで「隣人愛」を体現するのだと論じている。
もっとも玲音は最終的には肉体を捨て「遍在」することを選ぶ。これは究極の「隣人愛」の形でもあるが、我々に対しては愛の不可能性を示してもいるのだ。
うーん、まるでまどマギ論を読んでいるような気分にもなるなあw
でもやっぱりlainは、情報生命体が肉体と人格を得てしまうというところにポイントがあると思うので、lainならではの論になっていると思う。

その他

新海誠特集
海老原豊によるディック論


S-Fマガジン 2011年 06月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2011年 06月号 [雑誌]

*1:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20091204/1259922793

*2:『タイムマシン』論は学術論文としては優れているが、評論としてはどうかと言われていた

*3:ソラリス』論はソルコフスキー論としてはいいがSF論としてはどうなのか

*4:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20091103/1257223593