『表象 07』

表象文化論学会の学会誌2013年号

◆巻頭言◆
翻訳の人類学、事始め(岡田温司
◆特集◆アニメーションのマルチ・ユニヴァース
イントロダクション(土居伸彰)
対談『アニメ・マシーン』から考える(トマス・ラマール+石岡良治/門林岳史=司会)
インタビュー「交わらぬはずの視線が交わるとき……」(ユーリー・ノルシュテイン/土居伸彰=聞き手)
アメリカの初期アニメイティッド・カートゥーンの「立体感」(細馬宏通
アニメーションの定義――ノーマン・マクラレンからの手紙(ジョルジュ・シフィアノスによるイントロダクションつき)(土居伸彰=訳)
ロトショップの文脈――コンピュータによるロトスコーピングとアニメーション美学(ポール・ワード/土居伸彰=訳)
ミッキーマウスユートピアヴァルター・ベンヤミン(『ハリウッド・フラットランズ――アニメーション、批評理論、アヴァンギャルド』より)(エスター・レスリー/城丸美香=訳)
ディズニー(抄訳)(セルゲイ・エイゼンシュテイン/今井隆介=訳)
◆投稿論文◆
「動き」の美学――小津安二郎に対するエルンスト・ルビッチの影響(滝浪佑紀)
テクスト、情動、動物性――ジャン・ルノワールとルイ・ジュヴェの演技論をめぐって(角井誠)
象形文字としての身体――マラルメニジンスキーアルトーにおける運動イメージ概念をめぐって(堀切克洋)
〈絵筆を持つ私〉と〈絵画芸術〉の表象――一六世紀イタリアにおけるS・アングィッソーラのセルフ・イメージをめぐって(喜多村明里)
誰が破壊、修復、展示を恐れるのか?――バーネット・ニューマン論争とヴァンダリズム(田口かおり)
◆書評+ブックガイド◆

特集 アニメーションのマルチ・ユニヴァース

土居さんの企画による特集で、土居さんが聞き手のインタビュー1件、土居さん翻訳の記事が2本と事実上の土居さん特集である
(『表象』読むの初めてなのでよく知らないだけで、この雑誌の特集はそういうものなのかもしれないが)
マルチ・ユニヴァースというタイトルは、アニメーションの多様性を目している。

対談『アニメ・マシーン』から考える(トマス・ラマール+石岡良治/門林岳史=司会)

対談なので、いろいろな話題にぽんぽん移りながら話している。なので、内容まとめはパス
シネマティズムとアニメティズム、アニメーション・スタンド、コンポジティング
クローズド・コンポジティング→ディズニー映画
オープン・コンポジティング→宮崎駿作品
フラット・コンポジティング→庵野秀明作品
宮崎駿ガイナックスの違いとして、深さとしての大自然の有無
ジェンダーセクシャリティ、少女文化
ネットでの実況と「バルス」、日常と非日常のオーバーラップ、オタク・コミュニティ
シュタゲ→ループというモチーフ自体はアメリカ映画にもある

インタビュー「交わらぬはずの視線が交わるとき……」(ユーリー・ノルシュテイン/土居伸彰=聞き手)

土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメ論』 - logical cypher scapeを読んでいるので、色々と呼応するところがあった。というか、このインタビューが元になって書かれた部分もあるのだろうな、と。
「個人的」であることについて
文化と資本主義・社会主義、宗教
刹那性
孤独を恐れるな、快適を恐れよ

アメリカの初期アニメイティッド・カートゥーンの「立体感」(細馬宏通

「立体感」→エイゼンシュテイン「立体映画について」→いわゆる3D映画だけではなく、観客との相互作用による「臨場感」
遮蔽による暗転効果
→例)一人称視点でまばたきのように画面が暗くなる、唇が迫ってきて画面が暗くなる、船が画面に近づいていて画面が暗くなる
ディズニー作品に参加したアブ・アイワークスによる、遮蔽による「立体感」
『プレーン・クレイジー』:最初の真っ暗な画面が実は牛の尻、というところから始まる、その後も次々と、黒いものの接近と暗転を繰り替えす
『骸骨の踊り』

ロトショップの文脈――コンピュータによるロトスコーピングとアニメーション美学(ポール・ワード/土居伸彰=訳)

基本的に、ロトショップを用いたロトスコープについて論じるものだが、最初に、ロトショップというソフトウェアが、単にロトスコーピングするだけのソフトではなくて、中割りやレイヤー分割などアニメーションの原理ともかかわる機能を持ち合わせていることが指摘されている。
本題としては、ロトスコープの歴史とともに、その中で、ロトスコープがどのように批判されてきたのか、という典型的な言説を集まている。

興味深いのは、ロトスコープをめぐる言説が、ロトスコープのプロセスに内在する矛盾を明らかにすることだ。ロトスコープはある時はあまりにリアルすぎると、またある時にはリアルさに欠けると非難される。(手抜きだという含意のもと)ズルをしていると思われる一方で、ムダな労力をかけられているとも言われてしまう。
Pp.94-95

ロトショップの可能性として、制作の気軽さによる「民主化」と
リアルとかかわるもの、つまりドキュメンタリーとの親和性の高さが述べられている。
ところで、初期アニメーションの歴史研究者として、この論文でも細馬論文でも、ドナルド・クラフトンという人への言及があった。

ディズニー(抄訳)(セルゲイ・エイゼンシュテイン/今井隆介=訳)

原形質性について論じたものだが、実際は、いくつもの時期に書かれた草稿をまとめたものらしい。さらにここでは、抄訳となっている。
結構色々な話題について書かれている。忘却や解放をもたらすものとしてのディズニーとか、アニメーションとアニミズムとか、滑稽さとはいったい何かとか
1940年9月21日の箇所から、特に原形質性について論じている箇所を抜き出してみる。

『人形のおどり』において、かごの中にいる縞模様の魚はトラに変形させられ、ライオンかヒョウの声で吠える。タコはゾウに変わる。魚は――ロバに。自己からの離脱。学名命名法、形式、習性という、かつて永久に定められた規範からの離脱。ここではそれが明白で、公然と、そしてもちろん、滑稽な形式において行われる。
p.159

際限なく伸びる首や足、鼻が抽象的に相互作用していく例はもっと古くからある。伸びた鼻は、神話的な存在(天狗など)すべてがもつ特性である。さらに私はサーカス場や自分自身のまったくもって不可思議な関心を思い出した。(中略)舞台や寄席の芸人たちが人間にできうる限界内において行ってきたことだ。観客の前で、「ヘビ人間」は、脊椎のないゴムのようにしなやかな生き物となり、なぜかメフィストフェレスのような変装をしていることが多い。(中略)私が若い頃、類似した魅力を「アトラクション性」と名づけたことと、何も変わっていないのだ。
P.160

その能力を、私はここで「原形質性」と呼びたい。なぜならば、絵として描かれた存在は、明確な形式を持ち、特定の輪郭を帯びながらも、原初的な原形質に似たものとなるからだ。いまだ「安定した」形式を有さず、どんな形式を呈することもでき、進化の梯子の横木を飛び越して、どんなそしてあらゆる――すべての――動物の形式へと自らを固定させることのできるものである。
そういったものを見ることはなぜそんなに魅力的なのだろうか?
(中略)
それよりも、こういった絵が、あらゆる形式をとりうる全能性を持つがゆえに避けがたく魅力的なのだということを受け入れる方が易しい。(中略)このような「全能性」(つまり、「なりたいものなら何にでも」なれる能力」を目撃することは、鋭いまでに魅力的である。
pp.160-161


テクスト、情動、動物性――ジャン・ルノワールとルイ・ジュヴェの演技論をめぐって(角井誠)

この論文そのものは読んでいないのだけど、情動についてどのように述べているのか気になったので、アフェクトとエモーションの説明のところだけ見てみた。
Affectを情動と訳しているようだ。

他の身体を触発しそれによって触発される身体の力能としての「アフェクト」と、刺激と反射、行為と反応といった文脈のなかへ投げ込まれ、主体化、人称化された強度としての「エモーション」とが区別される。以下では、そうした情動理論の重要な参照項である乳児心理学者ダニエル・スターンの「生気情動vitality affect」の概念によって、ルノワール、ジュヴェの思考に新たな照明を当ててみることにしたい。
p.198

(生気情動は)あらゆる日常の経験に備わったものとして一般化され(中略)幸福、悲しみ、恐怖、怒り、軽蔑、驚きなどの「離散的な範疇」に分類された「範疇情動categorical affect」とは区別され、それらを通底して流れる、より「日常的」な情動である。それは脳神経学者アントニオ・ダマシオの「背景情動」の概念とも響きあいつつ、より繊細で複雑な情動をとらえることを可能にしてくれる。
pp.198-199

ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』(源河亨訳) - logical cypher scapeでは、emotionを情動、affectを感情、feelingを感じと訳されている。ここでは感情affectが、情動emotionだけでなく、気分mood、動機付けmotivation、心情sentimentなどを含む上位カテゴリとされている。情動emotionは、怒り、悲しみ、喜びなどのことである。
ギルバート・ライル『心の概念』 - logical cypher scapeでは、emotionを情緒、feelingを感情と訳し、情緒emotionの中に、性向・動機、気分、心の乱れ、感情feelingが属するという分類がなされている。

グレッグ・イーガン『ひとりっ子』(一部)

グレッグ・イーガン『シルトの梯子』 - logical cypher scapeを読んだので、読み返してみることにした。
もう読んだの10年くらい前なのか。自分のブログ記事があんまり役に立たないw

ひとりっ子

ひとりっ子

行動原理

妻を強盗に殺された男が復讐を行う話
殺すときに決意が鈍らぬよう、インプラントを買ってきて、命は重くないと感じるように脳を改変する
インプラントによって自由意志は何も変わらないとかそういうことを考える話なのだが、最後に、妻の命についての考え方が変わってしまったというオチがつくのが、ショートショートっぽい

ふたりの距離

これもまた、ショートショートっぽいというか
恋人(パートナー)がどんな気持ちを持っているのか、自分と同じような経験をしているのか、ちょっと独我論っぽい悩みをもっていた主人公が、身体の交換などをして、相手がどのように感じるのかを体験しようとする。
色々試すが、なかなか解決するものではなく、ついには記憶を融合させて、人格をモーフィングさせるようなことをするのだが。
「ひとりきりで永遠を生きたいとはだれも思わない」というのが、冒頭と結末とで意味合いが変わってしまう。

ラク

歴史改変もので、アラン・チューリングC.S.ルイスをモデルにした人物が登場する(ロバートとジャック)。
10年前の読書メモには、オラクルについてほとんど記述がなくて、10年前に自分がどんな感想を抱いたのかが分からない。
訳者あとがきで、チューリングとルイスである旨書かれているし、当時の自分でもチューリングとルイスくらいは気付いたと思うんだけど、あまりピンと来なかったんだろうか
ただ、10年前の自分は多分アンスコムのことは分かってなかった気がする。
タイトルの「オラクル」は、オラクルマシンのこと。
別の世界線*1からやってきたヘレンにより、未来の量子力学(といっても、この時代に知られていた知識からでも導き出すのが可能なもの)について教えられたロバートは、次々に新技術を開発していく。
ロバートが人工的な脳の研究を進めていると知ったジャックは、キリスト教的価値観から彼の研究に脅威を感じ、公開討論会を挑む。
ジャックの方には何故かペンローズ(と思われる人物)がアドバイザーとなって、「機械は思考することができるか」という議題が提起される。ペンローズ(?)の入れ知恵によって、ゲーデル不完全性定理を持ち出して機械の思考不可能性を説くジャック。
悪魔の話を延々されるのではと思っていたロバートは、思いのほか相手のレベルが高いことに、逆に闘志を燃やすのだった。

ひとりっ子

多世界解釈を、自分の生き方にとって非常にシリアスな問題として思い悩む主人公。
暴漢に襲われていた男を助けたことで、自分に自信を持つことができた彼は、気になっていた女の子をデートに誘うことに成功し、そして、時が経ち、彼女と結婚する。
夫婦揃って量子力学の研究者だが、主人公は色々なプロジェクトを任期付で渡り歩く非常勤で、妻の方は大学教員となっている。
2人とも多世界解釈を支持しているが、特に主人公の方は、自分の個人的な生き方にとって重要なものだと考えている。
つまり、多世界解釈が可能だとしたら、あの時、暴漢から男を助けなかった自分もどこかの世界に実在しているからだ。
あの時の選択によって、自分は今、幸せな人生を送ることができる。しかし、あの選択をしなかった自分も多世界のどこかにいるのだとしたら、不幸せな人生を送っている自分もいるのだとしたら、人生における選択とは一体何だというのか。
彼は、シングルトンプロセッサの研究を行うようになっていた。環境からの重なり合いを遮蔽し、分岐しない計算機だ。
一度流産を経験してしまった2人は、その後、AIを搭載したアンドロイドを養子として引き取ることにする。ボディを交換することで乳児から成長していくことができる。その時代、少しずつ広まりはじめていたが、法律上は人権を認められておらず、ロビー活動が行われていた。
2人は、自分たちの子どもとなるAIに、シングルトンを搭載することに決めていた。
多世界に分岐することなく、本当の意味で自分の選択が可能になるように、と。
2人の娘の名前はヘレン。

*1:世界線」という言葉は使ってないが