アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャー短編集1 最後の願い』『ウィッチャー短編集2 運命の剣』(川野靖子・訳)

年末年始は、ウィッチャー短編集をずっと読んでいた。
ウィッチャーは、ビデオゲームやドラマとして人気のファンタジー作品のシリーズで、遅ればせながら自分も去年の終わり頃からドラマを見始めた。
『ウィッチャー』シーズン1 - プリズムの煌めきの向こう側へ
で、今結構ハマっていて、原作小説にも手を出し始めたところ。
ゲースロは結局原作読んでいないんだけど、こっちは何で読むことにしたかというと、本編が全5巻ですでに完結しているというのが大きい。ファンタジーもので、このサイズでちゃんと完結しているの、珍しくない?


外枠の話からすると
元々はポーランドの作品
原作の一番最初の短編が雑誌掲載されたのが1986年なので、実は元をたどると相当古い作品
1994年に長編1作目が刊行され、1999年にいったん完結している(その後、スピンオフは出ているわけだが)。
その後、どういう経緯を辿ったのか正確にはよくわからないが、Wikipediaを見ると、2000年代にポーランドで映画化・ドラマ化・ゲーム化されているので、ポーランド国内で人気の小説だったのかな、と思われる。
2015年に、ゲーム『ウィッチャー3』が出ていて、どうもこれが国際的にヒットしたっぽい(3からプレステやスイッチでも出てる)。
2017年に、Netflixでドラマ化が決定。
現在、シーズン4までが配信中。すでにシーズン5の制作が決定しており、それでドラマ版も完結する予定らしい。
今回読んだ短編集は、作中の時系列的にも実際に書かれた時期的にも最初にあたるらしい(ただし、邦訳が出たのは2021年、22年頃)
ドラマのシーズン1とも対応している作品が複数あり、ドラマの復習という感じで見れたが、実は結構ドラマとの差異もあった。
本記事では、ドラマ版との違いに着目しながら感想を書いていく。


すでにドラマ版の映像を見ているので、その点、風景などは頭に思い浮かべやすかったが、文章自体も結構映像的というか、分かりやすい文章だなと思う。
ゲラルトとイェネファーの関係というか、お互いどう思っているのかとか感情の動きとかは、ドラマより小説の方が断然わかりやすかった。
小説の方が内面が直接書かれやすいから、というのもあるが、物語の展開としても無理がなかったというか、ドラマだとベッドシーンへの突入がわりと唐突だなと思ったところがあったのだが、原作だとそうではなかった。
ドラマ版の改変がすべて悪いとはいわないが、ドラマ版の方がわかりにくいのは確かである(構成上、シーズン1は時系列が3つ同時並行で走るというわかりにくさもあるし)


全体的な話として
ウィッチャーというのは、witch+erで日本語訳すると魔法剣士となるが、ドラマ版だと魔法使っている要素があまりなかった気がする。
原作だと「~の印」というのを頻繁に使っており、確かに魔法要素があるのだ、とわかった。なお、簡易的な魔法らしく、魔法使いのそれとは全然違う、という言及もある。
ウィッチャーは、霊薬を飲んで戦闘モードになるのだけど、そのあたりの描写もわかりやすい(ドラマでも薬飲んで目が変わるので、その点はドラマもわかりやすいが)。
また、ゲラルトは首から狼のメダルを提げているが、これはウィッチャーであることの証であると同時に魔法センサーとなっていて、魔法の気配を感じると震えるようになっている。
あと、これはドラマでも今後描かれていくことになるんだろうなあと思うし、自分が見ている範囲でもすでにドラマ内でも描写はあるのだけれど、この世界は人間以外にも「知的種族」がたくさんいて、しかし彼らは基本的にマイノリティなので、差別・迫害されている状況というのが、よりわかりやすかった。
エルフ、ドワーフ、シルヴァン、ハーフリング、人魚、半魚人、ドップラー(擬態魔・取り替え子)、木の精といった種族がいる(ドラマのシーズン1でもハーフリング、人魚、半魚人以外は既に登場しているが)。
それから、ゲラルトが度々「この世界で何かが終わろうとしている」という旨の発言をしていて、要は、上に上げたような人間以外の種族の時代の終わり、というようなことが想定されているみたい。まあ、これはファンタジーによくある背景設定のような気はする。
あと、世界観は典型的な中世ヨーロッパ風だと思うし、技術レベルについても中世っぽい。銃火器とかもなさそうなんだが、その一方で、変異や遺伝といった言葉が出てくる。まあここらへんの言葉は、必ずしもメンデル遺伝やダーウィン進化などわからなくても成立しそうな感じなのでまあいいとして、ウイルスという言葉が出てきたのには驚いた。これになんかSF的な意味があるのかなんなのかは正直よくわからない。

短編集1

この短編集は6つの短編に加えて、短編と短編の間に挿入されているパート(「理性の声」)がある。

ウィッチャー

これは、ドラマシリーズではシーズン1の3話にもあったストリガ編の話に相当する。
ドラマでは、ストリガの正体が、王とその妹との近親相姦によって生まれた子であるということが最初のうちは隠されていて、ゲラルトが、女魔法使いのトリスと協力しながらその謎を解いていく、というプロットになっていた。
一方、原作では、冒頭にゲラルトが訪れた先の城主がその正体についてはペラペラ喋ってしまう。
王は、呪いを解いてほしいというお触れを出しているが、王に仕えている城主はそれが無理難題であるとわかっていて、事故だったと言い訳して殺してしまってほしい、とウィッチャーに秘密裏に頼んでいる。ただ、王はそのことも知った上で、ゲラルトに呪いを解くことを改めて依頼する。
全体の流れからすると、トリスが原作ではここで登場していない、というのが大きな差異かなと思う(ドラマ版では、トリスとゲラルトの出会いとして描かれるエピソードなので)。
ドラマ版では、宮廷の隠されたスキャンダルを暴くというプロットだったのが、原作ではそのスキャンダル自体は周知の事実となっているので「え?」となるのだが(逆に原作を先に読んでいると「知っとるわ」となるんだろうけど)、そのあたりは、あまり大きな違いではないかな、とも思った。

一粒の真実

ドラマ版ではシーズン2第1話に出てくる話にでてくる、ブルクサという吸血鬼の話
呪いをかけられて、イノシシのような見た目になった男が出てくる。見た目は怪物的だが、人間としての理性を保っており、ゲラルトのことを歓待する。
原作とドラマ版とで、エピソード内容やプロットはほぼ同じ(冒頭でブルクサが襲っている相手がやや異なるが)
しかし、物語全体での時系列上の位置づけなどが大きく違う。
原作では、ゲラルトと呪いをかけられた男は初対面だし、ゲラルトは一人で訪れている。
ドラマ版では、ゲラルトとシリが合流し、ケィア・モルヘンへ向かう途中の話となっており、ゲラルトと呪いをかけられている男とは旧知の仲という設定になっている
それ結構大きな違いじゃん、という感じもするのだが、読んでみると受ける印象はほとんど変わらない。
シリーズ構成の際に、どのエピソードをどこにもっていくかのパズルがなされたんだろうなあ

小さな悪

ドラマ版では、シーズン1の第1話にでてくる、ストレゴボルとレンフリの話に相当する。
ゲラルトは、ウィッチャーという怪物を殺す生業をしているが、ウィッチャーには職業倫理が色々あって、怪物を殺す依頼は受けるが人を殺す依頼は受けない、というのがある。
なお、人は殺さないと言っている時もあるのだが、相手から喧嘩をふっかけられた時とかは殺している。別のエピソードでキャランセに対して、ウィッチャーは暗殺者ではない、と言っているので、殺しの依頼は受けないということだろう(知的種族は殺さないとか、怪物でも害をなさないものは殺さないとかもある)。
で、このエピソードは、ゲラルトが「ブラビケンの殺し屋」と渾名されるきっかけになった話でもある(あ、でも、この「殺し屋」はブッチャーの訳だから、殺しの依頼を受けたかどうかはあんまり関係ないのか)。
おおよその流れ・内容はドラマ版と原作とで同じだが、原作の方が丁寧に描かれていたように思う。というか、「ウィッチャー」や「一粒の真実」と比べて「小さな悪」の方がページ数は長くなっていたと思うのだが、ドラマ化された際の尺は同じくらいだったのでは、と思うので。
ゲラルトとレンフリがベッドインするシーンがあるのだが、正直、ドラマ版だとそこの理由がよく分からなかった。原作読むと、まあレンフリ側の欺瞞作戦のようなものだったんかな、というのがわかった。ドラマも注意深く見ればわかったかもしれないが、後半はやや駆け足だったような気がする。
この話を1話に持ってきた意味もわかるのだが(「悪は悪だ」っていうゲラルトの台詞はかっこいい)、結構わかりにくいよな、とも。
ストレゴボルについても、ドラマ版でもある程度進むと、胡散臭さがはっきりしてくるし、原作だと、ゲラルトがめちゃくちゃ悪し様に言ってて、ストレゴボルが少なくともいい奴ではないということがはっきりわかるのだが、ただ、ドラマは第1話時点なので、視聴者的にはどう評価すればいいのか分からないところがある。
もっとも、ストレゴボルとレンフリ、どっちの言い分を聞いても、何らかの悪に加担せざるをえなくなるっちゅう話だから、ストレゴボルがどういう奴なのか視聴者的にはよくわからない状態で出てくるというのは正しいといえば正しい。ただ、視聴者・読者に対して認知的負荷が高いのはドラマ版の方だな、と思う。
ストレゴボルは極端な例だと思うが、ウィッチャーと魔法使いは基本的には価値観が相容れない存在っぽい(もっともトリスはゲラルトに限らずウィッチャーと親しい感じだったりするし、例外は色々あるんだろうけど)。逆に、魔法を使う、長命、子をなすことができないという点で共通点は多い。
ドラマ版では、キキモラとゲラルトの戦闘シーンがアヴァンにあったが、小説にはこのシーンはなく、ゲラルトがキキモラの死骸をぶらさげて町にやってくるシーンから始まる。
なお、『ウィッチャー』は童話・おとぎ話要素を絡めてくることがあるのだけど、本作は、レンフリ周りのエピソードに白雪姫要素がある。「一粒の真実」は美女と野獣で、〈驚きの法〉もなんか元ネタがあるらしい

値段の問題

ドラマ版でのシーズン1エピソード4に相当する話。
〈驚きの法〉により、ゲラルトとシリの運命が結びつくことになるエピソード
キャランセはやっぱかっこいい女帝キャラだよなあ
娘パヴェッタからすると強権的な母親なんだろうけど、娘パヴェッタの件にしろ孫娘シリの件にしろ、彼女らにたいする愛情故に運命に抗ってみせようとするんだろうし、その一方で、王としての公正さも意識している、と。
ゲラルトとマウスサックが出会う話でもあり、初対面ながらなんかアイコンタクトでマウスサックが色々伝えようとしていたりする。
ドラマ版では、吟遊詩人のヤスキエル=ダンディリオンがでてくるが、原作では出てこない。

世界の果て

ドラマ版でシリーズ1エピソード2に相当するが、これは、ドラマ版と原作とで結構印象が異なる。
シルヴァン族のトルクが困窮するエルフを助けており、そこにゲラルトとヤスキエル=ダンディリオンが関わっていくというところは同じなのだが
ところで、『ウィッチャー』シーズン1 - プリズムの煌めきの向こう側へでは「トルクという種族」と書いてしまったが、種族名はシルヴァンで、トルクは人名だった。
原作では、ゲラルトにデベル(悪魔、シルヴァンのトルクのこと)をどうにかしてほしいという村に、謎の古い本と少女がいるというところが違う。
エルフたちは、ゲラルトからの説得には耳を貸さなかったが、〈野辺の女王〉とか〈永遠なる者〉とかこの少女のことを呼び、この少女の姿を見てこの地を去ることを承諾する。


吟遊詩人の名前が、原作とドラマとで異なることはちょっとググればあちことに書かれているが、一応ここでも補足しておくと、ヤスキエルはポーランド語版(つまり原作)での名前で、ダンディリオンは英訳時の名前。ドラマ版ではポーランド語版の名前をそのまま使っているのに対して、この原作小説の日本語訳版はダンディリオン表記となっている。訳者あとがきなどでは底本が示されていないのだが、翻訳者の略歴では英米文学翻訳家とあるので、英訳からの重訳なのだと思われる。


ところで、ダンディリオンとゲラルトは友人同士なのだが、ドラマ版だとゲラルトは結構ヤスキエルへの態度がつれないのに対して、原作だと結構ダンディリオンのことを友人として大事にしている感じがある。

最後の願い

これはドラマ版のシーズン1エピソード5のジンの話にあたる
ゲラルトとイェネファーとの出会いの話でもある。
ダンディリオンを助けてもらうために魔法使い(イェネファー)のいる町に訪れる。イェネファーに惚れてるエルフとかいる。魔法かけられて、町の有力者を嘲るような行為を無意識にさせられて投獄されたりする。
ジンが願いをきいているのはダンディリオンではなくてゲラルトで、ゲラルトが何かを願う
それは、ゲラルトとイェネファーを運命づけるもの

理性の声

上述したとおり、これは、各短編のあいまあいまに挿入されている
作品世界内の時系列としては「ウィッチャー」の後になる。ストリガとの戦いのあと、ゲラルトがメリテレ寺院に休息のため訪れているという話で、途中、ダンディリオンともここで再会し「世界の果て」や「最後の願い」はダンディリオンの回想であるという体をとっている。
ドラマ版には対応するエピソードなし
メリテレ寺院がある地域の領主や騎士たちは、ウィッチャーを好ましく思っておらず追い出そうとするが、メリテレ寺院の巫女であるネンネケはゲラルトは自分の客だと譲らない。
一方、ネンネケはゲラルトに対して、イオラという少女を通してトランスという何かをしようとする。

短編集2

可能性の限界

ドラマ版シーズン1エピソード6の竜退治の話
これもまあ、大雑把には同じだが、違うところも色々あった気がする
竜退治の名目が違ったような。原作は、王自らが退治に出向いている。
竜の正体とかは同じなので、どちらかを先に見ていると、まあそこは知ってる、となるが。
タイトルになっている「可能性の限界」は、作中では、ドラゴンとはどういう生き物かという話の中に出てくるが、生殖可能性の話をしていて、魔法使いになることで不妊となってしまったイェネファー、ウィッチャーになったことでやはり不妊のゲラルトの2人のことも指している。

ドラゴンは人類の天敵であり、ほかの怪物とは異なるというイェネファーの論
一方、同行する別の魔法使いは、ドラゴンが人類の天敵であることには同意しつつ、だから人類は滅ぶべし、という持論
ウィッチャーは怪物は倒すけどドラゴンには手を出さない
一方、ドラゴンを狩ることを生業にしている人たちもいる。彼らはウィッチャーと棲み分けしているので、ゲラルトが同行することについては賛否両論ある。
あと、ドラゴン狩りも、武力で倒す派と毒餌で殺す派がいて、前者が、毒餌で殺す方法が一般化したらたまらん、と思っていたりする。

二つの乳首のバラッドは笑う

氷のかけら

ゲラルト、イェネファー、イストレドの三角関係話。
自分で見てる範囲では、ドラマ版に対応した話なし(シーズン2エピソード4で、ゲラルトとイストレドが初対面っぽかったので、おそらくドラマ版ではこのエピソードはなかったことになっていると思われる)。
イストレドが遺跡発掘に従事しているという部分については、ドラマ版でも出てくる。
ドラマ版を見ていると、イストレドはイェネファーの最初の男なわけだけど、原作で読むとポッと出の男にも見えてしまう(長い付き合いであることの説明はあるがここまでその描写があったわけではないので)。
イェネファーを巡り、俺はこんな愛称で呼んでるぞ、俺は昨日寝たぞ、とかそういうイキりあいをしてヒートアップしていき、決闘を申し込むところまでいく。二人の普段とはだいぶ違う面が見れる話になっている。
結局、決闘のことに気づいたイェネファーが、どちらも選べないわ的なメッセージを残して去ってしまい、意気消沈して自殺しようとするイストレドをゲラルトが止める。
タイトルの「氷のかけら」は、童話「雪の女王」から。

永遠の炎

これはかなりコミカルな雰囲気で描かれていて、殺し合いとかはないんだけれども、この作品世界におけるマイノリティのあり方についてを示す作品にもなっている。
ゲラルトがノヴィグラドに訪れる。ここは都会でウィッチャーの仕事はないんだけど、服を新調しに来た、と。で、ダンディリオンと再会し、さらに、ハーフリングの商人とも出会う。
このハーフリングの商人がトラブルに巻き込まれているんだけど、それが擬態魔(ゲラルトは擬態魔と呼ぶけど、種族の自称としてはドップラー)によるものだとわかる
ハーフリングやドワーフも人間とは異なる種族で、ちょっと人間からは下に見られているところもあるけれど、人間社会と共存して(あるいは同化して)いっている(エルフとは異なる生き方をしている)。
ドップラーは、そもそも本当にそんな奴が存在するの?ってレベルでしか認知されていないのだが、実はかなり強かに人間社会の中に溶け込んでいたのだ、という話になっている。
ドップラーは、化けた相手の何もかもをコピーできるのだが、商才については、ハーフリングの商人よりもさらに上、という感じだった。先物取引で勝ちまくる。
ノヴィグラドで強権的に振る舞う宗教警察長官みたいな人が、実はあるときからドップラーに入れ替わっていた、というオチが痛快な作品
タイトルの「永遠の炎」というのは、ノヴィグラドで信仰されいている宗教が祀っている炎のこと
この話もドラマ版に対応した話はないが、ドップラーはシーズン1に登場している。ただ、性格や雰囲気などはまるで違う

小さな犠牲

やはりドラマにはない作品
海辺の町にやってきたゲラルトは、なんと大公と人魚との間の通訳をやらされている。
二人は種族の違いを超えて愛し合っているのだが、大公は人魚に対して尾鰭を捨てて人間になってほしいと思っているし、人魚は大公に対して脚を捨てて人魚になってほしいと思っている。人魚はこのことを愛のために小さな犠牲を払うのは当然、と言い放つ。
まあ、この話し合いは決裂してしまい、ゲラルトは大公から報酬をもらい損ねる
同行していたダンディリオンが、結婚披露宴の出演依頼を受けるのだが、その宴会にはもともと別の吟遊詩人が招待されており、ダンディリオンはサブ扱いに憤懣やるかたないが、もう二人の路銀は尽きており受けることになる。
で、その別の吟遊詩人エシは、実はダンディリオンの知り合い。互いに相手のことをかなり痛烈に論評するのだが、ダンディリオン曰く、妹のような存在ということで、かなり親しい間柄でもあるよう。
で、エシはゲラルトに一目惚れし、ゲラルトもエシを意識するようになる。
ところで、先ほどの大公から再びゲラルトに依頼がある。真珠をとりにいった船が何者かに襲撃されたのだ、と。
ゲラルトとダンディリオンは現場へと向かう。
海辺の出身であるエシが、潮の満ち引きについて教えるというアシスト。
現場では、干潮になると階段のような海底地形があらわれ、潮が満ち始めるとそこから半魚人が現れる。水中ではさすがのゲラルトにも分が悪く、そもそも怪物ではなく知的種族だということで、ゲラルトはこの依頼にも応えることはできずに終わる。
ゲラルト的には、あそこには手を出さない方がいいと大公に伝えるのだが、大公の方は、必ず征服してみせるとすごむ。
ところで、エシから、海のほうが怪物が多いはずなのにウィッチャーが海の怪物に詳しくないのはなぜ、と聞かれて、人類の進出は陸からだったからだと答えている。
この話の本題は、ゲラルトが、エシを意識しつつも、やっぱりイェネファーのことを思い続けているところで、エシから好意を向けられることに困惑し、イェネファーもこんな風に思ってたのかーとなったりする。
で、業を煮やしたダンディリオンが、とっととお前らちゃんと話し合って一発やれや、みたいなことを言い放ち、二人は互いに話しあう。やることはやったっぽいが、エシは納得してゲラルトと別れる。

運命の剣

木の精の森であるブロキロンで、ゲラルトとシリが邂逅する話
この話の、シリがブロキロンに迷い込み、ブロキロンの水を口にするも、それによる洗脳効果は生じず、森から出してもらえるという展開自体は、ドラマ版にもある。しかし、時系列が全く異なる。
原作では、シリが政略結婚のため他の国へ行くが、結婚相手の顔を見て逃げ出し、その過程でブロキロンに迷い込んでいる。シリを追ってきた衛兵たちもまた迷い込んでしまう。
ドラマ版は、シントラ王国陥落後、追っ手から逃げるシリがエルフの少年とともにブロキロンに迷い込んでしまう。
ドラマ版では、ブロキロンの人々がどういう存在なのか微妙によくわからないままだった。
木の精は森とともに生きる種族で、女性しかいない。人間の男から精を奪って生殖するか、人間の少女を洗脳して木の精にする(人間たちは、木の精がさらっていくという言い伝えにしているが、実際は、障害や病弱な少女が人減らしのために捨てられていくっぽい)。
滅びの瀬戸際にさらされている。
なお、ブロキロンの森以外にも木の精がいる森はあるらしく、人間との平和協定が結ばれているところもあるようだが、ブロキロンは人間との徹底抗戦を掲げている。
ブロキロンの長があいつら領土を侵害しているというと、ゲラルトがどこそことどこそことどこそこだろ、と返す。今あげた場所は全部ブロキロンだとの反論に対して、もう100年も前のことだろと返す。まあ、そういう、先住民族と植民者の関係という感じ。
ドラマ版では、シリってシントラ陥落までほとんどゲラルトのことも自分が運命の子であることも知らなかったような気がするので、これを読んで、「え、それ以前に会ったことあったの?!」と驚いた。
この時点ではゲラルトはシリを引き取る気がない。シリからは私を連れて行ってと頼まれるがゲラルトは拒む

それ以上のもの

これはおおよそ、ドラマ版でのシーズン1エピソード8(最終話)に相当。7話にいってる部分もちょっとあるかも。
ゲラルトが、馬車がはまって立ち往生している商人を助ける。夜が近くなっていて、怪物がわらわら出てくる。倒すことは倒すんだけど、太もも噛まれて重傷。商人は、命の恩人であるゲラルトを運び出すが、その際、ゲラルトは霊薬とともに幻覚剤も飲む。
というわけで、この話は、怪我でうなされるゲラルトが見た夢と現実を交互に行き来することになるが、この構成はドラマ版と同じ。
この夢の中で、ゲラルトがかつて、約束の6年後にシントラに行っていたことがわかる。
キャランセはゲラルトに対して、あの子供たちの中に運命の子がいるから自分で選んで連れて行くように言う。
キャランセは、ウィッチャーの草の試練について調べたという。ウィッチャーとして育てられた子がみなウィッチャーになれるわけではない。淘汰されていく。ならば、連れて行く時点で誰かをランダムに選ぶんでも同じだろう、と。
キャランセは運命に抗うために色々とあーだこーだ理屈を考えていたんだなあ、と。
ドラマ版では、偽のシリを仕立て上げていたが。
ゲラルトは、自分は運命の子を連れて行くつもりはなく、ただ顔を見たかっただけということと、あの中に運命の子はいないだろうということを言う。あと、この時点でゲラルトは運命の子のことを男の子だと思い込んでいる。そのためわかっていないが、シリ本人を見てはいる。
ところで、「運命の剣」や本作を読んでようやく分かったのだが、ウィッチャーは変異によって自分の子を作れなくなっているので、運命の子をもらうことによって後継者にしている、と。ウィッチャーはどんどん数が減っている、とも言われているし。なので、ゲラルトが〈驚きの法〉で運命の子をもらうことになった時、イコールでその子はウィッチャーになるもの、と周囲には思われたということなのだなあ、と。
そうすると、シリがケィア・モルヘンに行ってウィッチャーの修行し始めたのも自然と理解可能になる。ドラマ版では、あくまでも自分の身を守れるようにするため、という理由だったが。
ゲラルトはキャランセに対して、子どもを連れて行くには運命だけは足りない、それ以上のことが必要なのだ、と述べていて、これが作品タイトルの意味。
ゲラルトが見た夢にはもう一つあって、それが母親の夢
母親が魔法使いであることがわかる。女魔法使いは基本的に魔法の力と引き換えに子どもを生めない体になるのだが、ゲラルト母は違ったらしい、と
また、現実においても、ゲラルトの太ももの怪我を治すために現れて、ゲラルトは母親と再会を果たすことになる。決して感動の再会ではなく、特に母の方が一線を引いたまま去って行く。
ところでゲラルトは商人に対しても〈驚きの法〉を報酬に代えることを述べている。商人は、うちには大きくなった子供しかいない。もう新しく子供生まれることもないよ、というのだが、帰宅すると、商人の妻が戦災難民になっていたシリを養子にしようとしていた。
で、ゲラルトとシリは再会し、ゲラルトはシリが運命以上のものだと捉えて連れて行くことにする。
ドラマ版も助けてくれた男の家に行ってみると、その家に引き取られていたシリと出会うという展開だけど、そこにもう一度〈驚きの法〉が絡むということはなかった。シリの「イェネファーって誰」もドラマ番のみ。原作は結構シリが、会えるって信じてた!みたいなテンションだったかと。


これは原作でもドラマでも何度も示されていることだけど、ウィッチャーは感情がないといわれておりゲラルトも度々そのように自らのことを説明するが、しかし、端から見ていると、感情ないってことはないよね、と。
あんまり感情的にならない、という意味合いで感情がない、とはいえるかもしれないが、文字通りの意味で感情がないわけではなさそう。ただ、世間一般やあるいはウィッチャーたちの自認としては、どうも文字通りの意味でそう主張しているっぽい。
で、まあ、ゲラルトがイェネファーのこと好き好き大好きなのはわかりやすいとして、ゲラルトがシリを「それ以上のもの」として受け入れていく過程とか、あるいは母に対する愛憎入り交じった感情とか、そのあたりの機微については、そりゃあゲラルトも人間ですから明らかにそういう複雑な感情を抱いているものとして描かれてはいるが、ウィッチャーは感情がないことになっているので、明確に言語化はしない。
そういうところにも、この作品の面白さがあるように思う。