紛争が終わったあと、和解はどのように行われる/行われた/行われなかったのかが書いてある本。
バーニングさんの書評きっかけで読んだ。
紛争地の歩き方 ――現場で考える和解への道 バーニングさんの感想 - 読書メーター
筆者は、紛争解決学を専門とする研究者(早稲田の教授)で、紛争解決の実務家でもある、とのこと。
本書で取り上げられているのは、カンボジア、南アフリカ、インドネシア、アチェ、東ティモール、スリランカ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、キプロス、ミャンマーで、いずれも、筆者自身が訪れた時の体験を交えて書かれている。
全ての章について、「和解の背景」「和解の旅」「和解の景色」の3節構成になっており、「背景」では文字通り、紛争から和解までの経緯が説明されていて、「旅」「景色」については、筆者が実際に現地を訪れた際の経験談やインタビューを交えて書かれている。
その点では読みやすく、また、教科書的にキーワードだけ知ってるような感じだったのが、現地ではどうなのかという具体的な事柄を知るきっかけになった。
一方で、これは筆者の書き手としての誠実さの現れでもあると思うが、逆に、分からなさ・読みにくさもある。例えば、筆者自身が何度か、あくまでも自分が見聞きした範囲のことでしかないという注釈をしており、一般化を避けようとしているところがある。
また、どうすればいいのかという点について、筆者なりの考えはうっすらと察せられるものの、しかし、断言することをかなり避けている。
これはもちろん、有り体に言ってしまえば、現実は複雑であり、そう簡単にわかるものではない、ということではあるのだろう。
この本はまた、ある種の旅行記としても書かれており、紛争地旅行のエピソードであったり、あるいは紛争地を旅行してみたい人へのtipsみたいなことも書かれているわけだが、事前にイメージを膨らませておくことが大事、ということで、本や映画の紹介もされていたりする。
加えて、最近では事前にストリートビューで見ておく、ということもしているようだ(まあ、普通の旅行でもするだろうし、そりゃ当然か、という話でもあるが)
第1章 カンボジア―和解の旅の起点
第2章 南アフリカ―和解を考える旅
第3章 インドネシア―民主化という名の和解
第4章 アチェ―和解に優先する復興
第5章 東ティモール―和解の二局面
第6章 スリランカ―多数派勝利後の和解
第7章 ボスニア・ヘルツェゴビナ―民族という火種は消せるのか
第8章 キプロス―分断から和解は生まれるか
第9章 ミャンマー―軍事政権との和解
終章 現場で考える和解への道
第1章 カンボジア―和解の旅の起点
筆者が初めて訪れた紛争地で、この仕事をしようと決めたきっかけになったのがカンボジアとのこと。
カンボジアというと、日本のPKO初参加が有名だが、殉職者が出ていたの知らなかった。警察がPKOに行っていたのをまず知らなかった。警察1名と国連ボランティア1名が亡くなっている。
選挙監視員として行ったとのこと。
これ、誰でも(というと語弊があるかもしれないが)できるらしい。基本的に、見てるだけの仕事であって、何か不正があった場合は報告するが、監視員自身で何かする権限はない。ただそれでも、見てるというのが不正への抑止力になる、と。
各国から派遣されてくる監視員は、その選挙の時だけくるので、現地の事情は何も知らない。当然、現地にも選挙管理の仕事をしている人たちがいて、そちらの方が現地の事情はよく分かっているが、逆に言えば、面が割れているという問題もあって、一時的にやってくる国際監視員とタッグをくむ意味があるようだ。
応報的正義と修復的正義
前者は、罪に対して処罰を与えるという正義・司法のこと
後者は、処罰よりもコミュニティの修復を重視する正義・司法のこと。加害者が再びコミュニティの一員になれることを重視する。
本書では、修復的正義の試みや、あるいはこの2つの正義の調停といった事例をいくつも見ていくことになる。
元兵士はだれと和解すればいいのか
記憶の継承は必要なのか
ポルポト派の虐殺は、教育現場などで教えられておらず、こうした記憶はカンボジア国内で必ずしも継承されていない。
筆者は、沖縄で戦争の記憶を継承する事業もやっていた、という立場の人間で、カンボジアの戦争博物館とかも見ているのだが、では、カンボジアの平和を維持するにおいて、そういう記憶を継承することが本当に必要なのか、という視点も持っている。
第2章 南アフリカ―和解を考える旅
アパルトヘイト政策をやめ、白人と黒人との間の和解が成功したと言われる南アフリカだが、実際はどうなのか。和解が成立するとはどういうことなのか。
真実・和解委員会
これはまさに修復的正義を実践するための場で、アフリカの伝統的な価値観「ウブントゥ」も踏まえている。
ただ、南アフリカはアパルトヘイト政策をやめたわけだが、秩序を維持するためには、それまでの軍事・治安組織が必要だし、経済発展するためには、白人資本も必要。
経済のためにある種の妥協をしている、ともいえる。
ジンバブエとの対比
ジンバブエも当初は南アと同じ路線だったが、途中で路線変更して、白人資本を接収して黒人に再分配する政策をとるが、見事に経済破綻してしまう。
南アの問題は、白人と黒人の対立として語られがちだが、南アには黒人以外の有色人種マイノリティがいて、こうした存在は(南アに限らないが)見えなくなりがち。
白人と黒人との住み分け
実際に南アに行ってみると、白人の居住エリアと黒人の居住エリアは今も分かれたままである。白人の居住エリアに行くと、黒人には会わない。あるいはそこで労働者として働いている黒人にしか会わない。そこに白人と黒人の交流はない。
これが本当に和解なのか、という疑問は残るが、一方で、南アの平穏は保たれているわけで、この状況が即座に悪いものだとも言いがたい、と。
Uberタクシーがよい、という話
予約する時に行き先も指定するので金額がはっきりするのがよい。また、指定した場所に迎えに来てくれるので、タクシー待ちをしなくていい。治安の悪い地域だと、タクシー待っている時が危ない、と。
第3章 インドネシア―民主化という名の和解
インドネシアにおける和解というのは、開発独裁が民主化されたことを指す。
ある種、国民の中の利益の分配の話
開発独裁による利益が国民にうまく行き渡らなくなってきた不満が、民主化へつながった
民主化にあたって、独裁者が勝つか民衆が勝つかは、軍部がどっちにつくかにかかっていることが多く、民主化して体制が変わっても、軍部の上層部は変わっていなかったりする。
つづく4章と5章は、インドネアシア国内のアチェと東ティモールが取り上げられる。
どちらも独立運動があり、後者は独立し、前者は独立を諦めた地域
第4章 アチェ―和解に優先する復興
アチェは、イスラム法(シャリーア)が適用されるため、アチェの独立はイスラム復興運動の一種と勘違いされるが、実は宗教対立ではない。
化石資源の分配の問題。
開発独裁において、アチェで産出する資源の利益がアチェに分配されてこなかったことへの不満が独立運動につながる。
非イスラムにはシャリーアは適用されないが、独裁政権下では、シャリーアの方が公平な場合もあって、非イスラムでもシャリーアの裁判を望むケースがあった、とか。
日本はODAを通じてアチェと関係をもっていたが、開発独裁側の立場であった。
平和交渉を仲介しようと試みたこともあったが、インドネシア政府寄りだったので、失敗している。
関係者を箱根温泉に招くという、温泉平和外交をやろうとしていたらしい……
アチェの和平への動きが加速するのは、スマトラ地震がきっかけで、フィンランドの実業家とフィンランド大統領が交渉を仲介した。
アチェが独立をあきらめた理由
まず、石油資源の枯渇が明らかになりはじめて、独立運動のそもそもの動機が薄れた。
また、インドネシアでは地方政党が認められていないが、これはインドネシア側が譲歩して、アチェの独立運動については地方政党化が認められた。
そして、スマトラ沖地震が起きたことで、復興特需が起きた。
世界から復興のためのお金がきて、これを受けるにはインドネシア国内にとどまっている方がよかった。
元ゲリラ兵→復興特需の恩恵を受けている状態。ただ、支援担当者は、ほんとは社会復帰のためのプログラムとかあるのだけど、補助金申請だけで手一杯でそちらが全然出来ていない、と。
ゲリラ側につかなかった人などは、逆に「裏切者」とされ日陰者とされているケースも、筆者はインタビューの中で聞いている。
地元の有力者(旧体制派)に話を聞くと、自分たちはすでにいい目を見てきたからいいんだ、とわりと物わかりのいいことを言っているようだ(ただ、この後、選挙の話になるのだが、ちゃっかり立候補してたりもする、という)
選挙
選挙は一般に不安定化要因(紛争解決直後に選挙をすると、対立が再燃する)らしい。
先述したとおり、独立運動は政党化したが、彼らは元ゲリラなので、実務能力や選挙活動するノウハウを持っていない。
これに対して、旧体制派でもある地元有力者は、子息を海外留学とかさせていて、そこらへんの能力をしっかり持っている。
アチェ議会の中で、独立運動の党は多数派にはなれていない。
独立運動のかつてのリーダーが、旧エリートと組んで選挙にでて勝っている。新旧エリートが結束する
アチェへどのように入ったか。
いったん、インドネシアの別の空港で入国し、国内線でアチェ入りする方が、審査が緩くて入りやすい、というtips
第5章 東ティモール―和解の二局面
東ティモールは紛争の果てに独立を勝ち得たわけだが、その後の和解においては、政府間の和解と住民同士の和解の二局面があった、と。
特別法廷
受容・真実・和解委員会
南アで行われた真実・和解委員会を参考に、東ティモールでも同様の試みがあった。
2006年に政治危機がある。「嘆願兵」と呼ばれた人たちが叛乱を起こしかけた。
東ティモールはさらに東側と西側があって、東側は独立派のゲリラが多く、西側はそうではなかった。紛争解決後、国連が新たに兵士を採用する際、西側出身者をとりがちだった(元ゲリラとそうでない人だと、後者の方が学歴があるので)。が、結局、独立派が主流派になると、そうした人たちの待遇は悪くなる→「嘆願兵」
政府は、彼らに多めの退職金を支払うことで解決した。
「平和を金で買った」と誹られたりもしたらしいが、筆者はこの解決を評価しているっぽい。
受容・真実・和解委員会は、早急に加害者を免責してしまっているようにも見える。
筆者が実際の被害者の話を聞いた際に感じたのは、許しよりも諦めの感情だったよう。
コミュニティ内の対話WS
気をつけなければならない点として、併合派と独立派の対立は、それ以前からの対立を反映していること。
昔から家系同士の対立があり、それが支配者(旧宗主国のポルトガルだったりインドネシア政府だったり)が変わる際に、どっちがどっちにつくかで「勝ち組」と「負け組」に分かれてきた。そこまで踏み込まないと、現地の人々の対立関係は理解できないし、解決もできない、と。
言語教育面でも問題が起きている。
旧世代のエリートは、ポルトガル語教育を受けてきた。独立紛争時、そうした層は東ティモールを離れていた。インドネシア時代は、ポルトガル語教育は行われず、インドネシア語教育のみだった。
独立後、旧エリート層が戻ってきて、ポルトガル語化を推し進めるが、若い世代には分からない、という、エリート層の世代間断絶が生じている、とも。
高台から眺めよ
これはコラム記事で、直接東ティモールは関係ないが、目的地に到着したら、まず高台にのぼって、地理を把握しようという話。
で、ゴラン高原にいった話になって、ゴラン高原からイスラエル見るとがっつりイスラエルが見えるらしい。
第6章 スリランカ―多数派勝利後の和解
スリランカは、多数派のシンハラ人(仏教徒)と少数派のタミル人(イスラム)との対立で、2009年、スリランカ政府がタミルの虎を壊滅させて、多数派勝利の形で内戦が終結した。
インドの仲介、ノルウェーや日本の和平交渉があったがいずれも失敗している。なお、日本からは明石康が特使として交渉にあたっていたらしい。
最終的にスリランカ政府が勝利したのは、中国の支援によるところが大きかったらしい。
スマトラ島地震で、スリランカも津波被害にあうが、アチェとは違い、タミルの虎の過激化・テロ組織化が激しく、アチェのように和解することはできなかった。
タミルの声
スリランカでは、和解は推進されていない。復興が優先だとされている。
タミル系避難民の生活も人によってバラバラ。国軍に土地が接収されて追い出されている。テント暮らしをしている人たちもいれば、インド政府が作った立派な避難民施設に住んでいる人たちもいる
タミルの虎の幹部と兵士へのインタビュー
タミルの虎のリーダーは、最後「人間の盾」をとった上で死亡している。
元兵士たちは、更生施設にいれられ再教育を受けた。その際に人権侵害があったともいわれているが、本人たちは多くを語ろうとしない。
現代の紛争は和平交渉によって終結することが多く、紛争解決学では、一方の勝利による紛争終結を「スリランカ式解決法」と呼ぶほど
このような解決法への評価は意見が分かれるところだろう。筆者は、平和をもたらした点でこの解決法に対して一定の評価をしているようである。
この文脈でウクライナ戦争への言及もある。
第7章 ボスニア・ヘルツェゴビナ―民族という火種は消せるのか
筆者は、1996年と2006年の2度、来訪したとのこと。
1996年、筆者はまだ学生である。ザグレブのクラブで出会った若者たちはみな、クロアチア人は差別されてきたと述べ、和解は難しそうだと感じたという。また、この時、サラエボを目指していたが、既にサラエボで活動してた友人から、危険だから入らない方がいいという連絡がはいり、サラエボ入りは諦めたという。
ボスニアでは、応報的正義が優勢だったという。
デイトン和平合意により和平がなされたが、これは、平和維持軍が重石となった状況であり、この重石が外れると崩壊してしまう平和だろうと考えられている。重石の役割は、初期の国連から、NATO軍へ代わり、現在もEU軍が駐屯している。
ただ、そうはいっても、それのおかげで平和が維持されているのも事実。
分断された状況での平和ではある。
ボスニア・ヘルツェゴビナ内で、セルビア人は、スルプスカ共和国を作っている。ボスニア人とクロアチア人も住み分けている。
2006年に訪れた際は、サラエボへ行き、近郊のモスタルに行ったことが書かれている
モスタルにあった橋が再建されており、ボスニア人とクロアチア人の居住地は結ばれ行き来できるようになっているが、それぞれ住み分けている、と。
内戦時の弾痕がそのまま残されていて、戦争の記憶が風化しないようにしているが、互いの憎しみを残すことにもならないか、と筆者は懸念している。
第8章 キプロス―分断から和解は生まれるか
キプロスって内戦あったことは知っていたけど、中身はほとんど知らなかった。
というか、場所の理解もあやふやだったことが分かった。本文中、トルコの南にありって書いてあって、西じゃなくて、と思ってしまった。トルコの西にあるのはクレタ島……。
元は大英帝国で、住人達はヨーロッパ人としてのアイデンティティが強く、トルコ系キプロス人もトルコ人という意識はなかったという。
1960年独立
1964年内戦勃発
1974年トルコの軍事侵攻、南北の分断固定化
1983年北キプロスの独立宣言
例によって、多数派(ギリシャ系)と少数派(トルコ系)との間で対立が生じる
もともと、多数派(ギリシャ系)が優位な戦いであったらしい
また、ギリシャ系とトルコ系はいずれも島内全域に住んでいたこともあって、国連平和維持軍が入ってきたとき、大変だったらしい。
しかし、トルコが軍事侵攻した際に、ギリシャ系を内部に追い込み、南部に住んでいたトルコ系を北部へ移住させ、南北で分断した、と。
現在も、国連平和維持軍により、南北の緩衝地帯ができている。
首都ニコシアは、緩衝地帯のど真ん中にあり、分断されている
ニコシア国際空港は、現状を変更することが禁止され、当時の航空機がそのまま放置されているとか。
筆者は、2000年と2018・19年にキプロスを来訪している。
2000年時点で、筆者のような外国人は南北を行き来することが可能であったが、南から北へ行く際、日帰りする必要があった、と。
2018年・19年に再訪すると、約20年で自由な往来が可能になったという変化があったという。
(南)キプロスはEU加盟国だが、北キプロスは非加盟(というか未承認国家)のため、通貨はユーロではなくトルコリラだが、ユーロでの支払いが喜ばれたという。
北キプロスに対するトルコの影響力は強く、例えば北キプロスには水資源が乏しいので、そういうところも依存しているらしい。
トルコ系キプロス人にとっても、トルコの影響力を苦々しく思っているところはあるらしいが、少数派に甘んじるよりも、独立している方がまだよい、という判断があるようだ。
上述のように、元々キプロスでは、ギリシャ系とトルコ系が入り交じる形で住んでいたのが、北に住んでいたギリシャ系は南部へ、南に住んでいたトルコ系は北部へと移住させられた経緯がある(これも難民と称される)。
そしてその際、両政府間で、住居交換の取り決めがなされたらしい。無論、住人の意向は無視で。
「ハイファに戻って」みたいなことやってんだなあ、と……
こうした人たちにとっては、和平は南北分断の固定化であり、元住んでいた家へ戻れなくなることを意味するので、和平に反対となる。
民主制が和平をとめる側面もある、と。
引退を決めた大統領が和平をぶちあげるも、その次の選挙で政権交代が起きてご破算へ、となりがちだとか。
バイ・コミュナルという活動がなされている。
南北キプロスの和解・融和のための活動で、南北それぞれの住人たちが集まっている。
しかし、参加者は少数。顔ぶれはいつも同じである、という。
筆者はキプロス来訪時、南の退役軍人宅へホームステイしていたという(なお、当時筆者は、キプロス政府からの奨学金をうけていたが、奨学生がホームステイを希望するのは初めてで、担当者を困惑させたとか)。
筆者が北へ行ったり、北でのことを話したりすることも嫌がらずに聞いてくれたが、南北の交流のある場所へ誘っても、決して行こうとはしなかった、と。
第9章 ミャンマー―軍事政権との和解
ミャンマーにおける対立軸には大きく分けて2つある、と。
1つは、中央政府と少数民族との対立(1947年以来)
もう1つは、NLDと軍部の対立(1988年以来)
政府と対立している少数民族は複数あって、少数民族同士も別に同盟組んでたりはしない上に、1つの民族の中にも対立があって、かなり複雑、と。
ロヒンギャは、大英帝国支配下の際に、インドから連れてこられたとされる人たち(ムスリム)で、ミャンマーの憲法で少数民族として認められていない。
筆者は現地のムスリムに話を聞いていて、同じムスリム同士、ロヒンギャへの同情があるのかと思いきや、逆に迷惑がっていた、と。
人道支援の三つの原則
人道主義、公平性、中立性
ただし、中立性の原則は、人道支援をするための前提となる原則ではあるが、組織によって見解が異なる
厳密に守る赤十字と、そうではない国境なき医師団(中立性を守るがために人権侵害を見逃したら人道主義の原則にもとる、と考える)
国連内でも様々
何故ここでその話が出てきたかというと、国連機関は、ミャンマー政府がロヒンギャを公式に認めていないために「ロヒンギャ」という用語を使えない、という話
筆者は、軍部が再度クーデターを起こした件について、傍目には上手くいっていうようにも見えたが、内部での和解が不十分だったのではないか、と。
妥協することは、支持者から裏切りに見えることもあるが、和解のために必要である、と。
終章 現場で考える和解への道
和解を妨げるもの
指導者がどのように意思決定を行うか
軍の文民統制ないし文民化
軍部を掌握することが大事で、いかに統制下に置くか。あるいは、軍人を文官にしていく
権力闘争の穏健化と民衆の不満解消
エリート間での資源分配についてルール化する。そういう意味での「法の支配」を確立する。
民衆の不満とそれを扇動するエリートの組み合わせで紛争が起きるので、そういうことが起きないようにする。
国際社会の仲介・交渉
和解とは何か、というのは一筋縄でいかない話だが、筆者は、和解とは過去からの解放なのではないか、と結論づけている。
過去の恨みとか憎しみとか恐れとかを抱かずに生活できる状態になること。
