エヴェンキ族の90歳の女性である「私」が、自らの人生を振り返って語るという長編小説
白水社エクス・リブリスの一冊で、このレーベルはこれまでも何冊か読んでいたが、これからしばらくエクス・リブリスを何冊か読みたいと思っている。
本作は、原著が2005年、日本語訳が2014年刊行。日本未公開だが映画化もされた作品らしい。
作者の遅子建は、黒竜江省出身の作家。Wikipediaによると名前は曹植の字に由来しているらしいので、文学者になるべくしてなった人なのかもしれない。なお、女性*1。『満洲国物語』という作品もあるらしい(後述するが、アルグン川の右岸、というのは、1930年代には満洲国の支配下にあった)。
エヴェンキは、ツングース系のトナカイ遊牧民で、ロシア極東から中国北部にかけてに居住している少数民族。
アルグン川というのは、アムール川の源流の1つで、中露の国境ともなっている。アルグン川の右岸とは、中国領を指す。現在の内モンゴル自治区のあたりで、かつては、満洲国ともなっていた。
もともとエヴェンキの祖先はバイカル湖周辺にいたらしいが、300年前にロシア軍からの侵攻によりアルグン川流域へと移住。もともと、両岸に渡って暮らしていたが、本作の主人公である「私」の氏族は、右岸で生活していて、アルグン川を渡ることはなくなっている。
時代としては、20世紀初頭から2000年代前半くらいまで。
血のつながりのある3~4くらいの家族で、ウリレンという単位を構成して、その単位で遊牧をしている。時々、他のウリレンと交流があって、結婚すると移ってきたりする。
主人公の「私」の親世代から孫世代までがでてくるのと、登場人物はそれなりに多い。
冒頭に家系図が付録としてついていて、結構助けられた。
なお、「私」は名前が出てこない。これははっきり語り手である「私」の意志として、自分の名前は出さない、と語られている。
「私」のウリレンがみな、定住することを決め、山を下りることになった日が、物語中の現在で、各章の冒頭で、その現在時点での出来事が斜体で書かれている。
その一日の間に「私」が回想しているのが、物語の本体部分という構成。
朝、正午、黄昏、半月の4章構成となっているが、これは回想している日の中の時間帯に対応している(なお、半月はエピローグにあたり、回想部分はない)。
語りが非常に巧みで、次々と様々な出来事について語っていくのだが、それがシームレスにつながっていく。つまり、章の区切り以外、行空けとかで区切ることがなく、読んでいるといつの間にか次の新しいエピソードに移り変わっていたりする。
まず、トナカイ遊牧民という、日本人からするとほとんど馴染みのない少数民族の生活が描かれており、海外文学を読む際の面白さの1つである、異文化を知る、という面白さがあるのは間違いない。
ただ、人間関係から生じる様々な感情のドラマというのは、普遍性があって、その喜びや悲しみには共感することができる(とはいえ、独特の習慣に由来する感情のもつれもある)。
サマン(シャーマン)が超自然的な能力を持っていたりはするものの、超現実的な出来事が起きることはなく、ノンフィクションを読んでいるような感じにすらなる。
それはそれとして、人がよく死ぬなあという印象はあるのだが、とはいえ、90年をまとめて回想しているので、その年月の間、当然人は死んでいくわけだし、近代化されていない人々だから死亡率が高い、というわけではないかもしれない。
たた、エヴェンキの滅びがテーマでもあるので、死が多いような印象を受けるのは、むしろ作者の意図通りなのかもしれない。
凍死が多い気がするのは、この地域ならではのことかもしれない。
もちろん近代化されていないので、病気はサマンの祈祷・踊りによって治すのがもっぱらで、病院はおろか、医薬品も使っている様子がない(不妊治療の薬については交易で手に入れている描写がある)。
感染症が流行るとバタバタと死んでいくことになる(人の場合もあるし、トナカイの場合もある)。ただ、そうでない際、普通の病気や怪我で亡くなっているのはあまりないかも。
サマンの神通力が結構強くて、それによって死を回避しているのが何度かある。
その代わり、誰か別の人が死んだりする。この、誰かの死を回避するために他の誰かが死ぬ、というのが、この物語で繰り返される悲劇のパターンになっている。
20世紀後半まで、シャーマンの儀式がまだ生きたものとしてあった、というのは考えてみるとなかなかすごいことかもしれない。
遊牧民なのでテント生活をしている。そのテント(シーレンジュ)は木材を放射状に組んだもので、排煙のために頂点が空いているらしい。夜寝るときはそこから星空を見ていると書いているが、雨や雪の日どうなってるんだろう……。
そもそも本作、「私」が生まれる前に、生まれたばかりの姉がテントに吹き込んできた寒風で凍死してしまったというエピソードから始まっていたりする。
家族は1つのテントで暮らしているため、夫婦の営みは子どもの寝ている横で行われている。もっともこれは遊牧民かどうか関係なく、子どもの部屋が個室化されていなければ、どこの文化でもありうる話で、それこそ20世紀初頭なら、むしろ多くの社会でそうだったろうとは思うが、わりとそのことについての描写も多くて、ちょっと驚いた。
これはエヴェンキ族の表現というわけではなく、あくまでも「私」個人が使っている比喩表現だと思うのだが、両親の営みによる音ないし声を「風の音」と呼んでいたりする。父親が亡くなった際、母親が「風」の際に父親の名前を呼ぶ声が好きだったのに、と述べていたりして、両親の行為にそういう捉え方をするんだな、と思った。
中国側に住んでいるが、ロシアとのつながりが強いようで、満洲ができるまではロシア人商人と交易をしている。
人名について、エヴェンキの言葉による名前も多いが、イワンなどロシア系の名前のついている人も結構いる。
パンを作ったりもしていて、これもどうもロシア文化からの影響らしい。
満洲国があった際には、14歳以上の男は日本人によって軍事訓練をさせられたりしている。中華人民共和国建国後は、社会主義体制へと組み込まれていく。
ところで、商人との交流はあるし、遊牧民なので情報交換は色々とやっているのだろうけれど、基本的には山の中でずっと暮らしていた人々で、どうやってどの程度世界情勢について把握していたのだろうか、というのは素朴な疑問としてはあった。
日本人に占領されてもうロシア人はこっちに来れないんだよ、みたいな話を聞いたとき、「日本人」という存在については既に当然知っているし、ある時から、エヴェンキ同士の会話でも、当然のようにロシアからソ連に変わっているし。
まあ、ずっとロシアと中国の間に挟まれて暮らしてきているわけだから、本人たちは近代国家に属する意識はなくとも、定住民の動向へのアンテナは高いのだろうな。
というか、まあその点で、ロシアがソ連になったことを知っているのは不思議ではないんだけど、学校教育を受けていないので、どういう理解の下で把握しているのかな、というのが気になった。
第一章 朝
第一章は「私」の子ども時代の話となる。
エヴェンキとしての伝統的な生活がまだ行われていた時代でもある。
「私」の家族は、父リンク、母タマラ、姉レーナ、弟ルーニーがいて、同じテント(シーレンジュ)で暮らしている。
「私」のウレリンには、叔父ニトサマン、叔母イフリンとその家族、大叔父の子であるイワンとその家族、ダシーとその家族がいる。
ニトサマンの「サマン」はシャーマンという意味で、彼はこのウリレンの族長も兼ねている。ニトサマンと父親のリンクは、性格も対照的で、仲もあまりよくないが、「私」はどちらのことも慕っていて、ニトサマンに対して、袋の中にある神様の像を見せてもいたくてねだったりしている。
叔母のイフリンは、自分の夫や息子を嫌っており、ほかの人に対しても度々意地の悪いことをいったりしている。
第一章では、ロシア人が結構でてくる
例えば、イワンの妻ナジェシカはロシア人女性である。彼女が売られそうになっていたところを、イワンが助け出して妻にしたという経緯があり、さすがにロシア人と結婚してるのはイレギュラーなケースではある。
ナジェシカの信仰は、エヴェンキの中で暮らす中でアニミズム信仰となっていったが、とっさの際には、十字を切る癖が残っており、「私」はそれがちょっと苦手。
また、この頃はロシア人商人が、よく国境を越えてきたようで、エヴェンキの人々は、彼らの商品と毛皮を交換している。
特に、「私」のウレリンではロリンスキーというロシア商人が定期的に訪れ親しくしていた。
「私」の姉のレーナが凍死して以降、レーナを気に入っていたロリンスキーは訪れなくなる。「私」たちは、アルグン川の支流の1つをロリンスキー川と名付けている。
アルグン川は支流が多いらしくて、小さな川がたくさん出てくる。こうした小さな川やあるいは山について、結構好き勝手に(?)名前をつけているエピソードが時々出てくる。
キタリス狩りやヘラジカ狩りの話など
かつてオオカミに襲われて脚が不自由になっているダシーが、ある時、手に入れたタカを「アオムリエ(孫)」と名付け、調教し、ついにそのオオカミへの復讐を果たす。が、結局、相討ちのような形で、ほかのオオカミたちに食べられて死ぬ、という結構壮絶なエピソードがあったりす。
なお、ダシーの死後、息子夫婦であるハシェとマリアの間に子が生まれ、その子はダシーと名付けられている。
ある時、トナカイの疫病が流行り始める。
ニトサマンが疫病を治すため他のウレリンに行く際、彼の踊りが見たい「私」は着いていこうとするのだが拒まれる。そのため、トナカイなんて助からなくていいのに、という捨て台詞をはいてしまう。ニトサマンはトナカイの治療に失敗する。
疫病がおさまった後、弱くなってしまったトナカイを、他のウレリンにいる強いトナカイと交換するために父リンクが出かけていくのだが、なんと落雷に打たれて死亡してしまう。
父の死後、ニトサマンはサマンの格好(女装)をしなくなり、タマラを意識するようになる。タマラに対してキジのスカートを贈る。ただ、「私」がこのスカートを悪くいったため、タマラはこれを履かなくなる。
第二章 正午
第二章は、1932年から1944年にかけて、およそ「私」が20代から30代にかけての頃の話となる。
「私」は一人目の夫ラジタと結婚し、のちにラジタは族長となる。「私」とラジタとの間には二人の子ができる。
また「私」の弟ルーニーは、ニハオという少女と結婚。ニトサマンが亡くなった3年後、ニハオが次のサマンとなる。
第二章は、アルグン川の右岸が満洲国領になっていた時代で、ロシア人は逃げ去ってしまう。
日本人は、エヴェンキの男性を軍事訓練のために徴発する。こうして、エヴェンキたちも少しずつ時代に翻弄されていく。
1932年、日本人が満洲国を作ると、ロシア人商人たちはみなロシアへと去って行った。
日本人がロシア人を捕まえているという噂により、ナジェシカは二人の娘をつれて逃げ去ってしまった。
みなでナジェシカを探した際に「私」は山で遭難してしまう。熊から逃げ出した後、山中で「カオラオポ」を見つけそこに入り込む。カオラオポというのは、食糧などをいれてある樹上に設置された倉庫で、緊急時には誰でも使ってよいものとされている。
そして、そこで一人目の夫となるラジタと出会う。
ラジタと結婚し、ヴィクトル誕生
イフリンから、両親と叔父についての話を聞かされる。リンクとニトサマンは二人ともタマラのことを好きになり、タマラもどちらと結婚するか選べなかった、というような過去があったのだ、と。
エヴェンキでは、兄が亡くなったとき、その妻と弟は結婚することができるが、弟が亡くなっても、弟の妻と兄は結婚することができないというルールがあるので、ニトサマンとタマラが再婚することはできないし、「私」もニトサマンとタマラがそういう関係になることに拒否感があったのだが、次第に、気持ちが変わり始める。
1938年 「私」の弟ルーニーがニハオと結婚する。
このニハオという少女は、もともと、イフリンが自分の息子であるジンドと結婚させようとしていたのであるが、ルーニーがニハオを見初めてしまった。ニハオは結婚するにはまだ早い年齢だったのだが、ルーニーは電撃的に事を進めてしまう。
さて、2人の婚礼の夜、タマラは、ニトサマンから貰った例のスカートを履いて踊り続ける(若い頃、踊りが好きな娘で、リンクとニトサマンはそこに惹かれていた)。夜通し1人で踊り続け、翌朝、亡くなっているところを「私」が見つける。
本当に多くの死が出てくるが、本作の中でももっとも印象的なのは、このタマラの死のように思える。
ニトサマン、族長をラジタに譲る
吉田大尉が宿営地を訪れる。ニトサマンがシャーマンだと知り、自分の傷痕を消してみろ、と無理をふっかけるが、ニトサマンは、吉田の馬と引き換えにその傷痕を見事に消し去ってしまう。吉田は、本物だと興奮するが、ニトサマンは亡くなってしまう。
ウチロフに、日本人が「東大営」を設置。エヴェンキに対しても軍事訓練を課すといって、14歳以上の男性をウチロフへと連れて行く。
男たちがいなくなり、女だけでトナカイを管理し、時に狩猟も行わなければならなくなる。
白災と呼ばれる大雪に見舞われ、トナカイたちを見失ってしまう。
そこに男たちが帰ってきて、トナカイを探しに行くのだが、馬に乗って雪の中を駆けていたラジタは凍死してしまう。
(もともと、エヴェンキの生活に馬はいないのだが、時々、馬を手に入れることがあったりする。しかし、この話では、馬のせいで不幸になるエピソードが時々ある)
(本作では、日本による徴兵関係で亡くなっているのは、このラジタだけだが、訳者解説によれば、この時の男性労働力の減少は、エヴェンキの人口に大きく影響を与えた1つだったらしい)
ルーニーとニハオの間に、ゴーゴリ誕生
ニハオに奇行が増えるが、これは彼女がサマンになる兆候で、ニハオは新しいサマンになる。
トナカイたちの中で新しいマルー王が誕生する。
エヴェンキが飼っているトナカイの群れには、移動の時に常に先頭に立つマルー王という個体と、火種を運ぶ個体というのが決まっている。マルー王というのは白い個体で、宗教的な意味で選ばれている。
ダシーが、日本軍の偵察部隊に入って、アルグン川の左岸に行った話をしたりする。
イフリンが息子のジンドの結婚相手として、今度はジェフリナを連れてくる。彼女は、口が歪んでおり、ジンドは彼女との結婚を嫌がる。
「私」は、好いてない相手との結婚を無理強いしない方がいいのでは、とイフリンを窘めるのだが、ジンドは好きな相手(ニハオ)とは結婚できなかったし、タマラや「私」の例を挙げて、好きな相手と結婚したからといって幸福にはならない、と突っぱねる。
イフリンの夫は、イフリン以外に別の女性を好いていたのだが、親が決めた許嫁だったのでイフリンと結婚したのだが、それにより腑抜けになってしまったので、イフリンは夫を蔑視していた。イフリンの性格の歪みはこれに端を発している。
「私」は、イフリンに同情していて反論はしないのだが、心の中では別の考えを抱いている。
果たして、ジェフリナとジンドは結婚式をあげるのだが、なんと、その日のうちにジンドは自殺してしまう。すると、今度はダシーが突然、自分がジェフリナと結婚すると宣言するのだった。ジェフリナは一度元のウレリンに戻る。
この頃、「私」は1人密かに岩の上に絵を描き始めるようになる。
エヴェンキの間で「黄疸」が流行する。かつてラジタがいたウレリンでは、ラジタの弟であるラジミを除いて全滅し、「私」のウレリンでラジミを引き取ることになる。
ダシーの母であるマリアは、ジェフリナがこの「黄疸」で亡くなることを期待していたが、ジェフリナは生き残り、ダシーは宣言通り彼女と結婚する。
ある中国人がやってきてサマンに自分の子どもを助けてほしいと頼みにくる。ニハオは、その子を助ける代わりに、ゴーゴリを失う。
今後、ニハオは、度々サマンとして人の命を救うことになるのだが、その都度、自分の子を亡くすという悲劇が繰り返される。ニハオは、誰かを助けに行く際、代わりに自分の子が死ぬなという予感を抱くのだが、その運命を止めることはできない。
(なお、サマンが人の命を助ける時にやるのは、祈祷の踊りである)
1944年、戦火が激しくなり、他のウレリンと行動をともにした際に、「私」は第二の夫となるワロジャと出会う。ワロジャもまた、かつて先妻を亡くしていた。
ラジミは、彼の笛が吉田大尉に気に入られて、敗戦ぎりぎりまで日本軍と行動をともにすることになるが、ついに解放される。しかし、戻る際に馬に睾丸を踏み潰される。以降、ラジミは、トナカイの去勢係となる。
他のエヴェンキを助けるために日本兵を殴り、以後、行方知らずになっていたイワンが、「私」とワロジャとの結婚式の日に、帰還する。
第三章 黄昏
第三章は、戦後から21世紀初頭までの話で、「私」の子や孫世代の話が増えていく。
中国の定住化政策が進められ、エヴェンキの人たちも次第に山を下りるようになる。また、開発により森林伐採が進められ、山での暮らしも変容していく。
「私」とワロジャの結婚式の日に帰ってきたイワンだが、日本の軍営から逃亡した後、山中で抗日軍と出会い、その一員となる。そのまま、人民解放軍の軍人となっていく。
イワンは、時々山に帰ってきては、外の様子を伝えてくれたり、あるいは、その軍人手当で金銭や物資で援助してくれたりするようになる。
一人息子のジンドを自殺で亡くしたイフリン夫妻だが、夫のクンダはこれに怒り、イフリンを折檻したり、もう一度息子を産めと迫ったりするなどしていたのだが、イフリンが妊娠する。しかし、イフリンは妊娠中スキーで雪山に出かけて、流産させてしまう。
一方、ジンドの自殺のきっかけとなったジェフリナは、ダシーと結婚したわけだが、ダシーの母親であるマリアはこれが気に入らず、ジェフリナが誤って斧の上を跨いだ時に、斧を跨いだ女は流産すると文句をいう。ジェフリナはその後妊娠したものの、彼女もまた自ら流してしまう。
「私」は、イフリンとジェフリナが、それぞれ憎しみと愛という異なる理由で、同じ行動をとったのだな、と考える。
当の「私」は、ワロジャとの間に長女タチアナを産む(1946年)。
実はワロジャは文字を読むことができて、読書家だったりしている。
ワロジャは、はっきりとは言わないが、おそらく子や孫には最終的には定住して中国社会で生きていくことを望んでいたような節がある。タチアナを学校に行かせることは「私」が反対するが、ワロジャがタチアナに文字を教えることになる。
ワロジャが「私」のウレリンに入ることになり、ワロジャの氏族のメンバーも部分的に合流することになった。
その中の一人に馬糞茸がいる。彼には娘のリューシャがいるのだが、母親が別の民族の女性で、馬糞茸とはうまくいかず去って行った。そのため、馬糞茸はリューシャに暴力を振るうなどきつくあたっていた。
それ以外にも、ワロジャのことを批判するなどしていて、イフリン、マリアとともにこの時期、ウレリンの雰囲気を悪くする一人であった。
そんな馬糞茸が熊の骨を詰まらせて死にかけ、これをニハオが助けるのだが、例によって例の如く、代わりにニハオの娘ジョクトカンが死ぬことになる。
何故あんな男のために、という雰囲気が漂うのだが、翌日、馬糞茸は自らの手で去勢を行い許しを請う。この後の馬糞茸は、言動を改めることになり、みんなに受け入れられるようになる。
ニハオは再び娘を産み、戻っていたイワンがベルーナと名付ける
1950年 ウチロフに合作社(協同組合)が出来て、そこで毛皮等と日用品の交換をするようになる。
ウチロフにいった帰り、ラジミは宿の馬小屋に捨てられていた赤ちゃんを拾い、マイカンと名付けて育てるようになる。エヴェンキではない女の子で、美人に育つことになるのだが、ラジミは彼女を溺愛し、また本当の親が取り返しに来るのではないか、ということを恐れる。
1955年 ヴィクトルとリューシャ結婚
「私」が生涯の中で一番豪華な宴だったと述べており、食べ物の描写が結構豊富だった。
ヴィクトルにはアンドルという弟がいるのだが、愚鈍エピソードなどが触れられている。ここでいう愚鈍は、おそらく知的障害児のことかと思われるが、どの程度のどういう障害なのかはもちろん分からない。ただ、愚鈍と呼ばれている。
ニハオが他の氏族の酋長の葬儀のために離れていた時、奇形の仔トナカイが生まれる。奇形のトナカイは不吉とされているのだが、果たしてニハオの子エルニスネ(ベルーナの弟)が事故にあって亡くなる。ニハオとルーニーは、帰り道の途中で崖から落ちて奇跡的に助かっており、エルニスネはその身代わりになったのだとニハオは言う。
イフリンとマリアを引き離すため、ウレリンを2つに分ける。
リューシャが九月(ジウユエ)を産む
開発による伐採が進む
中国政府が、ウチロフにエヴェンキの居住地を作る。
マリアが亡くなり、イワンも山を降りたことで、マリアがいた方の人数が減ったので、ウレリンは再び一つに
ウレリンが2つに分かれていた際、アンドルはワーシャという女と結婚するのだが、このワーシャ、いわゆるあばずれで、結婚前に複数の男と関係をもっていたらしいことが後に示唆されている。他に許嫁がいたのだが、何故かアンドルとも関係をもち、妊娠してしまったため、結婚することになる。
アンドルは、ワーシャとした際に顔を引っ掻かれており、ワーシャを嫌がっているし、ワーシャもアンドルとの結婚を全く望んではいないのだが、子ども(アンツォル)ができたので仕方なく結婚することになる。
山の外で大飢饉が発生する(作中明記されていないが、というか、中国の読者には自明なのだろうが、大躍進政策後の三年大飢饉のことかと思われる。自分は知らなかったのだが、Wikipedia見て戦慄した)
飢饉によって飢えた3人の漢人が、トナカイを泥棒する。彼らを捕まえることに成功するのだが、一番若い1人が死にかけている。巫女がいるんだから助けてくれよ、と言われてしまう。ベルーナは、自分の母親が誰かを助けると代わりに子どもが死ぬことを知っており、怯える。「私」もニハオに対して自分の子を大切にするように言うのだが、ニハオは神降ろしの舞をする。その時妊娠していたニハオは、死産してしまう。
サマンは、舞を踊ると自作の歌も歌うのだが、この時ニハオは、名前もつけられずに亡くなってしまった我が子の喪失を嘆く歌を歌っている。
その後、ニハオは麝香の匂いをまとうようになる。エヴェンキの間で麝香は避妊効果があるとされていて、「私」たちはニハオの悲しみの深さを感じる。
もっともニハオは立ち直り、1964年にマクシムが産まれている。
エヴェンキには「呼鹿笛」という鹿の鳴き声そっくりの音がでる笛があって、これで鹿をおびき寄せて狩りをする。
男たちが二手に分かれて鹿狩りにいったときのこと、ヴィクトルとアンドルが呼鹿笛を吹いていたのだが、誤って兄ヴィクトルが弟アンドルを撃ってしまうという事故があって、アンドルは死んでしまう。これ以来、ヴィクトルは塞ぎ込む。
1965年、中国政府は、ウチロフに代わって、激流郷というところにエヴェンキの定住地を設ける。
山での生活ができなくなってしまったヴィクトルとその妻リューシャ、高齢による身体の不調からイワン、イフリン、クンダ、ハシェ、不妊治療を目的にダシー、ジェフリナ、若く他の場所での生活への好奇心からタチアナが、それぞれ激流郷へ下りる。
多くのエヴェンキが激流郷へ移住したが、そこでの定住生活は、やはりエヴェンキにとっては不自然なもので、数年すると山へ帰っていく者も多かった。
「私」のウレリンでも、イフリン、クンダ、ハシェ、タチアナは山へと帰ってくる。
激流郷にいた頃、タチアナは中国人の教師とエヴェンキの青年と2人の男性から求婚されていた。「私」はエヴェンキの青年との、ハロジャは中国人教師との結婚を望んだが、タチアナはエヴェンキの青年との結婚を選ぶ。
ラジミはとにかくマイカンを溺愛しており、男を近づけないようにしている。
ハシェが病気になる。自分が身代わりで死ぬことになるのではないかという恐怖に駆られたベルーナは失踪。ハシェはそのまま亡くなる。
1968年、「私」の孫で、タチアナの娘となるイレーナ誕生
スパイ疑惑をかけられたイワンとダシー。イワンは亡くなり、ダシーは脚に障害を負う。
翌年、クンダとイフリンが相次いで亡くなる
1972年 脚を負傷後、狩りに参加できなくなったダシーは、女性の仕事をするようになっていた(男が狩りをして、その後、肉を切り分けたり皮を鞣したりするのは女性の仕事)が、自殺してしまう。直後、ジェフリナも後を追う。
1974年 今度はワロジャが亡くなる。
映画の上映技師が地方を回って上映会をしていることを知ったワロジャが、宿営地に上映技師を呼ぶ。近くの別のウレリンからも人が集まって、みなで映画を見て盛り上がる。
翌朝、アンツォルが、映画に出てきた人たちの分もお茶を入れていたという、アンツォルも父同様、愚鈍だが、心優しいというエピソードが挟まれる。
ワロジャと馬糞茸は、上映技師を送ったのだが、その途上、熊に襲われ、ワロジャは馬糞茸と上映技師を守るために熊に反撃するも、間に合わず死んでしまう。
「私」は、ラジタとの出会いのきっかけが熊で、ワロジャとの別れもまた熊だったのだな、と。
1976年、 ヴィクトル亡くなる。「私」は野辺送りに参加せず。
九月が結婚しリューシャは帰ってくる
タチアナは上の娘のイレーナを学校に入れ、下の娘のソーマとともに帰ってくる
アンツォル結婚、双子の父になる(母の方はお産で亡くなる)
1980年、マイカンに対するラジミの溺愛・過保護ぶりは全く変わらず、マイカンは結婚できぬまま30歳となってしまった。初めてマイカンはラジミに反抗し、父親の分からぬ子を産むと自殺してしまう。
当初、ラジミはこの子(シーバン)を疎んだが、樹皮を噛むのが好きな様子を見ていて、シーバンを受け入れていく。
「私」の孫娘であるイレーナは学校に通っているので普段は山にいないが、休みの時に山での生活をしている。「私」はイレーナに岩絵を教える
イレーナは順調に進学していって、ついに大学生となる。美術系の仕事につく。
そうした中知り合った人が、実はマイカンの甥であることが分かる。父親の遺志でマイカンの行方を捜していた。
馬糞茸、孫の九月にあうため激流郷へ向かう途中、材木を運ぶトラックと繰り返しすれ違ううちにトラックにキレて発砲、運転手たちに殴られ転倒死。
マイカンの遺児であるシーバンはエヴェンキ語が好きで、エヴェンキ語のための文字を創りはじめる。
イレーナは、都会生活と山での生活をいったりきたりしている。都会に倦んで山に戻ってくるのだが、しばらくするとここにはあれがない、これがないといって、また都会へ戻るといったことを繰り返している。山へ帰るとイレーナは絵を描いている。また、ある時、毛皮のパッチワークを絵にすることを思いつき、これで一度有名になる。
「私」はイレーナが使う絵具とか、あるいは毛皮を使うことについて、内心よくは思っていないが、それは言わず、見守っている感じ。孫が都会と山の間で苦しんでいるのは分かっているが、かといって何かを積極的にやっているわけでもない感じがある。
1998年、大規模な山火事が発生する。
ニハオは雨乞いを行い、これが彼女の最後の神おろしの舞となる。
ニハオが亡くなったことをどこかで知り、ベルーナが戻ってきて、ニハオの葬儀に参列する。しばらくして、ルーニーもあとを追うようにして逝く
ニハオの最後の舞を見て感じ入ったイレーナは、2年をかけて絵を描き完成させる。川に絵筆を洗いにいくも帰ってこないので探しにいくと、亡くなっていた。
(新世紀になった年、とあるので、2001年のことだと考えられる。33歳ということになる)
終章 半月
第一章から第三章の各章は、章の冒頭に、現在時点のシーンがあって、その後に回想が入るという形になっているが、第三章までで回想が現在に追いついたので、終章は、現在時点のシーンのみ
イレーナの死後、タチアナがエヴェンキの定住化に奔走し、激流郷とは別の街への定住につながった
イレーナの妹であるソーマや、アンツォルの双子の子どもの片割れの素行が悪い様子なども描かれている(このあたり、わりと淡々と描写されており、「私」の見解もあまり挟まれていなかったところではあるが、近代化が進む中でうまく適応できなかったという事例なのだろう。先住民族としての生活はもう先がなく、かといって学校教育にもうまく馴染めず、という感じだろうか(ソーマは、イレーナと違って成績が悪かった。イレーナは、エヴェンキとしては一種の成功者なのだろうが、幸福な人生だったかどうかは、一概にいいにくい)
「私」はウチロフも激流郷も一時的に住むことはあっても定着しないだろうと考えていたわけだけれど、今回の定住について、「私」以外は全員賛成票を投じていた。
「私」とアンツォルのみが山に残り、トナカイも半分以上は山の下へと連れて行くことになる(ところで、エヴェンキの定住化については、トナカイがネックになっている描写が時々出てきている。トナカイの食料を維持するためには、移動が前提となりがち)
狩猟についても状況が変わっていて、90年代ころから猟銃の所持が禁止されてしまっている。
「私」は、シーバンも残るのではないかと思っていたが、ラジミについていくためにシーバンも山を下りることを選んだ。しかし、いずれまた戻ってくるだろうと「私」は思っている。
ムクレン(ラジミが得意としていた笛)と名付けられ、シーバンらとともに山を下りていた白いトナカイが帰還するシーンで、物語は幕を閉じる。
訳者あとがき
筆者の遅子建は、黒竜江省のアムール川沿いの北極村出身で、子どもの頃から、漢民族ではない山の先住民の存在を知っていた。
中国北部を書く作家として知られる。
編集者からエヴェンキ出身の画家(イレーナのモデルとなった)について教えられ、エヴェンキについて書くよう薦められたのが、本書執筆のきっかけ。
エヴェンキについて
清朝では「ソロン部」として八旗軍に組み込まれた。活躍していたようだが、これによって人口が減ったという話もある。
満洲国も彼らのことを調べていて、「馴鹿オロチョン」と呼ばれていた。
本書にある通り、男子は徴兵されたためこの男子による労働力不足や、結核の流行がエヴェンキの人口を減らした。
また、日本人はオロチョン族にアヘンをもたらしたとされていて、エヴェンキもアヘンの影響を蒙ったとされている。
エヴェンキは現在、中国の少数民族の中でも人口の少ない民族のようである。
あらすじを長々と書きすぎてしまった
これは、なんというか自分に短くまとめる能力がなくて、ダラダラと書いてしまったというだけのことに過ぎないのだが、
少しもっともらしいことをいうと、諸々のエピソードが実はつながりあっていて、なかなか省略できないところもあるんじゃないかなと思う。
90年間の人生の思い出を、ただ徒然と語っているようでいて、しかしやはりこれは小説なのであって、物語として構築されたものでもあるんだろうな、と。
ものすごく大雑把にまとめてしまうと、時代の流れの中で次第に生きる場所を失っていくことになった少数民族の悲哀の物語、と言ってしまうことはできる。
実際、第三章の後半、畳みかけるように次々と人が亡くなっていくのは、まあ主要人物の年齢の問題もあるとはいえ、滅びを感じさせるものはある。
とはいえ、一方で、語られている内容の多くは、家族らの人間関係の積み重ねだったりもして、外側からの影響ももちろん色々あるけれど、コミュニティの内側での問題も多く描かれている。
そして、そこから織りなされる感情の襞は、なかなか一言では表しにくいものがあって、そこはやはり、文学なので、ただ単に悲しいです、というだけではない。
例えば、男女の愛というものになんの信頼もおいてないイフリンに対して、「私」は愛する夫との生活に明らかな幸福を得ていたのだし、最後に山に残る選択にしても、何かまだ希望のようなものを抱いている終わり方になっている。
